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日本人が知らない日本誕生の真相⑩唐帝国の脅威に震える半島情勢


唐王朝による中華再統一

隋が618年に滅亡した後、しばらく中国は戦乱状態となりますが、李淵が唐王朝を建国し、その後継者となる李世民(太宗)が最終的に戦乱を制して626年が中華を統一しました。

その統一を見て、高句麗、百済、新羅の三国は唐との友好関係を構築する外交を展開しましたが、唐は早速、高句麗に圧力をかけてきました。

唐王朝の祖先はかつての北方遊牧民です。

北方境界線の安定が中華王朝の浮沈に関わる重大事であると認識しており、北方草原地帯に台頭する突厥という遊牧部族が高句麗と結託するのではないかと心配していました。

631年、唐は高句麗に「京観」の破壊と遺骨の返還を求めました。
隋高戦争における隋軍の戦死者を積み重ねて作った戦勝記念碑が「京観」です。

高句麗は国境に長大な防壁を構築して唐軍の侵攻に備え、その間、唐は西方の異民族の征伐を進めていました。

こんな情勢のなか、百済は642年、新羅に攻め込みました。

唐が高句麗遠征を開始する前に、ライバルである新羅をやっつけてしまおう。これが百済の戦略でした。

百済軍に敗北を重ねて滅亡の危機に瀕した新羅は、唐と高句麗に救援を要請しました。

唐は新羅の要請に応じて半島に出兵しますが、ここで高句麗において重大事件が発生します。

淵蓋蘇文のクーデター

日本書紀によれば、このとき倭国では厩戸皇子も蘇我馬子も推古天皇もこの世を去り、倭王権は別家系の舒明天皇へ、さらに皇極女帝の政権へ移ったことになっています。

同時に、厩戸皇子の跡継ぎである山背大兄王が斑鳩の宮にいたとも記録されます。

そんな倭国に重大な影響を与える事件が勃発しました。

高句麗は唐王朝に対して融和政策を期待していて、高句麗政府の首脳は親唐派で占められていましたが、642年、淵蓋蘇文という高句麗の重臣がクーデターにより高句麗王と親唐派重臣数百人を殺害する事件が起きたのです。

百済が新羅に侵攻し、新羅からの救援要請に応じて高句麗王が対百済戦争を開始しようとしたので、淵蓋蘇文はこれを阻止するべくクーデターを起こしたと想像されます。

百済が新羅を攻撃しなければ、こういう事態には至らなかったはずですが、なぜ百済は戦争を始めたのか。

高句麗・百済・倭が連携して面従腹背戦略をとっていたことに唐は気がついていました。
これら三国の過去の行動を振り返ってみれば、それは明らかなことです。

この三国が連携している限り高句麗を滅ぼすことができそうにないとすれば、どうしたらよいか。

三国の中間に位置する百済を先に滅ぼして連携を断てばよいのです。

これは推測ですが、唐が新羅に命じて百済を挑発させたのではないか。

百済が新羅に攻め込めば、新羅は高句麗に救援を要請するしかなく、高句麗が百済と敵対関係になれば唐も百済に攻め込んで百済を滅ぼせばよい。

高句麗征伐はそのあとだ。

こういった唐の戦略に淵蓋蘇文が気がついていて、先手を打ったのだとすればつじつまが合います。

クーデターに成功した淵蓋蘇文は百済と倭国に同盟を求めます。

つまり、高句麗、百済、倭国の三国同盟をもって唐+新羅連合と対決しようということです。

唐と高句麗の外交関係は一挙に緊張状態に陥りました。

そして、倭王厩戸皇子なきあとの倭国は、再び難しい決断を迫られることになったのです。

倭国と百済の関係

元々、倭国と百済は特別な関係にありました。
石上神宮に今も伝わる七支刀は372年に百済王から倭王に贈答されたとされます。

当初、百済の王都は漢城(ソウル)にあり、百済王家から太子が人質として倭国王の元に送られていました。

百済は高句麗からの侵略に備えて倭国の支援を受ける必要があり、倭国も半島南部の伽耶地方確保するための防壁として百済が必要でした。

日本書紀では継体天皇(5世紀)の時代に、任那を百済に割譲したとの記録があります。
継体天皇は徳川吉宗のように分家から本家に入って倭王家を継ぎましたが、要するに倭国は政治的に不安定になっていたのです。

雄略天皇のあと倭国は内部抗争が起きて半島に関わる余裕が無く、百済と仲良くすることで半島権益を守ってもらうようになりました。

この時代の百済王(武寧王)が倭王(継体?)に送ったとされる銅鏡が和歌山県の隅田八幡宮に伝わっています。

半島南部には倭人系の豪族がいたし、百済政府の中にも倭人系官僚がいたほどに百済と倭国は密接な関係でした。

しかし欽明天皇の時代、東隣の新羅によって伽耶地方を占領され、百済へのテコ入れは期待はずれに終わりましたが、その後も百済は大陸外交の橋渡し役として倭王権に重大な影響を与え続けました。

こんな事情があるので倭国は百済と仲がよく、新羅とは敵対的であり、高句麗も本来は敵だったのですが、7世紀になって倭国は外交方針を根本から再検討する必要に迫られました。

高句麗は隋には勝てたが、唐にも勝てるのだろうか。
判断次第で倭国は滅亡するかもしれません。

唐の半島進出に備える高句麗と百済が倭国に同盟を求めたであろうこの時期に、倭国で重大事変が起きます。


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