優しい乱暴 原案小説その6 完結

繁華街のバス停

バスを待つ八十五歳の女の子を由利が見たのはどれくらい前だっただろうか。たった数ヶ月前の事だった気がする。
「水野、バス停はまだかな」
どれくらい時が過ぎているのか。
由利は風景に混乱している。
それはたぶん女子高生に戻った水野も同じで、突然老人になった蟹江も同じ様に混乱しているのだと由利は考えていた。
その由利はカツラをはぎ取られ、中途半端な女装姿で頭に下りますのボタンをつけている。そのボタンはカツラの天使に押されているが、いっこうにバス停は見えてこない。バスの運転手はうしろ姿しか見ていないので実在しているのか少し不安になるのは、バスの外の風景があまりに見慣れない風景だからだろう。
「私、確かに水野ですけど」
「水野知子」
「そうですけど」
「それ、どんな気分?」
「あなた誰ですか?」
「由利寿文です」
「はい」
「女学生気分は?」
「わかりません」
由利は水野がふざけていると思っている。
「まだ大人になった事がないから」
由利は水野の匂いを嗅いだ。
「お酒臭いけど」
「ちょっと失礼ですけど、おじさん」
由利はにやにやしているが水野は不機嫌なままだ。突然に老いた老人蟹江鳥生は皺でざらざらした手や腕を撫でながら、妙に苦しそうに息を吐きながらも生き生きとした様子だ。カツラの天使はカツラのせいで表情がよくわからなくなっているが、妙に他人行儀な様子に変わっている。
由利だけがそのままだ。
バスから見えていた郊外の巨大ショッピングモールは林だった。いつもはそこでたくさんの人が乗り込んできて満員になる。そしてその後のバス停はほぼ無人で寂れた繁華街まで徐々に人が下車していき、残るのは仕事帰りの一杯の酒を求める中年の男女とそれに連れられた若干の若者だけだ。
風景に過去の空気が漂う。
じゃあ水野は学生で正しいのか。
だけど蟹江は老人になってしまった。
天使はカツラで大人臭くなった。
どの時間がどうなっているのか、朝焼けが夕暮れに見えるみたいな化かされようだなと由利は思ったが窓の夜景に写る自分の姿も中途半端な女装で中途半端な化物じゃないかとバス座席の肩口にある手すりをじっと眺めていた。ちょうど良い目線の先に手すりがあるものだから、ただじっと見てしまっていた。もしかすると時間とは一分六十秒六十分二十四時間というものは単なる君と僕との関係を保つための決まりで本当は人それぞれに別の時間が存在していてその人それぞれの時間を感じるとき、それが永遠と呼ばれるものなのか、関係のためにある決まりが全くないその世界は、もしかしたら僕には永遠で、君にとってはあるのにない、無なんじゃないか。幼い頃、人体は宇宙に似てると考えていた由利は、人間が宇宙だとすればその宇宙の意識の外には無数の無が存在していて、決まりがあれば繋がれるのではないかという大発見に辿り着けそうな気がしたのだが、ただ手すりをじっと眺めているだけだった。
蟹江はしわくちゃの老人の手でつり革をひとつひとつ渡り、天使に辿り着く。
「僕だよ」
夜を走るバスの騒音が音楽に変わる。
繁華街の入口はとてもネオンに溢れている。
風景は俺の過去だと由利は考えた。
蟹江は自分の姿が叶えられた未来だと考えていた。
「老人の僕だ」
しわくちゃに笑う顔は悲しみを秘めている。
それで天使は困ってしまう。
光の洪水、目を細め自分だけの洪水を楽しんでいる水野はぽつり、景色の中に「君を救う」と呟いた。まるでバスの外は戦場の様だなと呟いて思った。
「君も大人になった」
「たぶん、そうです」
「僕はもうしわくちゃだ」
「私も色々しわくちゃです」
天使は恥ずかしくなって、身体がふにゃりふにゃりとやわらかくなってしまって二本の足では立ちにくくなって。
つり革を握りすぎている。
蟹江も天使も、つり革を握りすぎている。
