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詩人タゴールが百年前に神戸で語った「子育て」の話

私は神戸に暮らして、子育てをしている。育児の合間に色々と調べものをしていたら、百年前(1924年6月)に、かの有名なインド詩人ラビンドラナート・タゴール氏(当時63歳)が神戸・元町を訪れ、子育てに関する講演をしていたことを再発見した。百年前のタゴールのメッセージについて紹介したい。

タゴールとは

ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)は、アジア人で初めてのノーベル賞を受賞したインドの代表的詩人である。インド国歌、バングラディッシュ国歌の作者としても知られる。詩のほか、音楽、絵画、教育、思想など多方面において現在も世界中の人々を魅了し続けている。

Wikipediaより。ラビンドラナート・タゴール

講演会はいつ行われたか

当時の地元紙である『神戸新聞』と『神戸又新日報』(こうべゆうしんにっぽう)を調べると、タゴールの講演に関する記事が載っている。

神戸又新日報によると、1924(大正13)年6月18日の午後3時から5時まで、兵庫県教育会の主催で、旧制県立神戸高等女学校講堂でタゴール氏の講演会が行われた。

講演会の記事 (「タ詩聖歸神−出迎少女の頬を指頭でつく無邪気さ」『神戸又新日報』1924年6月19日)。タゴールは2度目の神戸訪問。蝦茶色の長上衣に黒頭巾、金縁大型の鼻眼鏡だった

「縣立高女大講堂に於けるタゴール翁の講演會は立錐の餘地無き大盛況で午後三時古川學務課長の挨拶に次ぎ小川高商教授の通譯でタ翁は拍手に迎へられて壇上に立ち自ら詩を誦するが如く銀鈴を轉ずるにも譬ふべき美音で流暢な英語を以つて(中略)、其森林哲學に立脚し諄々として自然的教育を讃へ教育者達に多大の感動を與へ午後五時頃散會した、在神印度紳士等も熱心に傾聴して居た当日午後三時から県教育会の主催で高女講堂で開かれたる翁の講演は別項記載の如くである。」

『神戸又新日報』1924年6月19日

講演会はどこで行われたか

会場の「旧制県立神戸高等女学校講堂」は現在の元町駅北側、兵庫県庁1号館(神戸市中央区下山手通)にあったようだ。県立神戸高等女学校は翌1925年に第一神戸高等女学校と改称した。現在、その場所に「第一神戸高等女学校跡」の石碑がある。

現在の兵庫県庁の1号館北側にある「第一神戸高等女学校跡」の石碑(左)。石碑(右)によると、タゴール講演会の5ヶ月後(同1924年11月)には、同会場で孫文の大アジア主義講演会も行われた

タゴールの語ったこと:自然的教育の考え方

2時間に及んだ講演内容は、『神戸新聞』に2日間(6月19日・20日)にわたり紹介された。新聞記事は、兵庫県教育会の主催による本講演会が、子どもの教育に関するものであったことを報じている。

タゴール自身、型にはまった教育に馴染むことができずに子ども時代は3つの学校を退学したという。40歳のとき自ら野外学校を創設して(この学校はのちにインド国立大学、現在のヴィシュヴァ・バーラティ国立大学となっている)、本講演ではタゴールの経験をもとに、子どもや教育との関わりについて語られたようだ。

後で全文を掲載するが、たとえばこのような内容だ。

子供には目的と云ふものがないさうして大人にはこれがある故に大人は何でも自己の目的に關係あるものゝのみを注意し自らの世界を極限して進むこれに反して子供はすべてを同一に視る眼前に展開する全べての物を視、聞き、そうして味うて敢て選擢をしない渓川の流が小石に弾かれて早さを增す如く子供は新しき事實に遭うて驚く每に新しき知識を得る大人であり目的を有する學校管理者は大人の目的に適する鑄型に子供を入れこれに反するものは悉くこれに除外する而して彼等はこれを教育と稱した彼等は自然から美しき色や活動やすべてのものを取去つて牢獄を造つて學校と呼んだ、さうしてこれを子供に利益があるとして訓練と稱へ修養と名づけた

『神戸新聞』「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(上・下)」1924年6月19日・20日

少し意訳してみる。
「なんでも目的ばかり意識している大人と違って、子どもは、目的など考えることなく、ただただ目の前に広がるすべてを見て、聞いて、味わう。渓流が小石に弾かれて早さを増すように、子どもは新しい体験を通して、驚くたびに新しい知識を得ていく」

