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母と私、そして兄①

児童養護施設から引き取られた後のお話です。

私と兄は管理の整った集合住宅(マンション)での
【家族】との生活が始まりました。
兄は溶け込み、母は笑顔、祖父は穏やか、
そんな環境にわたしだけが戸惑っていました。

当時4歳だった私には、
環境の変化についていく術はありませんでした。
すんなりと環境を受け止めた兄に困惑し、
尋ねました。
……兄はかすかに母を覚えていたのです。


子どもを産んだ今なら分かります。
娘が私を認識するのに然程の時間はかからなかった、それなのに私は、母を"母親"だと認識できなかった
この意味がどういうことなのか、
幼きながら気づいてしまったのです。

ただそれは、わずかな記憶に過ぎず、
眠っている間に連れて帰られた後のことは
ほとんど覚えていません。

「わたしだけ"親"を知らない」
「これは家族なのか?」
「母は兄を愛している」
「わたしは愛されているのか?」
「わたしは本当に娘なのか?」

悲しさよりも、疑問が次々と浮かんでくる。
居場所を探さないと、調べないと、
わずかな記憶は頼りにならず、
そして、小さなわたしには何も出来なかった。

幼きながらも頭の回転が速かった私にとって、
周りを見る視察力、分析力は長けていた。
もしその力がなかったら、
もう少し穏やかに、素直に幸せを感じていたのかもしれない。

2歳年上の兄は、母に愛されている自覚があった。
" 母親は長男が大事 "まさにその言葉どおりだった。

そして兄は、頭も良く、何をするにも優秀。
外面がよくて家では俺様、典型的でした。

「母はなぜ私を産んだのでしょうか。」

小さい頃は兄のことがとても嫌いで憎く、
母のことも好きではありませんでした。

「帰りたい。戻りたい。辛い。会いたい。」

想いが溢れそうになると、
リビングで楽しそうに笑っている母と兄に気付かれないよう、部屋に戻り、声を殺して泣く日々。

それでも、子どもは"母親"に求めてしまうのです。
「愛情」を確認したいのです。

月日は流れ、小学3年生になり冬を迎えた。
私はインフルエンザにかかり、シングルマザーで兄と私を育ててくれた母に学校から連絡が入りました。
母は仕事が抜けられずお迎えは放課後でした。

そして、
「どこでもらってきたの?ママ仕事行けないじゃん」
その言葉に、母の表情に心配などありませんでした。

分からなかった、まだ子どもの私には
母親に甘えることが許されないんだと思いました。

運動会、授業参観、音楽発表会、、、
ほとんど来てくれませんでした。

親の来ない運動会は、とても寂しかった。
周りは親子で仲良くお母さんが作ったお弁当を囲んでいる中、私はポツンと佇んでいた。

同時期に、母が父と再婚したが状況は変わりませんでした。父は優しかった。

けれど、
運動会前日まで「行ける」と言っていた言葉は
毎年、「仕事が入った」と、当日に裏切られた。
母親の作るお弁当を家族で囲み食べたかった、
父親と親子競争で走りたかった、
思い描く【家族】の思い出を作りたかった、

そんな夢は望むことすら許されず、
期待はいつも裏切られ、諦めるしかありませんでした。

「○○は良い子だから分かるよね。ごめんね。」

その言葉で何年も私を苦しめ続けました。

苦しんでいることも、毎日泣いていることも、
頼ることも甘えることも出来なかった

この【家族】と出会ってから
私は「死にたい」思いを強く持ち始めました。
実の親と家族と一緒にいるより、
養護施設での生活が楽しかった、
あそこが【居場所】で【家族】でした。



つづく

#わたしの家族
#愛情
#裏切り


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