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アスペクト再考

 再考っつって考え直す必要があるわけではないんだけども。

アスペクト

 アスペクトは「相」ともいう。下の画像はルビンの壺(ルビンの盃とも言う)と言われるもので、白い部分に注目すれば壺、黒い部分に注目すれば向かい合う顔に見えるというやつ。

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 このように、図と地(背景)を分けることによって、捉えられた対象をアスペクトという。ここから、アスペクトを知覚として処理されている部分と、認知機能として処理されている部分に分けて捉えてみる。便宜上、知覚部分をアスペクト知覚、認知部分をアスペクト認知と呼ぶことにしよう。

アスペクト知覚

  アスペクト知覚は、それぞれのアスペクトを同時に見ることができないというところで体感できる。ルビンの壺から考えると、黒い部分を見ているときに白い部分は背景として処理される。白い部分を見ているとき、黒い部分は背景として処理される。「ルビンの壺は顔にも壺にも見える絵だ」という知識を持つことはできても、同時に両方を見ることはできない。そしてもう一つの特徴として、意識的に切り替えることができないというものがある。もちろん黒い部分に注目すれば黒い部分を認識できるし、白い部分に注目すれば白い部分を認識できるのだけど、バチッバチッと切り替えられるのではなく、ヌルッと見ようとしたアスペクトに吸い込まれる感じになる。図地判定なので、捉えた視覚情報に基づいた奥行きの把握機構が関係しているのだろうと思うが、詳細はようわからん。

アスペクト認知

 アスペクト認知は、知覚した図地から既知のラベルを貼り付ける形で行われる。

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 これは黒い背景にある「りんご」。りんごをりんごと認識するには、りんごについて知っている必要がある。木の実を知っているがりんごを知らない人にとっては「赤い木の実」という認識になるかも知れない。木の実も知らないが色がわかるなら「赤いもの」という認識になるだろう。色も知らなければ、のっぺりした背景と「背景ではない何か」だろうか。このようにアスペクト認知は、知識や経験、訓練の影響を受ける。先のルビンの壺も、顔部分に関しては人間は乳児の頃から顔を認識する経験を積んでいるので基本的に顔と認識できるだろうけど、壺部分に関しては正直「これはルビンの壺です」ということを言われなければ何かよくわからないのではないか。自分は盃にしか見えない。人によっては大道芸のディアボロ(中国ゴマ)に見えるかも知れない。

で、

 知的障害者の施設で働いているので、認知機能について考える場面が多いのだけど、このアスペクト認知は、認知機能に左右される。その人の固有の知識体系や繰り返した経験から、対象を何と捉えるかが決まる。自分の認知形式を相手に適用しようとすると、割と伝わらない。

認知機能

 認知機能は、単純なポテンシャルや知識体系、繰り返した経験のみに依存している……わけではない。先日、ガードレールで区切られた大きな歩道が道の両側にある幹線道路でわざわざ車道側を歩くおそらく認知症のお婆さんを見かけたが、車道側を自分が歩く場所と認識しているようで、危険であっても頑なに歩道に上がろうとはせず車に驚きながらガードレール際を歩いていた。(その後、何事もなく住宅のほうに消えていった。)これは、認知部分が機能不全になっている状態と見ることができる。そして、アスペクトを切り分けるアスペクト知覚は機能不全になっていない(と思われる)。

書きたかったところ

 ということなので、アスペクト認知に負荷が掛からないように、選択肢の少ないアスペクト知覚を提示することで、認知機能に影響されないコミュニケーションが可能となるはずだ。例として、自分が仕事時によく使う方法なのだけども、指差しで方向を示すジェスチャーを挙げる。指差しは、何もないところにアスペクト知覚を出現させることができる。そして、余程屈折した認識をしない限り、指が指す方向の一択である。なお、指すときは無駄な情報が乗らないように概ね人差し指一本にしている。伝わりにくい場合は、両手で連続で指を指す。大量のアスペクト知覚の出現によって、より伝わりやすくなる。そっちに何があるのか、どういう意図があるのかという情報を乗せるのは難しいが、とりあえず「そっち」であることは、どんな人にも割とよく伝わる。

 まあ、自分レベルの屈折した人間が相手だと「なぜ選択肢が限定されているんですかね?そこにどのような合理性があるんですかね。あなたにはどういう意図があるんですかね。」となって制御不能になるのだけども。言い繕う必要のある意図は消え去れ。(何だ)

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