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戦火のアンジェリーク (4) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第2幕部分(R15)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、地名、出来事とは関係ありません。
※一部、身分や職業などに対する差別的表現がありますが、当時の価値観に基づくものなので助長や賛同を意図しておりません。

2.London ~ the UK

前奏 ~ 変革


 白いミルクのような朝靄あさもやと、辺り一面に揺蕩たゆたう、しっとりと濡れた霧。

 格調高い大聖堂、王族の風格を現す宮殿が、運河を囲うように誇り高くちりばめられ、街を象徴する巨大な時計塔がそびえ立つ。
 長い歴史と遺跡が造り上げた都市から離れた周辺には、石炭というかてが燃えたあと……仄かに曇る煤煙ばいえんが、流れ漂う……

 これが、英国。イギリス――ロンドンの冬。

 この荘厳そうごんで由緒ある地には、夢を叶える希望に溢れ、沢山の貴重な出逢い、厳しさ、そして……酷な現実の痛みがありました。

 世界中が震撼し、狂気と闇に呑まれていく最中さなか、激しく萌える深緑に心震え、切なる甘さに揺さぶられ、深く落ちていった、あかく、あおい日々…………

二重の邂逅

 シドニーで船に乗り込んでから、どのくらいの時が過ぎただろうか。出港してからずっと、アンジュは不定期に揺れる船体と共に、海上で不安定な思いを抱える日々を送っていた。
 携帯できる時計を持っていない彼女には、船内から見える太陽の動きと、自分を迎えに来た男が持つ懐中時計しか、時の流れを知るすべが無い。分刻みの家事や雑用からは解放されたが、先の全く見えない不安だらけの旅路は、次第に息苦しくなり、牢獄生活のようにすら感じていた。

 アンジュをスカウトした、楽団の遣いだという中年の男は、馬車の中で軽く自己紹介をした時、楽団のおさの補佐を担っていると語った。英国の占領国でもあるオーストラリアが故郷らしく、帰省していた時に、たまたま彼女を見かけたという。
 この数日間、一緒に旅をして来たが、それ以外はあまり言葉を交わすこともなく、ひたすらパイプを吸っている、品はあるが人間味の薄い、寡黙な男だった。
 いかにも『仕事人間』といった感じの彼に対して、『気難しそうな人』という印象を抱いた。今日も、寝所は別の客室で、共に過ごしていたのだが、長い沈黙に耐え切れず、居心地が悪くなり、アンジュは甲板に出た。
 日が経つにつれ、外の空気はどんどん冷えていったが、それでも毎日、海の様子を眺めている。ずっと室内にこもっているせいか、悪い想像や不安ばかりが膨れ上がっていく。

 ――ロンドンに海は無いって、前にフィリップから聞いたわ。せめて、森……緑や花が沢山あればいいけど……

 見知らぬ世界に飛び込んでいくのが怖くなると、朧気な記憶と拙い知識から、すがるような思いでイメージし続けた。

「オーストラリアから来た、『アンジェリーク』だ。今日から歌い手の見習い、住み込みの下働きとして働いてもらう。皆、よろしくやってくれ」

 ロンドンに到着し、『ワーグナー楽団』の団長である、マドラス・ワーグナー氏とようやく対面した。挨拶もそこそこに、早速、彼は楽団の皆を集め、アンジュを紹介し始めた。『ワーグナー楽団』の稽古場は、ロンドンでも栄えた街の一角にある、小さな建物内にあった。窓からは街のシンボルである、巨大な時計塔……『ビッグ・ベン』が小さく見えている。
 オーストラリアのニューキャッスルとは全く異なる印象の、これから自分が暮らしていく新しい土地を、アンジュは驚きと新鮮な思いで眺めた。辺り一面が、ミルクティーと煉瓦レンガ色に染められ、重々しい石で囲い込むように造られた街だと思った。

