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不快だからこそ大事にする

怒りは、二次的なもの

本当の気持ちを隠している

本当はどうしてほしかったのかな?

大切に扱われてほしかったのかな

優しくしてほしかったのかな

認めてほしかったのかな

悲しかったの

いろいろ質問していくと
なんとなく、そんな感覚がピンとくるものがある

一番見たくないこと

私なんかは、上記のものが
ごっちゃまぜにある

今はかなり受け入れられるように
なってきたのかも、、

お姫様のようにしてほしかったんよね

大事にされてないかも、、
なんて受け入れたくない、
私は幸せなんだから、って

でも本当の恐怖は

私は誰からも受け入れられてないかも
愛されてないかも、等

なんだかみじめな自分を観たくない
受け入れられないが
無意識に回避行動やら逃避してしまうのである

変なプライドだけが
自分をつくって、守りに入り
怒ってみるものだ

心の中は闘争心でいっぱいだ
自分を守るためにね

自分は「特別」なはず

なんて思いたいのだ。

責めるのではなく
そう感じている感覚を
ありのままに受け入れていくだけでいい

そうしたらもっと楽なのに

人は誰しも特別感が欲しいのだ

承認欲求という「病」

親から、欲しい形の「愛」を
受けとれてなかったからだ

もちろん親は愛していた

ただ、私たちが、、
欲しい愛の形ではなかったことに
勝手な解釈をしてきている部分が多くて

その欲求が、欠乏感を徐々に大きくする

その欠乏をなんかしらで埋めようとするんだけど
無意識ってやつで執着も手放せない

このシステムをしっかりと知ることで
自分で満たしていけるよ

承認欲求は一時的な 麻薬のようなもの

自分でしか埋められない自己愛


愛している
パートナーでも誰でもないのだ

なぜなら、愛してくれていても
自分の心が満たされずにいるから、、


外側のネガティブな現象は、
内側の世界が作っている

これを話すと、今度は
自分を責めだしてしまう人がいる

そうではなく、、

ただ、受け入れるだけなのに
ありのまま、に


「そうなんだね」って
共感するだけでいい

少しずつ力を抜いていってみよう

本当にシンプルなのだけど、、ね
身体がまだ緊張していたりする


女性って特に、そうじゃない
ただ聞いてほしいってときある
それだよ

ちょっと難しいかな、


この痛みは、「源」に繋がるツールなのだ

この源と繋がることが
原動力になっていくのだと思う


自分の思いに蓋をせず
そのまま感じていく

出来事には理由がなく

ただ身体が、それらをきっかけに
出している、

生れる前の設定と
幼少期の体験から

ソースが何を訴えているのかは
その痛みからでしか見えてこない

分離している痛みは
対話したがっている

そして、少し高度な味方になるけど
反応しているのは私ではない

反応しているのを見ている私が、
「私」だということ

この「私」を成長させていくこと


ここまで
お読みくださりありがとうございました








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