「驚いているんです」
「私も驚いています」
「僕が老人になれるなんて」
「私も」
「大人の君を浮かべた事もあったけれど、こんなふうなんだね」
「残念ですか」
天使はあまり自分に自信が無い様だ。
「僕は、よぼよぼの老人ですよ」
蟹江は老人である自分を誇っている様だ。
「身体は言う事を聞いてくれませんが、心の中には知識と経験が溢れている」
「楽しそうですね」
「ええ、何が楽しいのか、わかります」
「良かったら私に教えて下さい」
「いいですよ」
蟹江の手が天使の握ったつり革を優しく掴む。天使の手ごと一緒に掴む。
天使はまるで宙に浮いてぶら下がってしまっている。
「あの頃の僕は頭が悪かったですね」
天使は黒い皮の鞄の中身の事を考えている。
そして頭上を見上げてみたが、バスの車内の天井には星が無かった。それがとても残念な気がして、ぶら下がっていた身体の両足がちゃんと床につくのを感じる。人間の二足歩行には理由がある。足で無くなった腕は、あなたを抱きしめるために、両手はあなたに触るために、足ではなくなったのだ。二本の足でしっかり立てなくちゃ、そうできないから、しっかり立ちましょうと天使は空に浮かぶ天使であるのをやめて、きちんと自分の名前で生きる事に決めたのでした。
「手紙は届いていますか?」
天使は、原田摂子の顔で笑顔をしました。
由利がその顔に八十五歳の女の子を見つけた。
バスの外の戦場は雨に降られていた。
窓に数滴、雨が命中して、雨が降っているんだと納得した水野は水滴の音を真似て「君を救う」と言ったあと、バス停のおばあちゃんと叫んだ。
「おばあちゃん」
原田摂子は水野に気がつき、ああ、と納得をした。
突然バスの窓に滝の様に雨の集合が衝突した。その音に真似て負けぬ様に水野は叫んだ。
「そのおじいちゃんは、蟹江鳥生さんです」
「原田摂子」
蟹江鳥生はつり革と原田摂子の手を返事を待たずに握りすぎてしまう。
「蟹江さん」
「僕はおじいちゃんになったよ」
「私もおばあちゃんですって」
「じゃあまるでずっと一緒に居たようですね」
「居たのですよ」
「そうですか」
「そうです」
「じゃあ楽しかったですね」
「とても楽しかったわ」
「これからはもっと楽しいですね」
「どうして」
「同じ時を同じ様に居られるから」
一人の人間と一人の人間が二人になる。
これが永遠の終わり。
宇宙には果てが生まれる。
生と死。
それを結ぶのは、愛だとしか思いつかなかった。
それを結ぶ必要があるのか、必要ではないのかもしれないけれど、永遠には無しか無いけれどつながりってのはいいものですね。良い気分で悪い予感はありませんね、それと引き換えに永遠が終わるとしても、ずっと繋がれていられる感触がするんですよね。
「蟹江さん」
「はい」
「また会えましたね」
水野は窓の外の戦場にうつる自分の顔を見ながら、君を救ったと確信した。
繁華街の氾濫したネオンがグルグルと竜巻をつくり、勢い良く衝突した。
バスに激しく衝撃が走る。乗客達は車内を転がり落ちた。転がり落ちる様な感じになった。そして衝撃が落ち着いた時、由利は天使に奪われたカツラを被っていた。カツラの由利に覆いかぶさってきたのは蟹江だった。蟹江は若く兵士の姿で由利を抱きしめた。
「大丈夫か」
「え」
「僕が守るから」
辺りから銃声やら悲鳴やらが聞こえている気がするが、周囲に何が起こっているのか由利はわからないでいた。ただ由利と蟹江の他には誰もいない、二人は転がったバスの残骸の中に隠れていた。
「水野は?」
「たぶん僕を助けて、吹き飛んだ」
「天使は?」
「天使?」
「このカツラの天使」
「天使がカツラ?」
「どこだ?」
「君は夢でも見てたのか?」
蟹江が由利を馬鹿にして笑いをこらえてる。
