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人の本質は、まわりと同じでいたいのか違っていたいのか? 〜変人と幸せという観点から〜

こんにちは。
学部長の谷村です。
今回は、人の本質は「まわりと同じでいたい」のか、それとも「まわりと違っていたい」のか、果たしてどちらだろうかとふと思い、考えてみました。


「○○ちゃんも○○ちゃんも持っているから私もこれほしい!」
そういって親にだだをこねた経験はないだろうか?
遠足の服装、テスト勉強の学習量、就職活動の時期、周囲に確認して同じだと安心する。
人には、まわりと同じでいたいという願望があるのではないだろうか?

一方で、「自分探しの旅」に出る人は多い。まだ何者でもない自分が苦しく、かけがえのない価値を持った自分をみつけるために、旅に出たり留学したり休学したり。そして、自分なんてたいした人間ではないと落ち込む。
そう考えると、人はまわりと違っていたい、特別でありたいという願望があるのではないだろうか?

果たしてどちらが本質なのか。

学校で、会社で、周囲の様子を伺い、同じであろうとする背景には、「安心を得たい」という生存本能というとおおげさかもしれないが、目を付けられていじめられたり、恥をかいたりしないためのリスク回避という心理が潜んでいるように思える。みんなと一緒でいたいのに、どうしても同じ趣味や価値観を共有できずに苦しんだ経験がある人も少なくないのではないだろうか。

他方で、自分探しの旅に出たり、不良にあこがれてちょっと悪さをしてみたり、自分はまわりとは違った特別な存在でいたいという願望は、自己肯定感など、人間が精神的安定を保って前向きに生きていくために必要不可欠なものを背景としているだろう。(もちろん前述のリスク回避や安全を求める心理も人間に必要不可欠だろう。)

結局、本質は、「人と違っていたい」「人と同じでありたい」どちらも持っているということのようだ。その時々に置かれる立場や環境などによって影響を受けている。

さて、その中でこの話を「変人」という視点で考えてみるとどうだろうか。わたしたち変人学部では、すべての人は変人であると規定している。そして、その変人性は、遺憾なく発揮されているときもあれば、何らかのものに阻害されて見えてこないときもあるし、意図的に隠されているときだってあるだろう。そのように現象・状態として変人を捉えている。
そのため、それぞれの「変人さ」を尊重するということは、それぞれが持つ特異性をためらいなく発揮できる環境といえるだろう。

人々がそれぞれの「変人さ」が尊重される環境に身を置くことは、自己肯定感の高まりにつながる。そして、それは幸福感へとつながるのではないだろうか?
つまり、変人さを遺憾なく発揮できることは、人々の幸せにつながるのかもしれない。

もちろん、リスク回避的感覚が必要な環境に身を置かれている人は、自分自身の変人さに気づくことでより危機感や絶望感を感じているかもしれない。
周囲と一緒にいたいと思っているにも関わらず、「○○さんって変人だよね」といわれると、仲間外れにされたような疎外感を感じて、ネガティブな気持ちになる人もいるだろう。

だが、やはり常にそのような環境に身を置かれ、自らの変人さを発揮する機会がない人は、個が埋没し、息苦しい日々を過ごすことになるのではないだろうか。病的な状況に陥る可能性だってありそうだ。

頻度や程度にもよるだろうが、人々には変人さを遺憾なく発揮できる環境や機会が必要なのだと思う。

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