そうそう!これってまさに子どもの姿である。タゴールは、子どもが生まれながらにもつ心を尊重し、自由を与えて自然のままに育てる教育を推奨している。

わが子もいつも「目的など考えることなく、ただただ目の前に広がるすべてのものを見て、聞いて、味わう」姿を見せてくれる

一方、子どもの自由を奪うものとして、学校教育の現状を痛烈に批判している。

「大人は、大人に都合のよい子どもを育てることを『教育』と呼び、美しい自然の中で過ごすことをやめさせる牢獄を作って『学校』と呼び、子どものためと言って訓練させることを『修養』と名付けた」

かなり辛辣である。が、その通りかもしれない。

そのころの学校では、政治的に、画一的・教師中心の教育が強いられていたという。これに反対する人々により、日本では大正新教育運動(大正自由教育とも呼ばれる)が起こり、子どもの自発性・個性を尊重しようとする講演会や研究会が各地でさかんに行われていた。タゴールの語る自然的教育の考え方は、こうした新教育運動に関心・期待を寄せる教師らにも大いに受け入れられたと考える。

『神戸又新日報』によると、本講演は「立錐の余地無き大盛況」の会場で多くの参加者に「多大の感動を與へ」たそうだ。

タゴール講演の与えた影響


この講演会に影響を受けた人物を2名見つけた。詩人の八木重吉(1898-1927)と、医師の日野原重明(1911-2017)である。

八木重吉

1924年当時、26歳だった八木重吉は、兵庫県御影師範学校に勤務する英語教師であり、仕事の傍ら詩を書いて暮らしていた。1歳娘を育てる父親でもあった。八木重吉の年譜には「六月、来日したタゴールの講演を神戸できく」との記載がある。

調べていくと、八木重吉は、講演会のあったその夜に『鞠とぶりきの独楽』と題する詩群57篇を一晩で一気に書き上げたことがわかった。詩群の冒頭には「皆 今夜(六月十八日夜)の作なり。(中略)むねふるへる日の全てをもてうたへる大人の詩である」と書かれており、この「むねふるへる日」の出来事とはまさにタゴールの講演会のことと考えられる。

*タゴールの八木重吉への影響については、別途「資料紹介:八木重吉『鞠とぶりきの独楽』詩群とタゴール」論文にまとめた。
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100483217/0100483217.pdf


日野原重明

百歳を超えても現役医師として活動したことで知られる日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長)は、その著作の中でタゴールについて触れている。

私が小学校六年ぐらいのときに、神戸にタゴールが来て講演会をやったことがあったことをいまなお思い出します。」(日野原重明『命をみつめて』岩波書店、2001)と、この日の出来事を振り返っている。

日野原氏は、父親が神戸中央メソジスト教会(現在の神戸栄光教会)の牧師であったことから、1915年から神戸に暮らしていた。神戸栄光教会とタゴール講演会会場(兵庫県庁)は目と鼻の先である。少年だった日野原氏自身や家族が、この講演会を聴いたことだろう。

また別の著書では、「タゴールの哲学は、とくに、子どもへの接し方という点に関して、私のなかで大樹のように、揺るがぬ存在になっています。私の、医者としての最大の師がカナダの偉大な医学者、ウィリアム・オスラーなら、文学の師はタゴールだと言えるでしょう」(日野原重明『子どもを輝かせる10のお話』実業之日本社、2007)と紹介し、人生の生き方の手本としてきたと明かしている。

タゴール講演の記事全文

『神戸新聞』の記事「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(上・下)」の全文(6月19日・20日)を掲載する。意訳と原文(読みやすいよう句読点を補い、旧字体は新字体に直した)を併記する。テキスト化に際し、どうしても判別できなかった文字は▪️で表した。

『神戸新聞』「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(下)」1924年6月20日。

◇無学者の教育論

もし50年前に預言者がいて、今日私が教育について語ることを予言していたら、私はとても驚いたでしょう。なぜって私は13歳で学校を辞めたからです。しかし、その後私は詩人として知られるようになり、小さい子どものための学校を作る必要があると考えるようになりました。若くして学校を辞めたのは、結果的によかったと思っています。教育がなかったために、無味乾燥な教育から解放されたのです。

若し五十年前に預言者があつて今日私が教育のことに就て語るであらうことを預言したならば限りなく愕かされたに違ひない。何故とならば私は年僅に十三にして教育を捨てたからである。然るにその後私は詩人として虚名を博するに至つたが更に私は小さい子供のための学校を造らねばならぬと考ふるに至つた。幼くして学校を退いたと云ふことは併し乍らその爲めに却つて利益であつた。教育がなかつた爲め従来の乾燥無味なる教育の束縛から私は免がれることが出来たのである。

