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コントラスト 終

 誠は部屋に戻ってバイトに出る準備をした。昼から夕方にかけて入っているシフトがいつも以上に面倒で常に変わらない速度で進む時計の針が憎たらしく思えた。その針に押し出されるようにして家を背出る。リュックを背負って自転車にまたがるとサドルが日光を吸収して燃えるように熱かった。

 今日も相変わらす気温は高く、なびく風はぬるくまとわりついてくる。セミの合唱も壮大に響いていて青空に浮かぶ雲は高く伸びていた。色味を増した夏の緑は鮮やかに映えていて、この季節がまだまだ続いていくようなそんな気分だった。でも日が沈む時間はもう随分と早くなっていて季節の変わり目は確実に近づいていた。

 昼からシフトが入っている時は大体昼時のピークが一番大変でそこを抜ければ一気に客足が落ち着くことが多かった。それからは夜にもう一度やってくるラッシュに備える為に準備を進めていく。その昼のピークに立て続けにミスを繰り返した誠はこの日、ひたすらに洗い場で流されてくる食器を洗い続けていた。

 「こっちも溜まって来てるからお願いね」

 ホールからスプーンや箸の処理を催促される。この雪崩のような洗い物を捌いている中で簡単に言ってくれるなと思いながら洗浄機を回す。絶えず手を動かしていると時間の感覚がおかしくなってきてどれくらい経っているのかがよく分からなくなってくる。それから誠はお昼のピークを過ぎた時点で休憩に入り、夕方の6時を過ぎに退勤を押していた。

 家に帰るといつもより入念に身体を洗って、まるで意中の女性と初めてデートをする時のように時間を掛けて身なりも整えた。コンビニで買ってきたオニギリと菓子パンで簡単に夕食を済ませると机に置いておいたものをポケットにしまってから家を出て駅へと向かった。戦いに赴くような緊張感が足元をふわつかせて普段より歩くのが遅くなっているように感じた。

 時刻は8時半を示していた駅までは徒歩だと25分前後掛かってしまう。地面を踏みしめながら歩む速度を上げていく。通り過ぎていく車のライトがやけに眩しくて目がくらんだ。

 駅に着いたのは9時を少し過ぎた頃だった。いつもと何も変わらない駅前の待ち合わせ場所にはすでに咲喜が立って待っていた。いつもなら10分以上の遅刻は平気でしてくるはずなのに、時間通りに来ていたのだろうか。

 「遅れてごめん」

 「ううん。全然平気。いつも私の方が待たせてばっかだったし」

 向かい合った咲喜の瞳は真っ直ぐに誠の方へ向けられていた。その視線は自分を通り過ぎてどこか遠い先を見据えているようだった。何か会話を交わなくてはと思ったけれど何も言葉が出てこなかった。

 「わざわざ来てもらっちゃってごめんね。これを渡したくて」

 咲喜の言葉は張りがなく弱々しい。差し出されたのは便箋だった。

 「これに色々書いたからさ、家に帰ったら読んでね」

 咲喜が地面に向かってこぼした言葉は少し震えていた。

 「咲喜、どうした?大丈夫?」

 誠は咲喜の肩を掴んで顔を覗くと髪に隠れた咲喜の瞳が涙を溜め込んで赤く潤んでいた。それはやがて頬を伝って流れ落ち、アスファルトに小さなシミを作った。誠が拭った咲喜の涙には暖かい熱がこもっていた。

 溢れ落ちていく涙を必死で堪えようと声を殺して肩を震わせる咲喜のことを誠が抱き寄せると押し殺していた涙が堰を切ったよう溢れ出して咲喜は誠の腕の中で声を出して泣いた。

 「今までありがとう」

 涙で埋もれた小さな声は誠の体のずっと奥の方にまで響いていた。二人の歴史を詰め込んだ言葉は笑い合った日々を次々と蘇らせた。

 「こちらこそ本当にありがとう。色々ごめんね」

 声を詰まらせた誠の頬も気づけば涙で濡れていた。言葉も交わさずに涙を流しながら抱き合ったまましばらく立ち尽くしていた。その間色んな人が通り過ぎていった気もしたけれど、それはもう意識の外の出来事だった。

 誰かにとってどうでもいい瞬間も誰かにとっては代えがたい重要な瞬間だったりする。誠にとって二度とないこの瞬間はまさに特別なものだった。だからどう見られようと構いはしなかった。

 「ありがとう。もう大丈夫」

 「うん」

 ゆっくりと体を離して顔を見合わせる。咲喜の目の回りは赤くなっていた。誠は咲喜から便箋を受け取ると自分のポケットから取り出したものを咲喜に手渡した。

 「これ何?」

 「それはこれまでの二人を証明するもの。結局進む先は別々になったけどさ、それでも今までの大切な時間は確かにあったんだってことを覚えててくれたらなって思って。でも必要がなかったらそれは捨てちゃって」

 「うん。分かった。でも開けてみるまでは捨てないでおくね」

 「うん」

 そう言って笑うと咲喜はそれじゃあもう行くね、と言って歩き出した。誠は改札の前まで送っていくことにした。革靴やヒールの音が絶え間無く響く中で咲喜は立ち止まって誠の方に振り向く。

 「それじゃあ元気でね。バイバイ」

 そういって笑った咲喜の笑顔は思い出の中にある愛しさをそのまま表しているようだった。

 「うん、バイバイ。咲喜も元気でね」

 改札を抜けてホームへと消えていく咲喜の背中を響くアナウンスと人混みの中で最後まで眺めていた。

 大きく空いた穴を抱えたまま歩いた帰り道の風景を誠はあまり覚えていなかった。虚ろなまま家に帰り部屋まで戻ると受け取った便箋を開いた。

 ”私の方から一方的に色々と押し付けてごめんね。すごい勝手ではあるけどこれが私が出した結論でした。メールでも伝えたことはあるけど、大事なことはちゃんと直接伝えなきゃと思って、最初は会って伝えよう思ったんだ。でもそしたらきっと私は泣くし上手く伝えれないと思ったから今これを書いてます。まず4年ちょっとの間本当にありがとう。楽しくて幸せな時間がたくさんあって言葉で言い表すのが難しいくらい私は幸せだったよ。誠もそうだったら嬉しいです。それとこれは余計なお世話だと思うけど、誠だって大きな力を秘めていることを私は知っているから何でもいいからとにかく挑戦してみて頑張れることを見つけてくれたらいいな。もしも偶然何処かで会うことがあったらその時は格好良い姿を見してね。これで最後だけど今まで本当にありがとう。さようなら、大好きだったよ。 咲喜”

 手紙を読み終えても実感が湧かなくてただ宙を仰ぎ見る誠の頭の中には改札で見た笑顔だけが映し出されていた。ベッドの上に倒れ込んで声とも言えない嘆きを漏らす。それは冷たい天井にじんわりと染み込んでいった。そうしてうずくまった誠の背中と机の上で空になったままのフォトフレームはカーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされていた。

 色を失ったこの場所で、夜は静かに更けてゆく。


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