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【#07】 よく聞き、見なさい。(メッセージの断片集2)
10月18日(日)の様子
礼拝の中で、2名の方に北海道聖会の証しを分かち合っていただきました。「5つのパンと2匹の魚」のように、感謝して分かち合えば分かち合うほどに、主の恵みが広がっていくことを覚えます。
ユースにも2名の姉妹が集い、これで2回目となりました。賛美も喜んで歌っているようで、はにかみながら「また来週も来たい」とのこと。この時期、両親は収穫作業に大忙しのようで、隣町から教会に送り出してくださっています。
礼拝後は感染対策をしながらのお弁当愛餐会とシェアリング、そして気持ち良い秋晴れの中、年に2度ある大掃除に精を出しました。大掃除後のコーヒータイムで、北見のグルメの話題で大いに盛り上がりました!礼拝で「貪欲にならないように」と分かち合いましたが、決して貪欲ではありません 😁 以下は礼拝メッセージの断片集です。
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聞きなさい。金持ちたち。
1節に「聞きなさい。金持ちたち」とあり、これを見て私のこととは違うと思った方もおられるでしょう。お金持ちどころか、いろいろとピンチの時も多く、今日は自分に向けられたメッセージではないと感じたかもしれません。
しかし聖書が書かれた時の社会背景は、今以上に貧富の差が大きかったのです。「その日暮らし」という言葉がありますが、その日の食べるものも厳しい方々が多くおられました。現代日本の普通の生活レベルであれば、当時の「金持ちたち」の部類に入ると言ってもよいでしょう。今日食べるものがある、昨日と違うものを着ている、住む場所がある、仕事がある、病院に行って治療を受けられるというと、世界史的に見て、あるいは現代の全世界においても、金持ちの部類に入っていると言っても良いでしょう。その実感が薄いほどに、私たちは資本主義社会の中で感覚が麻痺している部分もあります。実際のところは、大いに感謝しても良い状況なのです。
目的と手段について
目的と手段を混同しないように注意する必要があります。健康になることが私たちの目的なのでしょうか。それとも、健康が与えられて主のために生きていくことが目的なのでしょうか。癒やさることが目的なのでしょうか。それとも、癒やされて主のために私を用いられることが目的なのでしょうか。裕福になって生活が安定することが目的なのかでしょうか。多く与えられたものを、大いに主のために、隣人のために用いていくことが目的なのでしょうか。目的と手段が入れ替わると、罠に陥っていくことになります。
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損得勘定に陥らない
知らず知らずの内に、損か得かが、私たちの選択の基準になってしまっていないかを吟味する必要があります。少しでも損をしたくない、少しでも得をしようということが、日常の買い物のことであれば構いませんが、人間関係にまで計算機を持ち出してしまうと、命は蝕まれていき、枯れていくことになります。
愛することは、損をすることです。なぜなら愛は与えることを本質とするからです。主イエスはそういう道を歩まれ、私たちも主の道を歩んでいくのです。そしてその道を歩んで本当に良かったと、主イエスは言わせてくださるのです。
三浦綾子さんの『続氷点』の言葉を思い起こします。「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
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