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日本誕生の謎を解く⑧倭国に迫る外交路線の転換


倭国は基本的に親百済

半島では高句麗、百済、新羅が三つどもえで複雑な対立と抗争を繰り返してきましたが、倭国は全般を通じて百済を支援してきました。

百済の漢城喪失前の三国情勢


高句麗が支配していた漢城を新羅が552年に占領して以来、新羅の領土を百済と高句麗が挟み込む形勢になりました。

百済と高句麗は直接境界を接しなくなると同時に、新羅が両国共通の敵になりやすくなっています。

倭国にとって境界を接するのは百済と新羅であり、高句麗はその向こうの国です。

半島での足掛かりをほとんど失っていた倭国にとって、高句麗はあまり重要な存在ではなく、半島における倭国勢力の権益は百済を通じて間接的に維持している状態でした。

倭国の外交方針はこれまで常に親百済だったのですが、倭国に重大な影響を及ぼす歴史的事件が発生しました。

隋による南北朝統一

589年に北方の隋が南方の陳を滅ぼして南北統一を果たし、同年中に高句麗や百済が隋に使者を派遣しました。

隋と半島情勢

この時点で高句麗は隋から侵略されることを警戒し、倭国を味方に引き入れる外交政策を展開します。

隋が高句麗を攻撃する場合、百済と新羅を味方につけて挟撃しようとするに違いないので、百済と新羅の南側にいる倭国を高句麗の味方につけて、百済と新羅をけん制する必要があるからです。

高句麗は、仏教や最新技術の輸出をネタとして、仏教擁護派である蘇我氏に接近したのでしょう。聖徳太子の母親は蘇我氏です。

崇峻天皇暗殺後、推古天皇の摂政となったと書紀が主張する聖徳太子は、仏教の発展に尽力したと記録されますが、太子には仏教の師匠として恵滋という僧がいました。

この僧は595年(崇峻天皇暗殺の3年後)に高句麗からやってきた高句麗人で、倭王の政治顧問だったと思われます。

それまで倭国外交で一番重要だったのは百済であって高句麗ではなかったのですが、ここにきて百済よりも高句麗を重視する外交路線に転換しているようです。


蘇我氏による外交路線の転換

高句麗からの強い働きかけによって、倭国の外交路線は親高句麗に転換しましたが、かと言って、隋帝国と本気で敵対するほどの覚悟があったのかどうか。

崇峻天皇暗殺の6年後(598年)、隋の文帝は水陸30万と号する兵力で高句麗に侵攻しましたが、洪水などで補給に支障がでて撤退しました。

現在の北京あたりから北朝鮮国境へ至る陸路は山地と海岸線に挟まれた細い一本道で、当時は人口が少ない地域なので大軍で一気に侵攻するのは困難でした。

このとき、百済は隋軍と連携して高句麗領に侵攻したようです。だとしたら、その判断には倭国王の意図も影響していたと思います。

百済としては隋に従わないと、隋軍が黄海を渡って水上から百済を攻撃する可能性があったので、仕方なく<隋軍に味方をするフリ>をしたと推測します。

百済と高句麗は陸上では接していないので、百済軍が新羅領を通過して北上したか、または水上から遼東半島あたりに上陸しようとしたかもしれません。

高句麗は隋軍を撃退したあと、百済と新羅に対しても反撃に転じたようですが、以上の軍事行動の詳細はよくわかりません。

高句麗軍が反撃に転じたことを知って、倭国はかつて倭国に属していた伽耶地方(半島南部)を新羅から奪還する好機と考えたようです。

このときには百済は高句麗と和解し、倭国及び高句麗と連携して新羅に攻め込む方針に転じました。

隋軍が敗北したことにより、高句麗、百済、倭国が連携して新羅を攻撃する形勢になったのですが、これは当初からこの三国において取り決められていたことかもしれません。

つまり、百済と倭国は隋に対し面従腹背していたのです。

伽耶の奪還は欽明天皇の遺命でもありましたが、かつての倭国は、高句麗の侵略から百済を防衛することを基本政策としていました。

それが、三国が連携して新羅を攻めるとなると、これは倭国にとって重大な外交路線の変更ということになります。

4年後の602年に倭国は新羅征討計画を発動しますが、出征直前に軍司令官が死んだりしてとん挫したと日本書紀に記録されます。

倭国が親高句麗政策を選んだ理由


倭国は隋帝国の膨張を恐れていました。

隋が高句麗を滅ぼして半島に進出した場合、百済と新羅は隋に従属するか滅ぼされることとなり、倭国にも同様の未来が待ち受けているでしょう。

倭国がそれを避けたいのなら、高句麗を支援するため、高句麗の背後にある百済と新羅を倭国がけん制する必要があります。

高句麗と倭国は利害が一致したということです。

倭国が大陸の制度を学びながら中央集権化を進め、国力を増強しはじめるのは、急変する国際情勢に対応するためでもあります。

603年に冠位十二階を制定し、翌年に17条の憲法を制定。そして607年、小野妹子を隋に派遣しました。

そのときのやりとりは以下の記事で触れたとおりで、倭国は、隋に服従しないで対等関係で望むという強気の、しかし微妙な外交を展開しました。

この外交路線は「高句麗は隋に負けない」という前提で成立します。
しかし、隋帝国は高句麗征討をあきらめていたわけではなかったのです。


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