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明暗二つの呆然~「玉三郎の素踊りと夜空」と・・・~

今月は、「和」の世界の対照的な二つの出し物をみた。
一つは「芸術」に昇華されていて、もう一つはエンターテーメントにすらなりえていない残念なもの。

玉三郎の素踊りと夜空

玉三郎丈の踊りは30年位見続けているけれども、素踊りは皆無。それが今回、見れるということで、「お話&素踊り」の全国ツアーの1箇所にいってきた。

お話もとても上手で興味深い話しもきけた上、なんと、「日本振袖始」での奈落での<姫→大蛇>に10分で早変わりする様子のビデオを玉三郎の解説付きでみたり、多いに楽しめた。
(残念なことに、「この作品はもう演じることがないので、舞台裏をお見せできます」というサラリとした一言があった)

後半は、素踊りで「雪」
日ごろはありえない録音テープでの舞。
着流し姿で傘をもち、静かに踊る姿は言葉も出ない程に美しく繊細。
セットもないのに、シンシンと降る雪の中に佇む傾城というのが、うかびあがってきた。
衣装も鬘もいらない、超越したところにもう玉様はいってらっしゃるのね。

緞帳が降りた後も、しばらくは呆然としていた。
ようやく腰をあげ劇場をでて見上げた空には、美しい三日月が浮かんでいた。
雲ひとつない藍色の空にくっきりと浮かぶ三日月は、まるで舞台の後幕のようで、涙が出るほどの感動だった。

長い観劇人生で、劇場と劇場外の風景が繋がっている体験は初めてのこと。
こういう体験はめったにできない。
彼の素踊りが芸術の域に達しているからこそ起きる不思議な現象のようにも感じた。
「芸術とは、美であること。美とは真理がそこにあること。」というのが私の持論である。
まさに、玉三郎の舞は、美であり、鑑賞者に確かな真理を感じさせてくれるものがあった。
そして、その真理とは何か?の回答が、劇場から出た時の「夜空を見上げた時のあの感覚」なのだろう。と思う。
一生に一度あったらいいね。というような体験だったと思う。

「芸術」品を理解できない業者が関わることの失敗

もう一つの出し物鑑賞は、十二単の着付けショー。
十二単は平安時代に完成していた「装う衣」としての「芸術」だ。
色使い、形、そして着付そのものが「衣文道」として芸術まで昇華されている。総合芸術衣装だ。
それを、「魅せる」ショーを作るイベント会社が、全く芸術を、和の世界を知らないという不幸が、あのおぞましい空間を作ってしまったのだろう。

「和」の舞台で照明を青にするということは、「人間でない化け物」を表現する時だ。それを知らない業者は、全体を青い照明にしてしまっている。
青が入ることで、衣装の色もわからなくなる。
「和」の照明は乳白色だけでよいのだ。ちょっと調べたり勉強すればわかることなのに、それをしない愚かさ。
十二単着たモデルを階段下ろす愚かさ。
それを介添えするのが黒スーツきたイベントスタッフ。
モデルの引っ込み扉がロビーへの扉で、二重扉を二枚ともあけるから、ロビーという現実空間を客にみせて興ざめさせるという愚かさ。
ここまで愚かさを結集したイベントは見たことない。
「芸術」を扱うという自覚がないイベント会社なのだろう。
(そして、そこに委託してしまう主催者も自分達が芸術を理解していないことが露見してしまう)

十二単という芸術品、芸術的なまでの着付け動作、そのどちらもいかされない大変不幸な出し物になっていたのが、残念で仕方がない。
前者の感動とは間逆の、「人生でこんな酷いものみたことない」という終わった後の呆然さはお初だった。

同じ月に、
感動の余りの呆然する体験

愚かな人間が作る酷い演目に呆然とする体験
どちらも体験した。

願わくば、後者のような愚かな出し物が二度とこの世に生まれないことを強く思う。
そして、玉三郎が与えた感動をしっかりと自分の中に刻み、その感覚を忘れないでいたいと思う。