「アンジェリーク……アンジュです。どうぞよろしくお願いします」

 これから共に働くことになる人達に、アンジュはなるべく礼儀正しく挨拶し、一礼した。ずらりと囲むように集まった団員達は、そんな彼女を興味津々で見ている。
 『南半球の孤児院でスカウトされた、歌い手の見習いが来る』という噂は、既に広まっていて話題の中心だったのだ。とはいえ、いい話ばかりではなかった。中には、孤児院出身という肩書きに、あからさまな偏見の目を向ける人も少なくない。現に数人の団員が、ちらちら、と互いに目配せしながら、敬遠や軽蔑の視線を向けたりしている。
 そんな好奇や侮蔑の視線に、アンジュは気づいていたが、以前程には気にしなくなっていた。

 ――フィリップみたいな人だっているかもしれない…… それに、何も悪い事、してないわ。

 なるべく、堂々とした態度を意識しながら、輪の中に入って行った。


 産業革命を経て、二十世紀に入ったロンドンは、かなり近代化が進んでいた。町中の路面にガス灯が立ち並び、路上には車やバスも走っている。故に、大抵の団員は、遠近問わず自宅から通いで来ていた。
 財産の無いアンジュは、賃貸は借りられない上、身元保証人も養い主もいない為、稽古場の掃除などの雑用をするという条件で、建物の屋根裏に住み込む事を許された。『借金』という程ではないが、内実、孤児院への多額の寄付と引き換えのスカウトだったのだ。自身の知らぬ間に、彼女は楽団から強いプレッシャーを与えられていたのだった。

 初冬のロンドンの朝陽は頼りなく、淡く儚い。まだ宵から醒め切れず、仄かに薄暗い早朝。ゴーン……ゴーン……と、大聖堂の荘厳な鐘の音が、市内中に響き渡る。同じ頃、皆が集まる時間に間に合うよう、アンジュは起床し、ストーブを焚いて部屋を温めた。
 質素に食事を済ませ、稽古場の掃除をした後、到着して来た団員達と合流し、歌のレッスンを受ける。内容は、発声練習や音階の取り方、腹筋を鍛える為の運動を行い、楽曲の歴史なども学んだ。
 今まで、自分の好きに歌ってきた彼女にとって、目から鱗と言うべきか、自身の未熟さを痛感する毎日だった。本当に初心者の為に上手くこなせず、教官や先輩にしごかれてばかりだったが、アンジュはとても楽しかった。孤児院にいた時と違って、ここでは色んな人と過ごせるし、何より歌の勉強ができるのが嬉しかったのだ。

 この楽団には、歌手だけでなく、ピアニストやバイオリニスト、ギターリストなど、様々な種類の音楽家の卵が集まっているらしく、レッスンをしている間にも、様々な楽器の音が聞こえて来ていた。
 それだけあって、演奏する側も多様な人種や人格の人間が集まっているが、アンジュは、又違った意味で目立っていた。孤児院出身で無一文ということもあるが、彼女独特の雰囲気に、周りが敬遠し、引いてしまっていたのだ。
 皆、次の仕事で演奏するのは自分だと、同じ楽団内でも、密かにライバル心を燃やしたり、中にはいがみ合う者もいる。そんな空間の中、彼女のようにどこか浮世離れした、競争に無頓着そうに見えるタイプは浮いてしまう。
「変な子」「遊びに来たのかしら」と、陰で言われていた。当人は、今は自分の歌を磨く時だと思っていたので、そんな現状の理由が解らず戸惑い、ここでも敬遠されてしまった事を悲しんでいた。

