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生きることの苦しみとよろこび|エッセイ

 生きることの苦しみとよろこびが書きた~~~~い

 先日、「シラサギの飛び立つとき」という小説を書き終えた。読んでね♪

 自分としては、なかなか頑張って書いたと思う。初めて一万字以上のものを書けた。小説の良し悪しは必ずしも文字数で決まらないとは思うが、量が無ければその分盛り込まれるテーマも少なく平板なものになってしまう。死ぬまでには十万字の小説を書いてみたい。
 ただ、満足いくものが書けたかと言われると難しい。私は恥ずかしがりで、どうにも私小説の類のものは書けない。今回も、当初はもう少し私小説らしくなる予定だった。実際、主人公の歩んできた道は私と重なる部分も多い。しかし想定していた以上にフィクションさが強くなった。
 フィクションになるのはいい。ここで問題なのは、自分が恥ずかしがりすぎるせいで、本来もうすこし登場人物が障害にぶつかって悩むべきところをあっさりと終わらせてしまうことだ。「シラサギの飛び立つとき」は綺麗な青春小説にはなった(と信じたい)が、苦悩や障害の部分がいまひとつ弱いような気がする。もっと私は日々いろんなことに悩み苦しんでいるはずなのに(そうじゃなきゃ小説なんて書かない!)、そこをうまく書きだせない。自分をさらけ出すようで恥ずかしいからだ。普段悩んでいるより一段階浅いところまでの悩みしか書けないから、のっぺりした物になってしまう。
 これを解消するには、おそらく二つの方法があって、一つ目は恥ずかしがらずに自分をさらけ出すこと。二つ目は、さらに深く人生に悩み苦しむことで、一段浅いところでも充分くらいの人間になること。うむ、どちらもむずかしい。前者に関しては、そもそも人生が苦しいのは自分という存在が恥ずかしくてたまらないからだ。羞恥心が無くなれば書くことはなくなるだろう。二つ目は日常生活との両立がほぼ不可能だ。これ以上人生に苦しんだら、病んで死んでしまう!

 苦しみばかりの本がはたして本当に面白いのか、という問題もある。例えば西村賢太の「苦役列車」はマジで苦しみしかなくて、私は読んでいてひたすらに辛かった。
 その点、横光利一の「春は馬車に乗って」や、太宰治の「ヴィヨンの妻」は苦しみとよろこびの良いバランスだと思う。ああいう小説を書きたいといつも思っている。
 漫画でも考えてみよう。ヤングスペリオールの新人賞を受賞した、udnの「わたしひとりの部屋」という作品がある。これがエンタメとして消化できる苦しみのギリギリラインではないかと思う(そんなこと言いつつ、私はこの漫画を初めて読んだとき心に来すぎて、その晩は眠れなかった)。
 生涯で最も愛する漫画は?と聞かれたら、私は「違国日記」と答える。しかし、この漫画が描く苦しみは、いうてもフィクションだよなあ、とも思う。忌憚なく言えば綺麗事だ。「スキップとローファー」も大好きな漫画だけれど、それに近い。なんというか、遠いのだ。悩み苦しんでいても、暖かい食事があるし、勉強だってたくさんできるじゃないか、という遠さ。悪意のある人がいなくて美しい世界は、すこし薄く感じる。

 今まで挙げた本たちの位置関係が気になったので、マトリクス表にしてみた(なんで?)

私の独断と偏見による

 おそらく、世界で私しか共感できないマトリクス表が出来上がった。
 マトリクス表といいつつ、それぞれを線で結べば一次関数のグラフになりそうだ。フィクションに寄るほどよろこびが高く、現実に寄るほど苦しみが高い。エッ、現実には苦しみしかないってこと?

~終~

 いや、この世には私が死んでも読み切れないほどの本と漫画があるのだ。上にあげたものだってだいぶ恣意的に選んだし。このマトリクスもたやすく覆されるだろう。そうであってほしい。
 一番初めの問いに戻ろう。「苦悩や障害の部分がいまひとつ弱い」。つまり、もっとずっしりくる作品を作るにはどうすればいいか。冷静に考えれば、最も簡単な方法がある。本を読めばいいのだ。
 今日、卒業論文執筆用の参考文献集めのために、2001年7月号の「すばる」の奥付を印刷していた。奥付にはおよそ七百字程の江國香織の小エッセイが綴られていたのだが、その内容が、「私はゆで卵が苦手なので、外でゆで卵を剥いて食べられる人が羨ましい」というだけのものなのだ。以下に引用するのは、その羨ましさを表した文章だ。

 とてもおいしく、幸福な感じを想像できるのだ。玉子の、しっかりした味がするだろう。空気のいい戸外でなら、塩の風味もいきるだろう。つるんとした白と、ぽってりした黄色のコントラストは、みるだけでたのしい心持ちにしてくれると思う。口や舌ではなく、身体で味わうような健やかさと満足感があるはずだ。完璧なまるさで存在するそれは、一個まるごと身体に入ってこそ特別な食べ物になる。

江國香織「とるにたらないものもの」『すばる』集英社、二〇〇一年七月発行

 バケモノすぎる。ゆで卵をこんなに美しく表現できるものなのか?こんなものを読んでしまうと、生きることの苦しみ云々言っていないで、すこしは描写をマシにしたらどうなんだと殴られた気分だ。江國香織のような一個のモノを表すのに百個の言葉を使う手法は練習したほうが良い。

 重さのあるものが書きたい。そのためにはたくさんの本を読まなければ。私はそこまで本を読む方ではなく、漫画やゲームのほうが親しい人間なのだが、どういうわけか小説を書こうとすると小説で読んできたものしか活用できない。私の頭では「文→抽象→文」という行為は辛うじて出来ても、「絵(映像)→抽象→文」という風には処理できないようだ。
 そうは言いつつも卒業論文の締め切りも迫っている。そういえば、自分で書いた卒論の草稿を読み返してみたら、文章がとても読みやすいので笑ってしまった。小説や日記だと私の文章は相当に読みづらい。あの調子で書けたら良いのにと思う。おそらく、論文だと自分の感情を入れずに事実だけを書けばいいから、恥ずかしがらずにいられるのが良いのだろう。私の小説の文章はなんだか堅い。緊張しているのがまるわかりだ。やはり、もう少し自分をさらけ出す必要もありそうだ。恥を捨てろ!プライドを捨てろ!

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