『神戸新聞』「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(上)」1924年6月19日(以下同)

◇間違った教育

私が若い頃、世界中の教育は間違いだらけでした。私はその間違いをしない学校を作りたいと願いました。間違いの一つは年齢制限です。友達が学校に入れたのに、私は若すぎて入学できなかった悲しみを覚えています。入学してみると、学校は間違いだらけでした。実生活からはかけ離れ、同情も趣味もなく、ただ束縛だけがありました。学校は、例えるなら、自然に住むべき鳥を捕まえて籠に入れ、人間が作った餌を与えるようなものです。それが私には限りなく不快で、悲しみを感じるものでした。

私が若かつた時分世界到る處の國の教育は間違だらけであつた。私はこの間違を取除ひた学校を造りたひと願つた。間違ひの一は年齢の制限である。友達が学校に入るのに私は年若き故を以て入学することの出来なかつた悲みを今も尚ほ記憶しているのである。やがて年来つて入学してみると学校は間違を以て満たされていた。そこには同情と云ふものが全く無かつた。それは實生活から遠くかけ離れたものであつた。同情なく趣味なく唯束縛のみがあつた。それは私の反抗心を彌が上にも嗾つた。学校とは例へば自然に棲むべき鳥を捕へて籠に入れ外から人間の拵へた餌を與ふるに過ぎないと云ふ事實が限なく私に不快の念を與へ私を悲しませたのであつて

◇子供を無視する

学校では、子供を子供として認めないことに大きな誤りがあります。そこでは、大人の都合のよいように、将来のためだけに子供を教育し、罰します。例えば、子供は騒ぐことが好きで、騒ぐことで新しい知識を得ます。しかし、学校の管理者はこれを禁じます。ここに、子供の自然性と学校との衝突が生じるのです。学校は子供に精神を集中するよう強要し、子供は自然に精神を寄せたがりました。自然に心を配れば常に新しい発見があり、驚きは常に新しい知識につながります。小さな心は十分に活動できますが、学校はこの活動を許さず、心の能動を否定して受動を押し付けました。私の反抗心はこのために強まりました。

所謂学校は子供を子供として認めない▪️に大きな誤りがある。そこでは子供大人の都合のよいやうに大人となつた時のことのみを標準として教育し處罰する。例へて云ふならば子供は騒ぐことを好む。騒ぐことに依つて彼等は色々の新しき知識を得るのである。然るに学校の管理者はこれを禁ずる。茲に子供の自然性と学校との衝突が起つて来るのである。学校は子供に向つて精神の集中を強要した。そうして自然は子供に要求するに精神の分配を以てした。精神の分配は常に新しき事實を發見して驚き、驚きは常に新しき知識を獲得せしめる。そこに小さき心は十分に活動すことが出来るのであるが、集中を強要する学校はこの活動を許さない。学校は子供の心の能動を否定して受動を押付けた。私の反抗はこれがために強められたのである。

◇子供に目的なし

子供には目的がありません。しかし大人は目的があるため、自己の目的に関係あるものだけを注視し、自己の世界を限定して進みます。これに対して子供はすべてを同一に見ています。目の前に展開するすべてのものを見て、聞き、味わい、選別することはありません。渓川の流れが小石にあたって速さを増すように、子供は新しい事実に驚き、毎回新しい知識を得ます。学校管理者は大人の目的に合う鋳型に子供を入れ、反するものはすべて除外します。そして彼らはこれを教育と呼びました。彼らは自然から美しい色や活動やすべてのものを取り去り、牢獄を作って学校と呼びました。そしてこれを子供に利益があるとして訓練と呼び、修養と名づけました。

子供には目的と云ふものがない。さうして大人にはこれがある故に大人は何でも自己の目的に関係あるもののみを注視し自らの世界を極限して進む。これに反して子供はすべてを同一に視る。眼前に展開する全べての物を視、聞き、そうして味うて敢て選擢をしない。渓川の流が小石に弾かれて早さを増す如く、子供は新しき事實に遭うて驚く毎に新しき知識を得る大人であり目的を有する。学校管理者は大人の目的に適する鋳型に子供を入れ、これに反するものは悉くこれに除外する。而して彼等はこれを教育と称した。彼等は自然から美しき色や活動やすべてのものを取去つて牢獄を造つて学校と呼んだ。さうしてこれを子供に利益があるとして訓練と称へ修養と名づけた。

