なまえ_sayo
[なまえ ]
1964年 昭和39年 11月2日 10: 24
サヨ-29歳の頃の出来事
今日は名前の由来について書いておこうかな。
29週目で生まれてきたこの子は、
出生体重が1820gしかなくて、とても小さな赤ちゃんでした。
一カ月が過ぎ 予定の退院の時期が来ていたけど、生まれた時があまりに小さかったため、なかなか予定通り体重がふえず入院が伸びてしまった。
あれから1カ月、退院の日が来た。
sayo「やっと一緒に家に変えれるね」
sayo「ほら、あなたも抱いてみて」と旦那に声をかけてみた。
kenji「いいよ!落としそうで怖いから」と てれて先に行ってしまった。
[ 親の一文字 ]
この子が入院している間に二人でどんな名前がいいか話し合った。
sayo「ケンちゃんはどんな名前がいい?」
kenji「そうだな~ シンジとか?」
sayo「え!・・・どうしてその名前がいいの?」
kenji「シンジ?・・・なんとなく~」
sayo「なんとなくって・・・!」
sayo「私はケンちゃんのような優しい人になってもらいたいから憲という1文字と新しく生まれた大切な命だから一日一日を大切に生きていく生という字を付けたい」
kenji「そか~じゃあ憲生だな。」
ケンちゃんは、優しいというか弱いというか自分の意見を押し通せない人なのです。
・・・それには理由が有りました。
[ 日本敗戦後の思い出 ]
1950年 昭和25年
サヨ-15歳の頃
日本は、戦争に負け多くの人が亡くなりアメリカの捕虜として貧困な時代が続きました。
戦争の犠牲となった国民は植え苦しみ 食べるものもなく 農民は男手がほしく 街では女手が求められました。
戦争が貧困を招き口減らしのため子供の売り買いが普通行われる時代でした。
※口減らし(くちべらし)家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子にやったり、養うべき家族の人数を減らすこと。
ケンジと私は、幼なじみで私の家に来ては、一緒に遊ぶ仲でした、
私の父もケンジの事を我が子の様に可愛がっていました。
戦争で父親をなくしたケンジの家では、
働き手が無くなり生きていくため働き手として身元の無い兵隊さんを家に招き 兵隊さんは、家族として生活するようになりました。
その頃からケンジの居場所は少しずつなくなりました。
ある日、兵隊さんは闇市に買い出しに行くため夜、荷物持ちとしケンジを一緒に連れていったそうです、
汽車に乗って山を越え、どれくらいたったでしょうか山の中の小さな駅に付きました。
そこは、列車を止めておく車庫のような所で人込みの中に生活雑貨や食べ物を売り買いする人がたくさんいました。
兵隊さんは、
野菜、卵、肉、・・・食材や油、薬などを買い、荷物を汽車に乗せてくるからここで間っていろと言われ、言われるがまま貨物列車の車輪にもたれ休んでいました。
次第に1人2人と人が減り気づいた時は誰もいなくなっていました。
そこで気が付いたそうです、
捨てられたと・・・。
ココがどこかも分からず、真っ暗な貨物の下で泣きながら一夜を過ごしました。
翌日、貨物の下で寝ていたら母親が迎えに来てくれて無事 家に帰える事が出来たそうです。
しかし、その後も何度も捨てられそうになったと言っていました。
[ 家族になりました ]
当時、私は母方の親戚の家に口減らしのため幼女としてもらわれることになりました、その代わりに私の家では男手がほしくケンジが働き手として養子としてもらわれてきました。
あれから10年あまり、
成人となった二人は、父の進めで結ばれました。
sayo「貴方には、家の事で小さな頃から色々と苦労かけたね。」
kenji「そんなことないよ、君のお父さんのおかげで今こうして生きてるから・・・」
「父さんに養子にしてもらい感謝している、おかげでここまで生きてこられたよ。」
小さな頃から私の家に来て家の手伝いをし、
養子となり働き手として賃金の無い労働を大人になるまで続けてきて肩身の狭い思いをしながら生きてきたと思います。
kenji「生きてこれたから、それだけでいいんだよ、この子には同じ思いをさせたくないから・・・」とケンジは話してくれました。
sayo「この子は貴方のような優しい人になってくれるでしょうね。」
この人も私も貧しい戦争時代に同じ思いで生きてきたと思います。
つづく
[ 青の日記帳 / エンディングノート]
ご観覧いただきましてありがとうございます。 コメントなど頂けますと継続していく励みになります、 サポートいただきました ご支援は制作のための設備に使わせていただきますのでよろしくお願い致します。 今後ともよろしくお願い致します。