つづき 高校1年になり、すぐに事件が起きました。 同じクラスで仲良かった女の子が 「体操服がなくなった」と。 私は他の同級生と共に隅々まで探しましたが 見つかることはありませんでした。 次の日、一部の友達からの無視が始まりました。 何が起きたのか分からなかったが、直ぐに判明。 「体操服を盗んだ」と。 その子と私は背格好がとても似ていたのが理由。 持ち物は紛失防止に各家庭に呼びかけられ、裏に記名が徹底されていた。 周りは巻き込まれたくないと無視を通した。 流石に担任へ
つづき 学生時代は、親への書類も多く、 母や父からの「仕事で行けない」という言葉を何十回も聞いたが、その頃には、言われても動じない自分がいました。 中学生に上がり、両親は当たり前のように 入学式にも部活動の試合にも来ませんでした。 兄とは1年だけ、学生生活がかぶっていました。 頭も顔も良く、スポーツ万能、歌も上手くて習ってないピアノも弾ける、そして女の人にもモテて、周りからの信頼も強い 兄と比較され続けた1年間は 私にとっては倍に感じるほど長かった。 私の家族は毒親
児童養護施設から引き取られた後のお話です。 私と兄は管理の整った集合住宅(マンション)での 【家族】との生活が始まりました。 兄は溶け込み、母は笑顔、祖父は穏やか、 そんな環境にわたしだけが戸惑っていました。 当時4歳だった私には、 環境の変化についていく術はありませんでした。 すんなりと環境を受け止めた兄に困惑し、 尋ねました。 ……兄はかすかに母を覚えていたのです。 子どもを産んだ今なら分かります。 娘が私を認識するのに然程の時間はかからなかった、それなのに私は、母
つづき 記憶も曖昧で幼かったわたしにとって、 その対面はとても酷であり、 母にとってもトラウマとなる出来事になってしまいました。 なぜなら、 母親の顔、声などに心当たりはなく 生みの親を覚えていなかったからです。 知らない人に呼ばれる恐怖で、大泣きし、施設の先生から離れなかった記憶が今も鮮明に刻まれています。 "記憶さえあれば、わたしが覚えていれば母はこの先、苦しむ事がなかったのでしょうか。" この日を境に私と母の間に大きな溝が出来てしまいました。 施設の先生の腕の
おはようございます。 時刻、8時09分 生後9ヶ月の娘はNHK番組に夢中です。 早速ですが、実話を語りたいと思います。 東京生まれ、千葉県の田舎育ち 私は兄以外の【 家族 】を知りませんでした。 幼少期の記憶はほとんどありません。 あるとすれば、ところどころで親戚らしき人の家で過ごしたこと、 2歳上の兄と共に児童相談所へ預けられ、数年の間、養護施設にいたこと。 年齢別で分けられていた事もあり、施設の中では実兄ともあまり会えず、会えるのは施設行事だけだったように思えま