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稀代の名演、フリッチャイの『悲愴』(1959年、ベルリン放送響)を聴く

数多くある『悲愴交響曲』の録音の中でも特に気に入っている名演です。


音源の情報

曲目: チャイコフスキー作曲『交響曲第6番ロ短調Op.74, TH30「悲愴」』
演奏者: フェレンツ・フリッチャイ(指揮)、ベルリン放送交響楽団
録音: 1959年9月、ステレオ

レビュー

第一楽章

序奏部の出だしは実に幽玄で、浮き上がるように奏でられる旋律に孤独感が漂っている。第一主題の相手に直に訴えかけるような話術は、他では聴けない説得性。第二主題第一句ではベルリン放送響の弦の温かみが、第二句ではハンガリー人特有の軽妙なリズム感が悲愴感をより劇的に引き立てる。

展開部は高速演奏に流すことなく、各フレーズを慈しむように並列させている。第一主題を再現する際に大胆なアゴーギグを駆使する様子は当時のフリッチャイの大きな特色。第一主題に再現部は存在するのか?については議論が割れているのを見るが、ソナタ形式の研究に勤しんでいたフリッチャイの見解は音源を聴く限り"存在する派"だったのではないかと思う。

続く経過部のクレッシェンドは、自分のミュージックライフにおける衝撃的な体験だった。音楽を聴いていてこれほど戦慄したことはなかったから。

この楽章の出来が気に入らずにお蔵入りしたことを知った際は意外な気分になったものだが、コーダはそれまでと比較してリズム感にキレがないようにも感じられる。でも十分素晴らしい出来。

第二楽章

ベルリンフィルとの旧盤より90秒ほど遅くなっているが、主部に一定の軽妙さが保持されているのが往年のフリッチャイの持ち味か。それが、中間部の歩みの重々しさを引き立てている、この深重さは他の指揮者では味わえない。自分にとっては、他の楽章は拮抗する演奏があるが、第二楽章だけはフリッチャイ一筋。単なる小休止ではないのだ。

第三楽章

第一楽章展開部同様、高速テンポながらフレーズの克明さを重視した演奏。そのくらい弦の動きは瑞々しく、1950年代の録音であることを忘れさせる。第二副部のクライマックスでは、またしても大胆かつ自在なアゴーギグを効かせる。リズムの躍動感が悲愴感の爆発と相乗効果を発揮する様は大きな聴きどころ。

第四楽章

咽び泣くようなファゴットは、当録音の立役者だと思う。中間部では弦セクションの緊張感の高まりに計算が行き届いており、ブラスセクションとのバランスも絶妙。奈落の底へ落ちていくようなバスの音が残す余韻は無情。しばらく何も聴く気が起こらない。

フリッチャイの『悲愴』の演奏時間比較


・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1953年7月1-4日
17:22+7:48+7:51+9:14=42:15
・ベルリン放送交響楽団、1959年9月 (←今回扱った音源)
21:20+9:20+8:55+11:03=50:38
・バイエルン放送交響楽団、1960年11月24日ライヴ
20:17+9:21+9:01+11:50=50:31 (※第1楽章序奏部に欠損あり)

総括

カラヤンやムラヴィンスキーの新即物主義寄りのアプローチに比べると、白血病を患った晩年のフリッチャイはロマン主義寄りで、その掘りの深さ故に未だ孤高の位置にあると思う。

翌年の劇的なライヴ音源に比べると、スタジオ録音だけに抑制と計算が行き届いているので安心して推せる。年代の割に音質も良好で、各フレーズに情念を注ぎ込むフリッチャイという指揮者の生き様に触れるのに適した一枚と言えそうだ。

マイ・エピソード

この盤に対する私の思い入れは実は内容の素晴らしさだけではない。私は実生活においてクラシック音楽で意気投合できる仲間があまりいないのだが、前職の病院の副院長が大好きで、その際にきっかけとなってくれたのがテンシュテットのベートーヴェンとフリッチャイの『悲愴』だった。

ある日、取ったけど行けなくなった公演のチケットをいただいた代わりに、私が渡したのは彼が聴いたことのないというバイエルン放送響との『悲愴』。感想は聞けずじまいだったが、職場に楽しみを増やしてくれた意味でもフリッチャイ盤は縁の深い存在だ。

関連リソース

音源購入用リンク

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