◇子供は人生の花

子供には目的がないため、将来の利益を考えて行動を選ぶことは避けるべきです。それは例えるなら、花に対して実の使命を強いるようなものです。子供は花であり、大人は実です。花は開いて日光を受け、露にあたり、時には虫が来て蜜を吸わせます。待ち構えずに来るものを次々と迎え入れるのが花の自然であり、そこに花の使命が完成されます。花に誘われた虫も、実となっては拒絶されなければなりません。果物が求めるものは花に害を与えることも事実です。学校はこれを考えません。子供の小さな心はこの同情なき圧迫に苦しめられます。私は40歳になり、この小さな心を解放しなければと思いました。学校という場には、あらかじめ設けられたこと以外は何も起こりません。それは活動も生命もない墓場です。

既に子供には目的がない以上、将来の利益を考へて事を選ぶが如きは▪️むべからざることである。それは例へば花に對つて實の使命を強ふるものである。子供は花であり大人は實である。花は開いて日光を受け露にあたり時には蟲來つて蜜を吸ふに任す。待ちに設けざるものの相次いで來り會するは花の自然であり、そこに花の使命が完成されるのである。花に誘はれた蟲も實–果物となつては拒絶されねばならぬ。果物の欲する所花に害あるべきも又事實でなければならぬ。学校はこれを考えない。子供の小さき心はこの同情なき圧迫に苦しめらる。私は年四十にしてこの小さき心を解放せねば学校には待ち設けざる何物も起つて來ない。それは活動なく生命なき墓場である。

◇無趣味なる学校

朝8時半に登校するとなれば、来る日も来る月も8時半に登校しました。休みは予定表と一日と変わらず、教える先生も同じで、厳しい顔で子供に対しました。このやり方は、目的があり仕事がある大人にはよいかもしれません。規則に伴う無趣味も大人にはさほど苦痛とはならず、大人には利益という慰めがあるからです。子供には慰めがありません。味気ない登校を1年間繰り返した後に来るのは、恐ろしい試験の脅威です。不幸にして試験で良い点を取れなかった子供は、落第の処罰を受けなければなりません。その残酷さといったら、一年間働いた下男が最後に少しの落ち度があったとして全く賃金を払わない主人と何ら変わりません。

朝八時半に登校すると云へば來る日も來る月も依然として八時半に登校した。休は予定表と一日と變ることがない。教へる先生も同じ。厳しい顔で子供に対したこの格は目的あり事務ある大人には良いかも知れない。正格に伴ふ無趣味も大人に取つてはさまで苦痛とはならぬ。彼等には後で市傷に儲けを得ると云ふ慰安があるからだ。子供には慰安が無い。無趣味なる登校を一年の間繰り返した後に来るものは慰安ではなくて不都合な恐ろしい試験の脅威である。不幸にして、この試験によき點を取り得なかつたものは、落第の処罪を受けなければならぬ。その残酷なること一年の間働いた下男に最後に少し許りの落度があつたと云つて全然賃金を払わない主人と何の▪️ぶ所があるか。

◇子供の冒険性

子供を型にはめて絶対服従を強いることは、子供の生命を抑圧するだけで何のいいこともありません。子供が大人の言う通りになることは、大人には都合がよいかもしれませんが、そのために子供の大切な冒険性を萎縮させてしまいます。子供が言うことを聞かないことこそ、子供の最も尊い生命です。言うことを聞かず、冒険を敢行することで、子供の責任感が養われます。これを無視して絶対服従を強い、牢屋に閉じ込めるのが今日の学校です。私が学校を始めた時は、年齢の低い子供を寄宿舎に入れることができなかったので、仕方なく外で手に負えない我儘者ばかりを入れました。しかし、これが私の有益な経験となりました。

子供を鋳型に嵌めて絶対の服従を強ふることは子供の生命を抑圧する外何の得る所もない。子供が大人の云ふ通りになることは大人に取つては都合がよいかも知れないが、そのため子供に最も大切な冒険性を萎縮させて了ふ。子供が云ふことを聞かないとは亦子供の最も尊き生命である。云ふことを聞かず、冒険を敢てする所に子供の責任観念が養はれるのである。これを無視して、絶対の服従を強ひ、牢屋に追込んで了ふものは今日の学校である。私が学校を始めた時は餘り年のゆかない子供を寄宿舎に入れることが出来なかつたので止むを得ず外で手におへない我儘者許りを入れた。さうしてこれによつて私は有益なる経験を得たのであつた。

