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旅のカタコト言葉をめぐる「ぐるりのこと」

(前略)そのうち、私は一人のときも片言のトルコ語を使うのをやめた。その方がいいような気がしたし、結果的に良かった。だって、お互いに聞きたいこと言いたいことはただひとつ。

……見慣れない顔ね、遠くから来たのね、まあ、よく来たね、あなたに会えて嬉しい。
……遠くから来たのです。この地球上で、あなたに会えるなんて、奇跡、なんて嬉しい。

『ぐるりのこと』(梨木香歩)のうち「風の巡る場所」から

この春の旅で読んだ本から。この一節は、私もファンの梨木さんの『ぐるりのこと』に所収されているエッセイからの引用で、著者がトルコの古都コンヤに行った時の内容。片言のトルコ語を覚え、それを使うことで、地元の人が様々話しかけてくれるけれども、これがわからず申し訳なくなる。また、ガイドの方からの解説を受けたり、あるいはそれへの何気ないリアクションが、逆にお互いの距離を広げる原因になる経験などを踏まえた一節。

ウズベキスタンの山間の村・セントブのお世話になってたお宅のテラスで読みつつ、この一節に出会いました。その瞬間はしばらく動けなくなり、しばらく考え込んでしまいました。ちょうどこの間の記事でも言及した、「タジクの方々の村の中でウズベク語でコミュニケーションをとろうとする」ことへの違和感を認識した直後だったこともあり。

海外旅行での言葉

現地の言葉がわかることは、海外旅行でも特に「業務」の話をするうえで便利なのは言うまでもありません。たとえば、タクシーの行先、レストランの注文、ホテルでの特別リクエストなど。そういった、お客さんと従業員みたいな「遠い間柄」では言葉は通じたほうが良い、というのはいつでも成り立つ話かもしれません。一方で地元の人との雑談や、長い時間行動を共にするガイドさんなど、「客対従業員」ではない関係性にあると話が変わってきそうです。

ウズベキスタンで

今回の旅行でも片言のウズベク語を覚え、それを振り回していると、梨木さんの指摘のように「ウズベク語が通じると思ってたくさん話しかけてくれるが、結局申し訳なくなる」ことも多くありました。

それだけでなく、認識の行き違いがあったときの言葉。詳細は別記事で書きますが、登山ガイドツアーをお願いしていたところ、目的地に関する認識の違いがありました。結局の原因は旅行会社とのメールでの事前コミュニケーション不足だったことが後で判明したのですが、現地でガイドの方と対面しているときに違和感を感じ、話がこじれていきました。こじれる中で片言でも言語がわかってしまうことは、確かにお互いの距離を広げる原因になることを、上記の一節を読んだまさにその翌日感じて行く次第でした。

登山途中の里山。風が気持ち良い。

一方で、この誤解を解くのも言葉でした。上記の一件の翌日、旅行会社の方と直接お会いして(こちらは英語で)お話をして完全に誤解が解け、なおかつその背景まで真摯に聞かせて頂けたのは「言葉の力」をまざまざと見せつけられた瞬間でした。

トビリシの温泉にて

ところ変わってジョージアの首都トビリシ。こちらは温泉地として有名で、もはや日本の銭湯とほぼ同じスタイルの公衆浴場が街の真ん中にあります。そんな風呂に浸かりながらの話。

トビリシ中心部の温泉

ジョージア出身で日本で活躍されている方、といえば筆頭に関取の栃ノ心関があげられると思います(ちょうどこの記事を書いている前の日に引退表明をされました)。トビリシを訪問したのは栃ノ心関が優勝した翌年。このニュースはジョージアでも大きく取り上げられ、地元の人も良く知るところでした。そんな状況で温泉に入っていると、地元の方と話になる。(片言ロシア語、ただ今よりは記憶が新しい)

