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大切なもの

窓の外から聞こえてくる下校中の子供たちの声が家に広がる静寂の中で絡みつくように入り乱れていた。出張で家を空けている夫が戻るまでこの家には誰も帰らない。

夜になって眠りつこうとすると決まってあのサイレンが耳の奥で繰り返し響いて、冷たい夜を何度も頭の中に蘇らせた。そんな埋まらない空白を塗りつぶそうともがいては、打ちひしがれるだけの時間が繰り返し流れていた。

リビングに置かれたままになっている子供用のダイニングチェアには小さなクッションが取り付けられたままになっている。

肘掛や脚の部分に貼り付けられたシールたちの生暖かい感覚に指で触れると私の胸は焼け焦げてしまいそうだった。

学年が一つ上がっていれば私も外の声に耳を傾けて下校の報せを受けながら、家事を片付ける家の中で息子の帰宅を待つ暮らしがあったはずだった。

私はほとんど取り憑かれたように和室にある仏壇の前に足を運ぶ。

仏壇の前に座って手を合わせながら私は心の中で自分にまた鞭を打つ。
こんなことを何度繰り返しても現実の無情さを嚙み締めるばかりで、何も変わらないと心のどこかで分かりながらも、それでしか気持ちを落ち着けることが出来ない私は何度も同じことを繰り返してはやりきれない気持ちに苛まれていた。

命の暖かさを両手に感じながら小さな体で生まれた息子を抱いたあの瞬間を私は死ぬまで忘れない。

小皿の上のプリンは甘いものが好きだったあの子の笑顔を浮かび上がらせる鏡のようで、鞭で破けた私の心から生きる気力を抜き取るように奪い去っていく。

器に出された好物のプリンを見てはしゃいでいた姿を今も昨日のことのように思い出す。

(どうして?なんで?)

そんな疑問の渦は今も嵐のように吹き荒んでいて、どこへ行っても何をしても鳴り止むことを知らなかった。

(誰のせいでもない、自分を責めちゃいけない、頑張ってよく闘ったよ)

どの言葉をもらっても「私がもっとしっかりしていれば」という想いは拭うことはできないままで、それが私を今もひたすらに支配していた。

部屋に飾られているカレンダーは新しい表紙を覗かせていて、それが葬儀からすでに一ヶ月以上経っていることを知らせていた。虚ろな時間の波に飲まれて日常という感覚をどこかにさらわれたままの私の身体は、その所在ももう分からなくなってしまっていた。

でも、そんなことは全くどうでもよく思えた。

大きな皿ばかり重なるシンクの中に水が流れる様子をしばらく眺めていると2階から軽い足音が降りてくるのが聞こえて来た。

聞き覚えのある愛しい音が降りてくる。

傀儡のような体に魂が戻ってきたような気がした。靄のかかった眠りの中から覚醒したように我に帰った私は慌てて廊下へと走り出た。

身体が一個の心臓になったようだった。全身が脈打つのを感じながら覗き込んだ廊下に人影はなく、そこにはただ何事もない空間が窓から差し込む光の線と共にフローリングの床の上に転がっていただけだった。

手に残ったままになっていた洗剤の泡はそのまま床にこぼれ落ちると瞬く間に弾けて跡形もなく消えていった。

騒がしかった体の脈が静寂を取り戻すと全身の力が一気に抜けてしまい、私はその場にへたり込むように腰を落とした。

うなだれて無機質な木目に涙の粒を落としていると玄関の扉を叩く音が突然鳴った。すりガラスの向こう側には小さな子供の影がある。

言葉にならない叫びが思わず漏れた。

大きな足音を立てながらフローリングの床を駆けて急いで玄関の扉を開く。開いた扉の向こう側にはのどかな昼下がりが広がっているだけで、すりガラスの向こうに見えた子供の姿はどこにも見当たらなかった。

けれど視界の端に捉えたものが私にそれが幻ではないことを告げていた。

誰もいない玄関前にはしまっておいたはずの息子の靴が綺麗に揃えて置いてあった。黒とシルバーを基調にしたデザインのそれは息子がカッコイイと言ってずっと履いていたお気に入りのものだった。

私がそれを拾って抱き上げた瞬間、子供の影がすっと玄関先の門を出てその前の通りを走って抜けて行くのが見えた。

それは近所の公園に遊びに行く時によく見た息子の後ろ姿そのものだった。

私は息子の靴を抱いたまま「待って」と繰り返し叫びながらその後を走って追いかけた。

家の小さな門を出たところで見失ってしまった後ろ姿を前の通りに出て探していると、私の体を包み込みながら吹き抜けた風がまるで吸い込まれるように近所にある公園の方へと流れていった。

