見出し画像

善意の本性

私は普段、バスと地下鉄で通勤しています。
最近は在宅勤務も混ざっているので、先月だと週の半分くらいが出社でした。

お盆休み前の名古屋は、地下鉄などコロナ前の混み具合に戻っていました。
違うのはほぼ全員マスクをしていること。

マスクは、「効果より雰囲気づくり」と思っている私ですが、いつまで着けていないといけないのか気になります(やめ時は誰もわからない)。
愛知県も感染者が増えていますし、緊急事態宣言も出ているのでしばらくは難しそうです。


さて、少し前のことですが、地下鉄で、手の不自由な若者が切符を買うのを手伝いました。
発券機のところでお金を入れるのに苦労している様子。

もしかしたら本人が自分でしようと(あるいはしないといけないと)思っているかもと思い、少し見守ってから声をかけました。

お手伝いをしたのは、財布を取り出した後、小銭を出すところから発券して、おつりを財布に戻しカバンに入れるところまで。

ありがとうございます、どういたしましてというやりとりをして別れました。

ここまでなら「いいね」対象なんでしょうが、ここからが問題。


身体が不自由だったりしても、ひとりで出かけたり、仕事に向かったりする人たちって本当にすごいなあ、なんて考えながら会社に向かいました。

実際に地下鉄では他にも、目の不自由な方や、車椅子で通勤・通学されている方も見かけたりします。
その度みんなすごいなあ、自分も腰が痛いけど頑張らなくちゃあなあ、なんて思います。


さて、これも一見「いいね」対象商品(?)に思えますが、この考え方の中に「自分の方がまし」というような優劣を前提にしている自分がいる気がしてしまったのです。

ちなみに私は腰椎分離滑り症という腰の骨の一部が割れて骨がズレる症状があります。いわゆる腰痛持ちです(この話はまたどこかで)。


「自分の方がまし」という考えは、身体のことだけでなく、頭が良いとか悪いとか、お金があるとかないとか。かっこいいとかダサいとかにもありそうです。

そんな色々な優劣を半意識的に前提として心が動いているような感じがして、とても不安な気分になってしまいました。

比較すること自体、あんまり良いことではないですよね。

実際、そんな何かしらの不自由を抱えている方は、その状態の自分が毎日の生活の当事者としての自分です。
私も腰の痛みに、毎日苦しんでいますが、それが自分の毎日です。

そこに比較要素は必要ないですよね。比較なんてそもそも無理ですし。


さらにその中で、自分のしたいこと、自分がしなくてはいけないこと、自分にできること、そんないろいろなことを思って決めて、行動しています。

そして、自分にできないことは、誰かにお手伝いを頼む。
実際は、頼めずあきらめることもあります。

それが自分ではなく、他の誰かのことであれば、何かお手伝いしたいと思ってしまいますよね。

でも当人からしたら、自分でやらなくてはいけない(うまくいかないとしても)ことがあります。

そこが当人以外には分からないから、判断が難しい。

私は、おせっかい(世話をやきすぎるウザい人)ですし、気い使い(気をつかいすぎて自分の中で空回りする人)なので、そのあたりが根本にあるのかもしれません。

なんかうまく言えませんが、あまり自分の善意を深堀りして考えず、
困っている人がいれば声かけるようにしてればいいのかもしれません。


自分が言われる側だったら、どうだろう。理由を言って断るのか、相手の優しさを思って手伝ってもらうのか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?