またどこか遠くで爆発音が聞こえる。由利はその爆発音に紛れて屁をした。蟹江が真顔なのでバレなかったのだが、糞がびちゃびちゃになって漏れていた。そして爆発音の後の沈黙に腹がギュルギュルとなった。蟹江が真顔なのでバレてはいないと思っていた。
「大丈夫か」
「え」
バレてた。
「腹壊しているのか?」
「いや」
「そうか」
「お腹が空っぽだよ」
由利は空腹ではなかったが蟹江に甘えたくなった。
「糞、漏らすからだよ」
バレてる。
「あれか、匂いか、スカートだから臭うのか」
蟹江は声を出さずに大笑いしている。
「どうして女の格好をしている」
「さあ」
「ここをどこだと思ってる」
「さあ」
蟹江はまた声を出さずに大笑いしている。
「蟹江」
「僕を知っているのか」
「そう、たぶん最近は友達だった」
「へえ」
「君は」
「何」
「名前」
「由利寿文」
「いい名前だ」
「なんか子供の時以来だな、そんなふうに言われるの」
「そうかもね」
「蟹江鳥生」
「僕の名前はどうかな」
「俺の友達の名前だ」
「ありがとう」
「なにが」
「僕なんかに友達なんて嬉しい」
「糞垂らした友達だけどな」
「臭い台詞だな」
由利はなんだか蟹江がやたらと格好よく見えて、糞の付いたパンツを脱ぎ捨てて蟹江にぶつけた。蟹江は最初よくわかっていないみたいだったが、顔に被さられた白い布が下着のパンツだとわかって、汚い、ひゃーと慌てて、そこに飛び散った糞の匂いを嗅いで飛び上がった。ヒーヒーといいながらバスの残骸の中を飛び上がった。
パーンと銃声が聞こえた。
身を伏せ倒れ込む二人。
小石が倒れ込んだ由利の頭に当たり、ヒーヒーと慌てて頭の傷を確認する。
「どこ。どこ」
「ここ、ここ」
蟹江は転がる小石を由利に向かって投げている。
「どこを撃たれましたか、お嬢さん」
「頭だ、傷あるか、ここここ、パーンって当たったと思うんだ」
「小石ですか」
再び蟹江は由利の頭に小石をぶつける。
「蟹江」
「由利、ここはどこだ」
「さあね」
「そりゃあいいね」
蟹江は声を出さずに大笑いしたから、まるで音がない世界だと思ってしまってその後の銃声には気がつかなかった。二人とも気がつかなかったのだが、蟹江の身体の一部が破れ、血がドボドボと溢れてきた。それを見て貧血になってしまって蟹江は倒れ込んだ。倒れて空が見えた。破れたバスの天上から空が見えた。青空。かなり青い。それでああ、青いなんて思ったらズキズキとして痛いんだと思えてきた。一度思ったらもう痛さがどんどん増して息が苦しくなるくらいだった。
「すいません、すいません‥」
蟹江の声には翻訳機が必要なくらいだったが、由利には理解出来た。
「由利寿文」
「蟹江鳥生」
「いい名前だ」
「撃たれたぞ」
「ホントに?」
「どこだ、どこだ、どこから血が出ているんだよ」
由利は蟹江の身体の傷を必死に探している。
「なんで女の服着てる?」
「ここだここから血が出てる」
「女じゃないくせに」
「喋るな」
「女なら撃たれないと思ったのか」
「うるさいから」
「おかげで僕が撃たれたぞ」
「ちがうぞ、俺はそんなつもりじゃないぞ」
「おい、歌え、あれだ、あの歌だよ」
「せっかく女のふりしてるなら歌を歌ってくれよ、こんな時くらい喜ばせてくれよ、僕は女の子のあの歌が聞きたいのだ、知っているだろう、君は知っているのだろう」
「もう喋り過ぎだ」
「もっと喋らせろ」
由利は椰子の実を小さな声で歌った。
「こんな場所で死にたくない、僕はまだ死にたくないよ、うちに帰りたい、父さんと母さんに会いたい、原田摂子にも会いたい、原田摂子が歌う椰子の実が聞きたいんだ、死にたくない死にたくない死にたくない、触れ触れ由利寿文もう君でもいい、最近友達になったのだろう、ならば友達でもいい、でもできれば、まだ死にたくないよ」
たくさん泣いた顔で蟹江鳥生が死んだ。
なんだかおもしろい顔で、少し笑って笑ったせいで涙が出る。