 ――もう、フィリップみたいな友達はできないのかな…… そうね。あんなに優しくて素敵な人は、なかなかいないわ……

 時が経つにつれ、彼の面影が美しく彩られていくうちに、『本当に海の神から遣わされた天使だったのでは』という、幻想さえ覚えるアンジュだった。


 めまぐるしく日々は過ぎ、ロンドンに来てから三ヶ月の時が流れ、季節は冬になった。アンジュにとっては、夏を感じない年になる。
 今日は、次の公演に出演するメンバーの発表だ。この楽団は、大抵、大きなイベントや富豪の屋敷に招かれ、彼らが行うパーティーやお茶会の催し物として演奏するのが主流だった。構成やメンバー、演目の配役は、全て団長であるワーグナー氏が決定権を持っていて、異論は認められない。団員が稽古場に到着する頃には、既にメンバーの一覧表が貼り出されていた。
 そこに書かれていた内容を見て、アンジュを含む団員達は驚愕した。三人で合唱する演目の一人に、アンジュの名前があったのだ。しかも、一小節だけだが、独唱ソロで歌う箇所がある。驚き半分、彼女は喜んだが、他の団員達は面白くなかった。
 最近、入団したばかりで演奏会のメンバーに選ばれ、更に、僅かだがソロパートまであるのだから、やっかむのも無理はない。数人の団員が、怒りや妬みを含んだきつい視線を、ビシビシ、と投げつけている。
 自分に向けられている、そんな冷ややかな視線に気づき、アンジュは、思わず下を向く。こういう空気には疑似感デジャヴが強く、敏感だ。ただでさえ楽団内で浮いてるのに、更に、風当たりが悪くなってしまった。

「何で、あの子が選ばれるの?」
「実力も無いのに」
「どんな手を使ったんだか」
「大人しそうな顔して、結構やり手だねぇ」

 いくら抗議しても、団長の決定には逆らえない。密やかに、尚且なおかつ彼女に聞こえるように、団員達は囁き合った。
 案の定、それから彼らは、更に冷たい態度を彼女に取るようになってしまった。共に披露する、他の二人の女性も普段はもちろん、練習中も義務的なことでしか話しかけて来ない。おまけに、ちょっとしたことで、嫌みを言われる始末だった。


「……何で、こうなるんだろ」

 さすがに耐えかね、その日の練習が終わった後、アンジュは一人残って、ぽつり、と呟く。

「私って、どこでもこんななのね……」

 ふう……と軽くため息をついた時、背後から、カツン、カツンとヒールが床に打ち鳴る、軽やかな音がした。驚いて振り向くと一人の長身の女性が、こちらに歩いて来ている。

「クリスさん……」

 驚いたアンジュは思わず、ぽろっ、とその名を溢していた。
 クリスこと、クリスティーナ・コーラルは、アンジュより少し年上の、楽団の花形の歌手で、歌唱力は勿論、容姿も群を抜いて美しい女性だった。
 真珠色の真っ白な肌、薔薇色の唇。サファイアのようにあおく瞬く瞳は、長い睫毛が扇のように縁取っている。女性らしい豊満なバストに、しなやかなくびれのある体型。亜麻色につやめく髪は綺麗に巻いて、小ぶりの洒落た帽子の中に収めている。
 そして、何よりも印象的なのが、ハープのようにしっとりと、華やかに響く美声だった。神話に出てくる女神のように魅惑的で、演奏会では必ず詠唱アリアを歌う。まさに『歌姫』の称号に相応しい彼女は、団員達の羨望の的で、アンジュも密かに憧れていた女性だった。
 そのクリスが、自分に話しかけている。思いがけない状況に、アンジュは狼狽うろたえ、動揺した。

「何してるの?」

 深紅の薔薇の花が、ぱあっ、と満開に咲いたような笑みを浮かべながら、クリスは声をかけた。ブラウンのコートにタイトスカートという、シックな装いにも拘らず、ますます人間離れした魅力が際立つ。そんな出で立ちに圧倒されてしまい、小柄のアンジュは彼女を見上げたまま声が出せず、すっかり見惚れていた。

「……どうかしたの?」

 心配そうに問いかける彼女に、アンジュは慌てて口を開いた。

「ご……ごめんなさい。とてもお綺麗だから……」

 すると、少し驚いた素振りを見せた後、くすり、とクリスは笑った。

「ありがとう……可愛い人ね」

 ふふっ、と美しい笑顔を再び浮かべる。彼女が少し喋っただけで、周りの空気が一気に華やぐ気がした。

「私、クリスティーナ・コーラル。貴女は、アンジェリークよね。よろしく」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 辺り一面につややかに響く美声で挨拶し、白魚のような手を差し出した彼女を見て、フィリップと出会った時を思い出した。胸奥がぎゅっ、と少し痛んだが、慌てて彼の像を消し、握手し返す。

