見出し画像

日本誕生の謎を解く⑦丁未の乱と崇峻天皇暗殺事件 



丁未の乱勃発

古墳時代の大名連合政体を脱し、律令国家へ徐々に移行しつつあった倭国。

その長い道のりの過程で様々の対立と抗争があったはずですが、記録が少ないのでその詳細はつかめません。

想像するに。

半島の既得権益に対するこだわりを捨てきれない旧来の有力氏族たち。
彼らを代表するのは物部氏でした。

一方で、倭王の周辺で勢力を増しつつあった新興官僚群。
こちらを率いるのは蘇我氏でした。

そして、物部守屋と蘇我馬子が王位継承候補を巡って対立し、戦争に発展した丁未(西暦587年)の乱。

戦闘は物部氏の本拠があった河内国の渋川で起きたと日本書紀にあります。


あまり信用しがたい日本書紀ではありますが、ほかに情報がないのでおおざっぱに信じることにしつつ、全体の流れを以下妄想。

両派の緊張状態が徐々に高まりつつあったところで、蘇我氏は多数派工作が整ったと判断して突如軍勢を動かし、不意を突かれた物部勢はその本拠で防戦にあたりました。

物部守屋は木の上から矢を射っていたところを射殺されたと記録にあります。

樹上からの射撃は命中率はあがりますが身をさらすので危険です。

物部氏は防戦に有利な矢倉を構築するゆとりもなかったのか。

雨のように矢を降らせたと書記にはありますが、実際は矢の数が少なくなって大将自ら百発百中を狙うしかなくなったのかもしれません。

一方で、物量にまさる蘇我軍は事前に大量の矢を準備することで物部の精兵に対抗したかと。

苦戦する蘇我軍の中に14歳の厩戸皇子がいて、勝利したらお寺を立てますと仏さまに祈願したとか。

こうして建てられたのが、今も残っている四天王寺です。


崇峻天皇暗殺事件

丁未の乱で物部氏は壊滅し、勝利した蘇我馬子は娘婿である泊瀬部皇子(崇峻天皇)を用明天皇の後継として擁立しました。

これを機に倭王権への中央集権化が一気に進みましたが、丁未の乱で多大の犠牲を払ったうえに擁立された崇峻天皇は592年、なんと擁立者である蘇我馬子によって暗殺されました。

臣下が王を暗殺するという重大事件なのに、どういうわけかこの事件で倭国の政情がゆらいだ記録がありません。

気になるのは、東国の貢ぎ物を持ってきた使者と倭王が対面する儀式の際に、東漢駒(やまとのあやのこま)という者が蘇我馬子の命令で倭王を暗殺したということです。

これと似たような事件がこのあと起きますね。
乙巳の変です。

乙巳の変では外国の使者と倭王が面会する儀式中に蘇我入鹿が殺害されました。

乙巳の変についてはあとで詳しく書きますが、警戒厳重な権力者を殺害するには、謁見の場で使者が暗殺するしか方法がなかったのかもしれません。

これは7世紀を理解するうえでとても重要な視点なので、あらかじめ強調しておきます。

崇峻天皇は殯(もがり:遺体を埋葬しないでしばらく放置する葬礼)を省略されて埋葬されました。

一説には、非業の死を遂げた王の遺体が放射線のごとく周囲にケガレをまき散らすので、急いで埋葬したのだとか言われます。

では崇峻天皇はなぜ殺害されたのか。


暗殺の背景は?

おそらくは、新たな政治体制の方向性をめぐって、倭王と蘇我氏とで認識の違いが露呈したのでしょう。

この時代の倭王には一定の能力と経験が求められたので、兄の後を弟が継ぐことがよくありました。

どんな能力が必要だったかを想像すると、人間のプロフィールを暗記し、人間関係の経緯を理解し、適切に対話し処理する能力だったと思います。

倭王になると、たくさんの政治集団や官僚や親族とうまくやらなければなりません。

重要な判断は官僚に相談し、事務処理を任せるにしても、そばに優秀な秘書がいるだけではどうにもならないことがたくさんあります。

それでいて品行方正でなくてはなりません。
これではかなり高い能力が必要となります。

ルールが整備されていないので、倭王個人の政治能力もまだまだ必要です。

倭王にしてみると
「やったー。これで目障りな物部に遠慮しなくてよくなったぞー。」
とやる気まんまんのところで、
「いえいえ。私たちがルールと話し合いで処理しますから、あまり口を挟まないでください。」
と官僚たちから釘を刺されるわけです。

それへの反応として
「なんだと!俺をバカにするんか!」
と倭王が腹を立てるのは自然な流れです。

先祖代々そうやって来たのですから、その道を守り抜こうとするのはごく普通の心理です。


求められたのはスーパーマン

国家連合が中央集権の律令国家を目指す転換点において、その権力の頂点に立つ人物には、どんな能力が求められるのか。

この時代の倭国において、前代未聞の律令国家というものをイメージするということは、中学生が三権分立の意味を正しく理解するよりはるかに難易度の高いことだったと思います。

なにしろ、律令国家ははるか遠い外国での話であり、ネットもスマホも、印刷技術さえもない中で、まだ素朴な段階の「やまと言葉」をもとに律令制をイメージするのです。

同族企業の社長一族が、これから上場するというのにガバナンス(企業統治)の仕組みをなかなか理解してくれない、という<よくある話>と同じです。

常に海外からの最新情報を漢語で分析してきた蘇我馬子たちにしてみると、
(新しい倭王も律令国家を理解できないアホ倭王だ)
と感じたかもしれませが、その「アホ」は未来をイメージするセンスの部分なのです。

「うちの社長は東大出身で頭はいいけど、頑固で保守的なだけのダメ経営者だな。」

みたいな陰口はよくありますよね。

暗殺の真の理由はある少年

だからと言って、倭王を暗殺すると言うのは異常事態です。

歴史上、間接的とはいえ臣下が天皇を武器で殺害した記録で信用できるものはほかにありません(たぶん)。

それなのに、暗殺直後の異変が記録にないのです。
皆が蘇我氏の措置を当然と受け止めた可能性が高いと推測します。

単に崇峻天皇がアホだったのか。
だとしたら、どうして丁未の乱で多くの候補者のなかから擁立されたのかがわかりません。

崇峻天皇はそれなりに優秀だったでしょうが、この<律令国家に転換する>という正念場の時期に、蘇我氏が倭王に求めるであろう能力は、この時代の人材にしてはあまりに高すぎたと想像されます。

単に頭が良く、血筋が良いだけでなく、政治的なセンスにおいても、新しい時代への理解力も、神秘的なレベルの能力が要求される時期なのです。

崇峻天皇には、さすがにそれほどの能力はなかった。
そんなとき、蘇我氏の期待に応えられそうな少年が王族のなかから出現しました。

そして、誰もがその少年にひそかに期待するようになった。
だから暗殺が発生した後も騒動が起こらなかった?

崇峻天皇のあとを継いだ少年がたまたま優秀だったのではなく、特別に優秀な少年がたまたまいたから、この時代の要請にこたえて倭王に祭り上げられたと考える方が、しっくりくるのです。

その少年の名を、厩戸皇子といいます。


ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>