「蟹江、ずぶ濡れじゃないか」
「ここがどこかわかるか?」
「ただのバスの中だよ」
夜の寂れた繁華街を時間に遅れたバスが走っている。
ネオンがあったであろう場所が点々とあるせいで、もっと昔は賑やかだったのだろうと記憶にもないのに懐かしく思える。
記憶に無かった事が記憶になる。
バスの時間もずいぶん遅れている様だ。
道中の事故のせいだ。
パーン。
何かが衝突した。
バスの外の出来事だ。
「地面がじゃりじゃりだ、たぶんさっきまでの雨のせいだ」
床はほんのりじゃりじゃりしてて。
まるで薄い砂漠。ハゲ、砂漠、ハゲの砂漠、ハゲ砂漠。
でもじゃりじゃりってもしかして髭の事か
蟹江鳥生はたくさん泣いたおもしろい顔のままだ。
あと数分で八十五歳の女の子が待つバス停に着く。
電光掲示の表示板に文字が流れる。
蟹江鳥生はたくさん泣いたおもしろい顔のまま、由利の隣に座り動かなくなっていた。蟹江の服はずいぶん濡れてしまっていたので、由利は服をあげる事にした。由利の服なのだが蟹江のほうが似合っている。由利は服をあげてしまったから婦人服のままだ。どうせ婦人服の訪問販売をしているのだから、それでもいいだろうと考えている。
バス停が見えてきた。
駅に見えるのは水野知子だけだ。
もう真夜中過ぎるのだ。
夜よ明けるなバスよ来い。

由利はバスを下りる時、蟹江の方は見ないで下りる事にした。
見なかったのでおもしろい顔を思い出してにやにやしてしまう。
「何それ?」
「何が?」
蟹江鳥生の願いをたぶん全部叶えてあげたんだと言うのが面倒くさいのでうんうんと由利が頷くと水野も理解した。
「私も」
由利も水野が八十五歳の女の子を救い、正義の味方になったのだと理解した。
「その服似合う」
「うんうん」
バスはじっと真顔で動き出した。動いたバスを動いたせいで二人は眺めた。
バスの中には、若き頃の蟹江鳥生と八十五歳の女の子が乗っていた。
二人は真顔で、バスの外の二人に手を振った。

 バスの中では老人になった原田摂子が黒い革の鞄から手紙を出した。
蟹江鳥生がその手紙を見せてくれと言うので手渡し便箋を開いてみたが、もう文字はかすれてほとんど消えている。
「消えているね」
「はい」
「僕はきっと恥ずかしい事を書いているだろうから、それでいいね」
「憶えていますよ」
「それはまた、恥ずかしいね」
「僕は弱くて、殴られても当然の様な人間なのだ、だから偉い人に死ねと言われれば死にます、それが僕の価値なのならば価値があるだけよいのです。こんな僕を好きになるなんて馬鹿みたいでしょう、だから、忘れて下さい。君はまだ幼くあまりにも何も知らない人だから僕を好きなだけなのだから。でももし帰れたとしたら、一緒に年老いてたくさん楽しみ、たくさん勉強し、些細な全ての事が楽しめる様になりましょう。二人しわくちゃになるまで一緒でいましょう。それが僕の望みです。こんなにも自身の事を願うのは生まれて初めてだ。君のおでこの温度が恋しいのだ。僕の手の甲が君の体温と同じではない事が悲しいのだ。ここはあまりにも遠い異国だから」
蟹江は震えた。
震えて原田摂子を抱きしめたので、蟹江が老人にも見えた。そしてその包容にときめいた摂子は女の子にも見えた。体温を感じるくらいに目を閉じれば、心の内では、蟹江にとって摂子は女の子で、摂子にとっては蟹江は成熟した老紳士でもあるのだ。
二人は感触と記憶の旅をする。
肉体の外は永遠であり、肉体には果てがあるのだ。
爆発している。
肉体の様な宇宙、宇宙の様な内蔵、繰り返す爆発。
ちくちくと心に乱暴だ。
何度でもちくちくと心に優しい乱暴が愛情だ。
夜空にちくちくと星が光り、まだ夜明けまで時間がありそうだ。



end

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