「……良い声をしてるわ。柔らかくて澄んでて。精霊……花が舞っているよう。団長が推すのも無理ないわね」
「いえ……そんな……」

 今の自分の状況を思い出し、高揚した気持ちが、しゅうっ、としぼむ。そんな彼女をクリスは見逃さず、すかさず続けた。

「皆、貴女に嫉妬してるだけよ。こういう仕事をしてる人間にとって、嫉妬ややっかみは賞賛と同じ。気にすることないわ」
「ありがとうございます…… でも、嫌われるのは辛くて」

 アンジュは、昔から自分が自分であればある程、何かを失ってる気がしていた。人はどんどん離れていき、欲しいものは、実際に得られてるのかどうかも分からない。そこまでして、仮に得られたとしても、果たして、それだけの価値があるのだろうか……

「貴女は、何の為に歌を磨いてるの? 皆に好かれる為じゃないでしょ? 私達だけじゃない。皆、一人で戦ってるのよ。正しい答えなんてない。大切なのは、自分が何を一番信じるか。何を優先するか…… その為には、代わりに何かが犠牲になるものよ。その先に何があるのか……求める未来が待ってるか分からないけど、私はそうやって生きてるわ」

 彼女の厳しくも真摯な言葉の一つ、一つが、アンジュの心の奥に強く、深く刺さった。夢を追い続ける、自分のまま生きるという道は、何て難しく、厳しいのだろう……
 しかし、夢を諦めることも自分を無くすことも、今の自分には出来そうにないと思った。なら、せめて、磨いて生きるしかないのだ……

「……ありがとうございます。何だか思い直せました」
「本当、素直な人ね」

 憑き物がとれたような表情で礼を言うアンジュを、クリスは微笑ましそうに、くすくす、と笑う。不意に心がざわめいた。

 ――この感じ、知ってるわ……

 躊躇ためらいなく、心を開ける心地良さ。安心して接せる感覚。……フィリップの姿が、幾度も重なったのだった。

深緑の夜


 あれから。家族、姉妹に対する感情というものを知らなかったアンジュは、クリスに対して、それに近い思いを抱くようになっていた。数日経っても、他の団員達は、相変わらずアンジュに冷たかったが、心が潰れそうな時に微笑みかけてくれる、彼女の存在は本当にありがたかった。
 この人になら、安心して相談できる、助けてくれる。そんな同性の先輩が出来たことが、アンジュは嬉しかった。同時に、昔の出来事が頭をよぎり、手放しで浮き立てない自分もいる。まだ根に持ってるのだろうか、と自嘲していたら、休憩中、クリスが肩を叩きながら、声をかけて来た。

「アンジュ。例の公演、来週末の夜ですって。お互い頑張りましょうね」
「来週? どこで……ですか?」
「格式高い貴族様のお屋敷よ。晩餐会を開くらしくて、その催し物の仕事」