『神戸新聞』「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(下)」1924年6月20日(以下同)

◇我儘即ち精力

わがままな子供とは、精力旺盛な子供のことです。彼らは常識的な制裁には従いません。わがままであるほど精力に満ちています。わがまま、すなわち精力は自然の尊い賜物です。人前で取り繕うなどすれば、それは傷つき、発達を止めてしまう悲しい結果となるでしょう。私は手に負えない子供たちを少しも圧迫したり処罰したりしませんでした。圧迫や処罰は子供を善良に導くものではありません。曲がった性質も、結局は自然が与えたものだからです。

我儘な子供とは精力盛なる子供のことである。彼は月並の制裁に従ふことをしない。我儘であればある程、子供の精力に大である。我儘即ち精力は自然が與ふる所の尊き賜である。併しそれは殊更に人の前を繕ふことと衝突する。さうしてそこに折角の自然の賜を傷けその発達を害する悲しむべき結果を惹起するのである。私はこの手におへない子供等を少しも圧迫したり処罰したりしなかつた。圧迫や処罰は子供を善良に導き得るものではない。曲つた子供の性質も畢竟自然が與へたものである。

◇自由療法の功果

こうした私の試みはよい結果につながりました。私はこれを自由療法と名づけました。自由があれば誰もが健全に発達していきました。私の学校では、子供たちは自由に高い木に登り、池で泳ぐことができました。ある時は、外に出かけて雨に遭い、びしょ濡れになって帰りました。こうした子供たちが休暇に家庭に帰ったとき、親たちはその良くなった様子に驚きました。自由は人の心に必要なだけでなく、人と人との関係にも必要です。束縛は心を歪ませるだけです。

かうした私の試みはよい結果を得た。私はこれを自由療法と名づけた。自由のある所に総ては健全なる発達を遂げた。私の学校では子供等は欲する儘に高い木の上に登ることが出来た。池の中に入って泳ぐことができた。或る時は不用意に出かけて行つて雨に遭つてビシヨ濡れになつて帰ってきた。而もかうした教育をうけた子供等が休暇になつて家庭に帰った時、その善くなつたことは親達を驚かしたのであつた。自由は人の心に必要である許りでなく、人と人との関係にも必要である。束縛は心をねぢけさせる許りである。

◇学校は即ち家庭

私の学校では、師弟関係は自由で、教師は子供の遊び仲間です。そこは家庭のようだったので子供たちにはホームシックがありませんでした。学校は家庭そのものでした。世の多くの教師は、学問と年齢で小さな子供を怯えさせていましたが、私は仲間として子供たちに接しました。年は違っても、少し先を歩んでいるだけで、同じ道を辿る旅人として子供たちを導きました。

私の学校はそれ故、師弟の間は自由にした。教師は子供の遊び仲間である。かうした私の学校の子供にはホームシックと云ふものが無かつた。そこには家庭があつたからである。学校は即ち家庭そのものであつたがためである。世の多くの教師は、学問と年齢で小さい子供を怯ぢさせた。私は仲間として子供に交つた。年は違つても幾らか先を歩んでいるだけのことで彼岸に行き着いていないことは同じである。私は同じ道を辿る旅人として子供を導いたのである。

◇楽しき巣を造る

次に私は、本当の学校は鳥を押し込める鳥籠ではなく、鳥が自由に住む巣でなければならないと考えました。そこで私は、子供たちに対して、管理者と生徒が力を合わせて楽しい巣を作るのだと教えました。巣すなわち学校は私の学校であると同時に、子供たちの学校でもあると教えました。そこには束縛の代わりに協力がありました。子供たちはこれを非常に喜び、学校を出た後も時間があれば学校を訪れることを楽しみました。心の自由、人と人との間の自由、自由なくして真の教育はありえません。学校の教師は、自分の目的を基礎としてすべてを子供に強いました。植木屋は木を植えて花を咲かせずに葉ばかり繁らせることもできます。しかし、それでは不自然です。子供を完全な人間にするためには、自由の中で成長させなければなりません。