(どうかもう少しだけ)

すがりつくような想いで頭がいっぱいだった私には、それが「こっち」と呼んでいるような気がしてならなかった。

アスファルトの粗い凹凸にやっと気がつくと引き込まれようにして公園の柵の間を抜けていく。

公園には小さな子供たちが元気な声を出して遊んでいる姿があった。その中でも体がひと回り大きい一人の少年が私の方に近づいて来るのが見えた。

「けんたくんのお母さん?」

少年は私の前まで来ると顔を覗き込むようにしてそう言った。少年の目元はどことなく息子に似ていた。大きくなっていたら似たような顔つきになっていたのかもしれないと思うほどに。

少年の口から突然「健太」という言葉が出たことに息を詰まらせながらも

「健太のこと知っているの?」

としゃがみながらゆっくりと私は少年に尋ねた。

この少年が息子のことを知っていると信じて疑わなかった自分を不思議に思いながらも、私は初めて会った少年が口にする次の言葉に期待を向けていた。

「さっきまでねあそこで遊んでたんだ」

少年は塗装のハゲたジャングルジムを指差しながらそう言った。指先はジャングルジムの頂上を指しているようだった。

一番上まで登っては私に手を振って見せたあの瞬間が誰もいないジャングルジムに重なった。

「もう直ぐお母さんが迎えに来るんだって言って、けんたくんすごい喜んでたよ」

公園に息子の姿はなかったけれど、少年の話を聞いて何故か胸が温かくなるのを感じた。

少年は何処かに隠れてるのかも、と言って辺りを見渡してから

きっと喜んでるよ、と言ってどこか懐かしい笑顔を見せた。

私はそうだね、と小さくこぼしてから

もしかしたら先に家に帰ってるかもしれないね、と少年に言うと

少年は待ちきれなかったんだよきっと、と疑いのない声で言った。

「一緒に遊んでくれてありがとう。また健太に会った時は仲良くしてあげてね」

そう言って頬が軋むのを感じながら微笑んで少年にお礼を言うと、少年は待って、と言ってポケットからよれた紙を取り出し始めた。

「これ」

そう言って手渡された二つ折りの紙の表には「おかあさんへ」と記されていた。

小学生を待遠しくしていた健太が一生懸命練習していたひらがながそこには転がっていた。

一緒に練習した愛しい文字だった。

抱えたままの靴と一緒に手紙を抱きしめて、うずくまりながら少年に「ありがとう」と絞り出した声で伝えた。

「けんたくんがおかあさんに泣かないで欲しいって言ってたよ」

少年の声は私の頭の近くで柔らかく響いた。

涙を拭って優しい声の方に顔をあげると、目の前に立っていた少年の姿はどこにもなく、他に遊んでいる子供達の中にもその姿は見えなくなっていた。

いい歳をした大人が目の前でうずくまりながら泣いていたのだから、怖くなって帰ってしまったのかもしれないと思った。

そこでやっと少し落ち着いた私は、驚かしてしまって悪いことをしたなと思いながら靴下のままの足で地面を踏んで公園を出ていった。

水を出しっぱなしにしてしまったし鍵も閉めてこなかったなと目頭に残る熱っぽさをだるく思いながら、我が子のように抱きしめたままの靴と手紙を携えて寂しさの住処となった我が家へ体を運んでいく。

家に戻ると玄関に腰を落として胸に抱いていた二つ折りの手紙を開いた。

そこには一つ一つの線が精一杯に引かれた文字が一生懸命に並べられていた。

(おかあさんありがとう。だいすきだよ。げんきだしてね)

白い紙の上に並べられた力強くも歪な文字の形に健太の真剣な表情が映るように思えて、その文字を撫でると滲み出した涙が紙の上に零れ落ちて大きなシミを作った。

健太を不安にさせないように、泣いてはいけないと思っていたのに、どこからともなくやって来た心の波を止める術は見つからず、壊れてしまったみたいに暖かい雫が頬の上を流れ続けた。

今日だけは。

そう心の中で呟いて、うずくまりながら明日のための涙を落とした。

カタカタと穏やかに揺れる窓から差し込んだ夕日は、暗い影が敷き詰められた廊下の上へとまっすぐ伸びて産み落とされた命のように暖かいオレンジ色のあかりを残していた。

過ぎ行く今日は明日へと向かって暮れて行く。


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