 『貴族』という聞き慣れない格式高い言葉に、少し尻込みする。

「貴女には初舞台ね。でも、緊張しなくていいわよ。練習通りやれば大丈夫」

 プレッシャーに押し潰されそうになっているアンジュを見て、クリスは更に明るく励ます。

「相手が身分の高い方だからって、変に気負わなくていいのよ」

 この言葉で、が、彼女の中で戻った。

 ――あぁ……そうね。相手が誰であろうと、できる事を精一杯するしか、私には…… 一生懸命、歌おう……

 新たに気を引き締めたアンジュだったが、まさか、この初公演で、彼女の人生を大きく変える出逢いが待っているとは、思いも寄らなかっただろう――


 週末の夜。ワーグナー楽団の一行は、例のパーティーの主催者である、公爵家の屋敷にやって来た。依頼者であるグラッドストーン公爵は、夫妻と息子二人の四人家族で、その息子達は大変な美形らしい、と楽団の女性達は色めきたっている。
 事前に楽曲のイメージに合わせた衣装を打ち合わせ、自前か貸衣装に頼り用意する。皆、精一杯のお洒落をしていて、宝石箱のようにきらびやかだった。
 給金も貯蓄もまだ無いアンジュは、クリスが数年前に着たというフォーマルドレスを譲り受け、洋裁の本を参考に、自分のサイズに何とか仕立て直した。大きく肩が開いた純白のオフショルダー。髪は高い位置で結い上げ、造花を付けると、彼女の蜜蝋みつろう色のブロンドが映え、名前通り、天使のような恰好スタイルに仕上がった。
 今までお洒落というものすらした事がなかったアンジュは嬉しかった。出発の直前まで、恥じらいながらも鏡に映していた。

「ありきたりじゃない。本当に変な子」
「とうとう、クリスさんにまで取り入ったのね」

 団員達は嘲笑混じりに、そんな後輩を陰で皮肉る。美形だという息子二人についても、フィリップの傷を引きずっていたので関心が無く、ますます色眼鏡で見られてしまっていたのだ。

 公爵始め、上流階級の人間にとって、こういった社交の場は重要だ。あらゆる爵位を持つ者や実業家などの富豪達を集め、自分達の社会的地位を主張し、ビジネスや婚姻の人脈作りに利用する。客人達と楽団の一行は、其々の席について主催者一家の登場を待ちわびていた。しかし、なかなか現れない彼らに、不信感を抱き始めている。
 アンジュは異世界のような空間全てが珍しく、新鮮だった。深紅のビロードのカーテン、錦糸編みのカーテンタッセル。豪華な装飾の付いたテーブルや椅子、白磁や銀製のカトラリー、おそらく純金と宝飾で造られたのであろう、頭上で瞬き煌めくシャンデリア……
 眩しい位のきらびやかさに圧倒されつつも、憂いを帯びたを輝かせながら、そわそわと楽しんでいた。終いに、美しい刺繍が施されたシルクのテーブルクロスの裾を、こっそり摘まんで眺め、近くのメイドに唖然とされてしまった。

 やがて、夫妻と息子らしい青年が揃って現れたが、一人しかいない。困惑した客人達がざわめく。

「申し訳ございません。もう暫くお待ちを」

 客席に向かって、にこやかに公爵は告げた後、「おい、ジェラルドはどうした」と、隣の妻らしい女性に怪訝そうに尋ねた。

「さあ……? 昼間から姿は見えませんけど」

 そんな夫に、彼女は他人事のような口振りで答える。どうやら、未だ来ていないのは弟の方らしい。兄だという方の青年……ロベルトは、俳優のように甘い顔立ちで、柔和な印象の好青年だったが、かなりの女好きだと、隣の席の団員がこっそり話していた。
 皆が待ちくたびれてきた、その時、バタン、と勢いよく入口の扉が開き、一人の長身の青年が現れた。

「ジェラルド!!」

 怒りを含ませ、公爵は叫んだ。が、ジェラルドと呼ばれたその青年は、じろり、とダークグリーンの眼孔がんこうで父を睨み付け、「申し訳ない」と重く響く声色で、素っ気なく詫びただけだ。
 無駄の無い動きで素早く席につき、襟足の少し長いブルネットの髪が揺れる。歩き方や仕草、佇まいには貴族らしい落ち着いた品があったが、周囲を威嚇するように振る舞う彼に対し、アンジュは『不思議な人……』という印象を持った。
 何だその態度は、と言わんばかりに戦慄わななく公爵をなだめ、「まあまあ…… さあ、始めましょう」と、夫人が甲高い声で明るく取り成す。彼女も目の醒めるような魅惑的な美女で、息子二人と同じダークグリーンのをしていた。しかし、貴族という肩書きにはあまり似つかわしくない、華やかというよりは派手、けばけばしい印象の女性だ。
 彼女は没落しかけている伯爵家の娘らしく、実家の財が破綻寸前で、その金策援助も兼ねて公爵家に嫁いで来たのだと、近くの新参同士の客が話している。
 気まずい空気に満ちていたが、初舞台の事で頭が一杯なアンジュにとっては、異世界の会話でしかなかった為、全く耳に入っていなかった。