次に私は本当の学校は鳥を押し込める鳥籠ではなくて、鳥が自ら欲するままに棲む所の巣でなければならぬと考へた。そこで私は子供に対して管理者と生徒と力を協はせて楽しい巣を造るのだと教へた。巣即ち学校は私の学校であると同時に、子供等の学校であると教へた。そこには束縛の代りに協力があつた。子供等は非常にこれを喜んで校を出でて後も暇あれば学校を訪ふことを楽みとした。心の自由、人と人との間の自由意志の自由、自由を外にして真の教育はあり得ない。所謂学校の教師は自分の目的を基礎としてすべてを子供に強いた。植木屋は木を植えて花を咲かさずに葉許り繁らすことも出来る。併しそれは不自然である。子供を完全なる人間とするためには自由の中に成長させねばならぬ。

◇子供は創作者

自分の思い通りに行儀良く従順に育てようとする教師は暴君です。子供は創作者です。これに自由を与えて自然のままに育てることが、本当に神の意に適う真の教育だと私は信じています。

自分の思う通り行儀よく従順に馴練しやうとする教師は實に暴君である。子供は創作者である。これに自由を與へて神の賜を自然の儘に育てしめる、これが本当に神の意に協へる真の教育であると私は信じている。


参考:タゴール年表

1861年 タゴール0歳:タゴール誕生
1883年 タゴール22歳 妻ムリナリニ・デビと結婚(その後、5児をもうける)
1901年 タゴール40歳 シャンティニケトンに野外学校設立
1902年 タゴール41歳 妻死去
1903年 タゴール42歳 次女レヌカが肺結核のため転地療養、レヌカ(12歳)死去
1907年 タゴール46歳 次男ショミンドラ(11歳)がコレラで死去
1909年:タゴール48歳 『ギタンジャリ』を英訳して刊行、ベンガル語詩集『おさなご』刊行
1913年:タゴール52歳 ノーベル文学賞受賞(アジア人で初めてのノーベル賞受賞)、『おさなご』より選んだ詩を英訳詩集『THE CRESCENT MOON』として刊行
1915年:『タゴールの詩と文:英和対訳詳註』が日本で刊行
1924年:タゴール63歳 神戸の旧制県立神戸高等女学校講堂で講演
1941年:タゴール死去(80歳)

おわりに:なぜこれを調べたか?

育休中、詩人 八木重吉の詩を読みながら、詩人と神戸の関係について調べていた。八木重吉の年譜にはタゴール神戸講演を聴いたと記載されており、その講演内容を知りたく、当時の新聞を調べることにした。

神戸市立中央図書館には「神戸新聞」と「神戸又新日報」のマイクロフィルムが保管されており、希望すれば閲覧できる。「1924年6月」の記事を調べた結果、関連記事はすぐに見つかった。講演内容の全文が掲載されていたのは予想以上の収穫であった。さらに、タゴール来日中の動向は連日紙面をにぎわしており、当時の「タゴール・ブーム」と呼ばれる注目の高さがうかがえた。

タゴールの講演記事を読んで、特に、タゴールの子どもに関するみずみずしい描写や、子どもの豊かな好奇心を大切に、ありのままを受け入れる姿勢に惹かれた。百年前の内容ではあったが、子どもをどう育てていくかに関心をもっていた私にはタイムリーな内容だった。

子どもが「不確実性の時代」を生きていくなかで必要な学びとは何か。いま、世界的にも、かつての知識の詰め込みや生産性向上のための学びから、人間が豊かに生きるための学びへと、教育をとらえ直す動きが進んでいるという。オルタナティブ教育という言葉もよく耳にするが、これが今に始まったものではなく、百年前からこのような議論が行われていたことが興味深く思われた

世界的詩人のタゴールが、百年前の神戸で、子育てについて語ったというエピソードの発見は、私自身の子どもへの視点にも影響を与えた。また、タゴールにも関心をもつきっかけとなり、詩や著作を読み進めてみたいと思っている。

文献

・神戸又新日報記事「タ詩聖歸神−出迎少女の頬を指頭でつく無邪気さ」6月19日
・神戸新聞「小さき者の解放―鋳型教育を強制する学校の制度は子供の牢獄(上下)」大正13年6月19日、20日
・海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、1977年、133-143頁
・中野光『大正自由教育の研究』黎明書房、1968年、10頁
・田中清光編『八木重吉文学アルバム』筑摩書房、1984年、182頁
・吉野登美子『琴はしずかに― 八木重吉の妻として』彌生書房、1976年、80-84頁
・山形梢「八木重吉『鞠とぶりきの独楽』詩群とタゴール (資料紹介)」國文論叢別冊、1号、2023年、66-73頁
・日野原重明『命をみつめて』岩波書店、2001年
・日野原重明『子どもを輝かせる10のお話』実業之日本社、2007年

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