【断捨離】埃の中に煌めく懐古

 無事に押し入れAを倒したので、押し入れBに着手した。

 ごみ袋の数が家の許容限界を越えないように気を遣っているので、なかなか大量の「捨て」が出来ない。指定ごみ出し場の全てを我が家が占有することは出来ないので致し方ないことである。
 それでも毎週10袋ずつごみを出しているから、それなりに捨ててはいる。捨てているのに物が減っている感がないのが不思議だ。片付けも断捨離も初めは「片付いてる感」「物を捨ててる感」があるのに、中盤に差し掛かるあたりで「片付けても片付けても片付かない」「捨てても捨てても減らない」を経由する気がする。人生は得てしてそんなものなのかもしれない。

 押し入れAには不要物がこれでもかと詰まっていたのであっさり整理が終わったが、Bの方には昔のおもちゃや収集物、いわゆる「思い出の品」が大量に詰まっている。
 まあ、そうはいっても99%は不要物なので捨てるのだが、残りの1%に「とっとくか!」となるものが残っている。
 救出された思い出の品はギリギリコレクション棚に収まった。二十年以上を経て捨てられていないこいつらは、多分わたしが次にターニングポイントを迎えるまでここにいるのだろう。

 曰く、急に断捨離をしたくなるときというのは大きな変革が迫っているときらしい。波動や量子のどうのこうのは兎も角として、それ自体は何となく感じている。
 何か大きな波のようなものがわたしを攫っていくのだろう、という危険予知や予感に近いものかもしれない。期待感というよりは不安感が大きいが、元より波に吞まれることで活路を見出している人間なので、それはそれで準備を整えておくべきだなあという感覚に終始している。

 しかし「予感」や「危険予知」というのは山積した過去の経験知であることが大半だ。つまりわたしは恐らく「何か、無意識に過去の大きな変革の経験を照らし合わせ、現在の心境の変化から近く変革が発生することを逆算している」というのに近い精神状態といえよう。
 断捨離という、過去三十年間一度も相容れなかった価値観に積極的になっている、というのは大いなる論拠になる。契機が何であったにせよ、三十年かけて築き上げた「捨てられない女」のレッテルをも自発的に捨てることになったのだから、必ずや近いうちに変化が訪れるものだろう。変革とは世界が変わることではなく、世界を見るための己のレンズの屈折率が変容することである。

 昔のぬいぐるみのうち、捨てられなかったものの埃を払いながら、唐突に寂しくなった。次にレンズを変えたとき、わたしは二度とこの価値観で世界を見ることは出来なくなるだろう。
 感傷はよぎるが悲しむことではない。長年寄り添ったシャチのぬいぐるみや何度も読んだ絵本が幼いわたしの価値観を心の奥底に繋ぎ止めるように、今回捨てられなかった小トトロやたれぱんだのつぶらな瞳が今のわたしを次代のわたしに繋ぎ止めるだろう。
 三歳の頃に見ていた全ての輝きを思い出すことは出来ないが、物を書くために世界を見るとき、わたしは鮮明な絵本の記憶を用いて三歳のレンズをかけることが出来る。
 同じように、シャチのぬいぐるみは六歳のわたしのレンズを貸してくれるから、たれぱんだも小トトロも同じような役を果たしてくれるだろう。そして今大量に並べられているすみっコぐらしコレクションのうちの幾らかが、わたしが還暦を迎えるときに三十のわたしのレンズを手渡してくれるはずだ。

 思い出の外付けHDDは、恐らくわたしには必要ないのだろう。ただ嘗て見えていたはずの世界が円熟と呼ばれるものと共に見えなくなっていったときに、わたしの傍にあり続けたものがわたしを助けてくれるのだ。多分ね。

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