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シャガの花束を君に

抗う

こんなことをずっとやってきたように思える人生だった

誰かに屈服させられて当然のように悲しんだり苦しんだりしていた、ただここにきて、私を屈服にまで追い込んできたものに向き合うことが多い数ヶ月だった、折角の機会なので纏めておきたいと思う


学歴まじで関係ない

ここ最近まで学歴コンプレックスがあった

偏差値が47までしか出すことが出来ず、それに劣等感を覚えることが大半で自分は社会的に容認される存在ではないと思い込んでいた

だけど、これは大きな間違い

学歴はよくも悪くも関係ない、何故なら学歴が無かったとしても私は十分に容認される

人と話した時に誰かに感謝されたり、面白がってもらったり、喜んでもらったりすることが何せ多い、ずっと不思議だった『なんで学歴のない自分にこんなにも人は集まってきてくれるのであろうか?』

私は学がないので学術的な話は全然出来ない、だけど物事の仕組みを少なからず読み解くことは出来る、要は分かることしか話していないのだ

分かることを分かる部分だけ話しているだけ、それだけで人は興味を持ってくれたり、聞き入ってくれたりする

だから、学歴はまじで関係ない

邪険な常識

邪険とは「意地悪く無慈悲で荒々しいこと」という現象のことをさすが、人の言動や行動にはこの邪険が含まれていることが多い

『これが出来ていないからダメ』
『これをしなければダメ』

そういう世の中の常識を振るいかざして誰かの個性をめったざしにしてくる、そのような側面が現代の人にはある、人と人とが手を取りあうための秩序や一定のルールは必要ではあるが、必要以上の強要は果たして必要であろうか?

私は人より好奇心が旺盛で沢山のことに触れてみたいと思う傾向が昔から強かった、ただそれを日常生活で体現すると前述のような常識に制御させられることが多かったように思える

必要以上の強要に日々心は削がれ自尊心は低くなっていってしまった、だからこそ改めて思うは

「その常識必要ですか?」

人の個性を阻害する常識は正直いらない、そこを見極めながら人と強調していくことが現代には足りない部分だと自分は思っている

ストレスの粒

ストレスの粒という感覚が自分の中にはある

数ヶ月前に適応障害になった経験やそれまでに仕事の重圧などで何度かその際まで行きかけたことがあるので体感として「粒」みたいなものを感じとれるようになった

ただこの粒を観測するようになって思ったのが、あまりにもこの負荷を受ける機会が多すぎる

ちょっとした人からの言動、行動を目の当たりにした途端に粒を感じ取れる、これをイチイチ真に受けていたら正直こちらの身が持たない、なので最近は認めるように意識をしている

そういった目線で日常を眺めていると、それらにはまともに対応せず受け流している人が多くいることにも気がついた、それはそうだ、生きているだけで傷つけられるのだから受け流すことに身を徹するのは当然のこと

ストレスを感じるのは当たり前、だから自分の身を心を守るために何かしらの対応をするに然るべきなのだ

じっくりと生きる

自分が適応障害になっている時に「じっくりやろう」という言葉に出会った

この言葉を何度も何度も心の中で繰り返し、明日が来るのが相当億劫だったけどそれでも抗い続けて生きてきた

成果が出なくたっていい、落ち込んでしまってもいい、苦しくなったっていいよ、まじで全然いいよ

人は人と比べすぎている色々なことに、それに屈服させられて息がしづらいようじゃ話にならない

じっくりと生きよう、じっくりと丁寧に生きた先に幸せな人生というものに巡り会える、そんな気がするから

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