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「言葉」は、誰のために。

 映画「三島由紀夫vs 東大全共闘 50年目の真実」を観た。1969年5月、大学生による安保闘争の最左翼の東大生1000名と、天皇礼賛によって右翼と目されていた作家であり時代を代表する「スター」でもあった三島由紀夫が、東大駒場キャンパスの900番教室で公開討論を行った時のTBSによる記録映像と共に、三島の辿って来た人生や当事者へのインタビューを織り交ぜた構成となっている。三連休前の平日昼間だったが、客席は予想外に埋まっていた。
 
 なぜ、いま、この映画が制作されたのかは明らかだ。ネットやSNSを通じた無責任な言葉や意見が蔓延する現代への警鐘に他ならない。

 ここで描かれているのは「言葉の決闘」だ。東大全共闘髄一と言われた芥(あくた)正彦との論戦では、三島がたじたじとなる場面もある。だが、そこにはお互いへの「敬意」があるのだ(遠方の席から野次を飛ばす学生に「壇上に上がって来て言え!」と芥が怒鳴る場面がある)。「日本語」という共通言語を使い、しっかり相手と向き合いながら、決して罵倒したりも揚げ足とりもせず、自分の主張を相手に理解させようとしている。

 いま、新型コロナという敵との闘いに直面し、世界中の元首やリーダーが器量を試され、映像やネットを通じて、その器量が国境を越えて測られている。ニュージーランドのアーダーン首相をはじめ、国民に真摯に向き合っているリーダーも多い。だが、我が国のリーダー達の言葉が「届かない」ように感じるのは、なぜだろう?それは、国民ではなく目の前にいるメディアに向けられたものだから、だと気づいた。

 映画を鑑賞した後、三島による天皇論の代表的な著作「文化防衛論」を読んでみた。だが、その内容がよく理解できないのだ!映画の最後で、現在の芥氏が言う。「(討論が行われた時代は)媒体としての言葉が力を持った最後の時代」だったのだ、と。

 子ども達の言語理解力が問題となっている。しかし、私たち日本人全体が、映像などの力を借りずに、言葉を言葉として理解する能力を失いつつあるのかもしれない。

 映画では、立場こそ極端に異なるが「共通の思い」で闘っていることを、互いが理解するようになっていく。それは、日本という国や日本国民という存在としての「主体性」だ。


    三島は戦争によって同世代の多くが命を奪われる中で、生き残ってしまったという思いを抱えて戦後という時代を生きて来た。再び、日本や日本人がアイデンティティを失うことのないよう、必死に次の世代に訴えかけて来たのだということがわかり、やるせない気持ちになった。

 亡くなる1年前に執筆した「果し得ていない約束」は、この一文で締めくくられている。

 私かこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。

 そうならないために(そうなってしまっているかもしれないが)。私は、「言葉」から始めてみよう、と思う。日本人としての言葉を取り戻し、それを正しく使うことから、改めて自分とは何か、のアイデンティティを再確認して行きたい。

#映画 #三島由紀夫 #コラム


 

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