*「どこから来たの?」
      ー「日本です」
*「おっ!日本!珍しいね。ジョージアはじめて?」

みたいな話をしているうちにこちらから振ってみました。

       ー「そういえば、レヴァン・ゴルガゼ(栃ノ心の本名)知ってますか?」

これには満面の笑顔で「もちろん!トチノシーン!!」と返してもらえました。その後も「あいつは強い」みたいな話で盛り上がり、「銭湯で相撲の話」という極めて和風の取り合わせがジョージアでも有効だったのか!と思えたのは言葉の力でした。遠い異国の、たまたま会った知らない人同士の間に、共通の話題があったことは稀有で、これこそ栃ノ心関の功績ですが、そのピースをつなげるのにはカタコトのロシア語があった、というお話です

ウエールズの田舎町のパブにて

今度はUK(イギリス)の西部ウエールズ。車旅行の夕方、田舎町モイルブレで予約した宿を探すのに四苦八苦。その辺の人に聞くこと二回でようやくたどり着きました。荷物を置いてパブに向かうとさっき道を教えてくれた方が楽しんでいました。

モイルブレのパブ

*「おぉ、君はさっきの旅の人だね。宿は見つかったかね?」▶︎はい
*「それは良かった。この村もいいところだろう。」

そうやって話が盛り上がってくると、あちらの輪の中に入れてもらい

*「村はずれにある銅像をもう見たかい?」▶︎いいえ
*「ならば明日の朝、見に行くといい。昔、この村の沖で大きな船が嵐にあって沈んだんだ。村人も救助に向かったが、多くの海の男たちが犠牲になった。銅像はその時のことを伝えている。」
*「そして同じ過ちを繰り返さないように、嵐を予想する研究が始まったんだ。天気なんて神のみぞ知ると思われてた時代にな。お陰で今では俺も安心して海に出られるってもんだ。どうだ、若いの。飲んでるか?」(一杯ゴチになる)

そんな感じで楽しい夕べ。若い男一人旅行だと、昼間よりも夕方、こういうお酒の場でおじさま方と仲良くなる場面が多いというのはおそらく世界共通でしょう。そしてその場でも言葉が知らないもの同士をつないでくれました。


一方でノンバーバル

以上、旅の思い出で思い出す「派手な」記憶の多くは言葉を通じたものだったように思います。というか上記、エピソードトークのフォーマットに成形しやすいのは言葉を介したもの、という特性でしょうか。一方で一瞬一瞬に感じるやりとりには、言葉を介さないノンバーバルなものが圧倒的に多くあると感じます。

(先ほどの引用のつづき)具体的な言葉がわからなくても、お互いちぐはぐなことを言っていても、ようするに、笑顔や身振りで、この気配が相手に通じればいいのだ、この親密さのレベルでは。なまじ具体的な言葉の意味が分かってしまうと、どうでもいいようなことに注意が行ってしまって、そういう「本当に伝えたいこと」は通じなくなってしまう(以下略)

『ぐるりのこと』(梨木香歩)のうち「風の巡る場所」から

記憶に残っているものは多くありませんが、ウクライナ西部・リヴィウの市場、フランス南部・ル・トロネの修道院、キルギス東部・カラコルの食堂などなど、印象的なものはいくつかあります。こういった「気配の交換」がたくさん積み重なっていくことで、「あそこはいいところだったなぁ。具体的にどう良かったか、どう説明していいかわからないけど」というような雰囲気の記憶を作っていくのかもしれません。言葉を介さない以上、第三者に説明が難しく、ふわっと「あの国は人が良かった」と言わざるを得ないのはこういうことかも。私が中央ユーラシアばかり回ってる理由もこの辺かも知れません。

ウクライナ・リヴィウの教会で

最後に

こういう言葉をめぐる葛藤、みたいなものについて書いてみました。万能ではないし、学んだからと言って100%素晴らしいことが待っているものでもない、面倒なものだということは外国語を勉強するときに頭の片隅においてもいいかもしれませんね。バベルの塔以後に暮らす上では「しゃぁないよなぁ」とか思って引き受けるしかないのかも。そして、「ただ移動するだけの旅」以上の体験はノンバーバルから来ることもある、と思っておいて良さそうです。

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