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日本誕生の謎を解く⑨倭国と隋帝国の実力差


倭王アマタラシヒコ


ここで、この時代の倭国の情況を眺めてみます。

607年に隋の使者が倭国の王都に来て、その報告が隋書に記録されました。

(参考)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

この記録の中で私が気になった部分は次のとおり。

倭王の姓は「アマ」、名前は「タラシヒコ」、号は「オオキミ」、王の妻の号は「キミ」、後宮には女性が6、7百人いる。
太子の号は「リカミタフリ」。


「号」は個人名ではなく肩書みたいなものです。

倭王は男であり、太子、つまり後継者が定まっていて妻もいる。

とありますから、推古女帝がその後継者を決めるのに悩んだという日本書紀の記述とは、かなり矛盾します。

「アマタラシヒコ」の解釈には諸説ありますが、
「天照彦(あまてらすひこ)」
と私は推察します。

この時代すでに「アマ(天)」という概念を強く意識しており、「姓がアマ」の解釈は悩ましいですが、天照大神という神名とも関係がありそうです。

天を照らすもの

それは太陽ですね。

倭人社会の様子

城郭はない。中央官僚には十二等級がある・・・
百済から仏典を手に入れて始めて文字を知った。
占いよりも巫女(シャーマン)の言うことを信じる。

倭国に文字が広まったのは百済から仏教が渡来したおかげであり、それまで文字は普及していなかったと認識されています。

九州から倭国への経路上に秦王国があり、そこの人は中華人と同じ風俗で、まるで伝説の夷洲のようだが経緯はわからない。

倭人の風俗は中華とはかなり違うのに、秦王国というところ(たぶん関門海峡付近)だけは中国と同じ風俗だったと記録されています。

私は今のところ、秦王国は周防国だった可能性を感じています。
すおう」の語源が不明である上に、「しんおう」という音と似ているからですが、あまりあてになりません。

倭国の国力

八十戸に一人の伊尼翼(稲城か?)を置き十の伊尼翼が一つの軍尼(クニ?)に属している。
軍尼が百二十あり・・

80戸で一つの稲城を、10個の稲城で一つのクニを構成しているとあります。
クニ一つが800戸ですが、後の律令制における「郡」と規模が近い感じです。

後の律令制の五畿内における郡の数がだいたい65郡ぐらいですが、倭王直轄領が全部で120郡あり、総戸数は約10万戸、人口なら50万人くらいでしょうか。

ただし部民制の時代ですから、この数値は直轄の農村に限ったことで、これに含まれない部民や部族は計算に含めていないのかもしれません。

倭王は畿内に盤踞しつつ倭族全体の外交権を統括する筆頭大名でしたが、倭王に属す地方政権の人口などを全部あわせたら、およそ200万人前後ではないかと、ざっくり想像します。

高句麗の人口は120万人、百済が70万人、新羅が100万人、中華王朝が5000万人くらいと想像します。

ただし、人口の数値比較は簡単ではありません。
死亡率が高い乳幼児を人口としてどの程度カウントするかで数値が大きく変わってしまいます。

倭王は諸外国の国力を正確には把握していなかったでしょう。
特に中華の国力については、日米戦争当時の日本政府のごとく、かなり過小評価していたと想像しています。

いつの時代も国力の客観的評価は難しいのですが、隋の使者が倭国の政治体制や人口、軍政などについて、しっかり情報収集していたことが隋書の記録からわかります。

彼らはスパイだったのです。


第二次高句麗遠征

文帝を継いだ煬帝は611年、113万人を動員して再度高句麗への侵攻を開始します。
当時の隋の人口は5千万人に迫るところだったのですが、それにしても、人類史において113万という兵力は桁違いの数です。

この大軍が高句麗国境の西と南からほぼ同時に攻め込みました。

このとき、百済は隋軍を支援せず、新羅を攻撃したようです。つまり、百済は高句麗の側に立ったと言えます。

高句麗出身で倭王厩戸皇子を補佐する僧恵慈は623年まで生きており、厩戸皇子は622年まで生きています。

恵慈は高句麗と倭国の間の外交を仲介したのでしょう。

隋による第二次高句麗遠征は、当初、隋軍が優勢でしたが、高句麗軍は焦土作戦で対抗し、高句麗領内に進軍した隋軍は補給難に陥ったところで反撃に合い、壊滅的な損害を受けました。

煬帝はその後も二度に渡って高句麗に攻め込んで失敗したうえ、その頃には土木工事の負担に耐えかねた民衆の反乱が頻発しました。

こうして隋は急速に衰亡し、618年に煬帝が部下に殺されて隋は滅亡します。

あっけない隋の滅亡を見て厩戸皇子はホッと胸をなでおろしたでしょうが、隋滅亡の黒幕が「聖徳太子」と日本書紀が呼ぶところの倭王であったとしたら、聖徳太子は東アジアで傑出した君主であったいうことになります。

結局、「西の天子」は夕日のごとく沈み、「東の天子」が東方の盟主として浮かび上がってきました。

倭国は存続できましたが、中華帝国の恐ろしさが身に染みたでしょう。

そうこうしているうちに、隋滅亡後の混乱のなかから、早くも中国では新しい王朝が誕生していました。「」といいます。

再び中華王朝との外交問題が倭国を揺るがします。


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