 ようやく公演が開始された厳かな空間の中、団員其々それぞれが、歌や楽器の演目を終え、いよいよ、アンジュ達の番が来た。彼女達の演目は普遍的ポピュラーな讃美歌だ。団員のピアニストの伴奏に合わせ、歌い始める。
 好奇に満ちた観客の圧な視線、様々なプレッシャーによる眩暈を感じる程の緊張感の中、ソロパートもなんとか歌い切ることが出来、楽曲は終わった。盛大な拍手の喝采を浴び、生まれて初めての心地よい達成感と、未知の幸福感に満たされていた。
 しかし、ラストのクリスの歌を聴いた時は、心底、自分の力不足を痛感してしまった。サーモンピンクのドレスに身を包んだ彼女の歌は、この世のものとは思えない程の至高の出来で、聴く者全てを天界の世界へいざなう、まさに音楽芸術の女神――ミューズの歌声だったのだ。
 会場中の人間全てが、たちまち酔いしれた表情に変わり、惚れ込むような熱っぽい眼差しを向けた。中には、うっとりとしたため息、感嘆の唸り声を漏らす者もいる。
 それは、アンジュも同じだった。緊張で強張っていた心が、あっという間に蕩けていくのがわかった。この力強くも夢のように魅惑的で、人々を惹き付ける源は、一体何なのだろう。『彼女のような歌姫、女性になりたい』という、明確な目標が出来た瞬間だった。


 全ての演目が終わり、立食パーティーに移った。参加客は、ワーグナー楽団、特にクリスの美しさと歌唱力の話題で持ちきりだ。彼女の周りには、沢山の客が集まって賑わっている。そこには、夫妻の息子のロベルトもいた。
 他愛ない世間話、其々それぞれの家や家族の自慢話、醜聞スキャンダルに、パイプの燻る臭いと、多種多様な香水の匂いが交じる。あでやかできらびやか、どこか日常からかけ離れ、張り詰めた空間……

 見聞きするもの全てが目新しく、不慣れなアンジュは面食らった。独特の熱気と人混みに酔い、頭を冷やそうとバルコニーへ向かう。しかし、先客がいた。先程、遅れて来たジェラルドと数人の女性客だった。

「悪いが、貴女がたと関わる気は無い」

 静かだが、はっきりとした物言いと声色で、鋭い拒絶の言葉を返された女性達は、不機嫌そうに会場に戻って来る。残った彼は、象牙ぞうげ色の石膏で出来たへりに寄りかかり、虚ろげに彼方を眺めている。少し癖のあるブルネットの髪が、緩やかな風に揺れていた。
 ジェラルドはロベルトとは違い、端正だがシャープな顔立ちで、人を寄せ付けない冷淡な雰囲気が強い。健康的で爽やかな美少年といった、フィリップとも違う。彼がスカイブルーの瞳の天使顔とすれば、ジェラルドは、郊外にある森のような深緑の瞳の、妖艶な悪魔顔といった印象だった。
 そんな彼の出で立ちが、冷えた霧の漂う森の中で一人佇んでいるように、アンジュには見えた。

「人嫌いって噂通りね。高飛車だわ」
「公爵様でもあれじゃあね。良いのは顔だけよ」

 こちらに戻って来た先程の女性達が、アンジュとすれ違い様に、口々に言い合っている。窓際のジェラルドに聞こえるよう、わざと声を張り上げていた。
 どうしようか……と、アンジュが迷いながら立ちすくんでいると、視線に気づいたらしく、ジェラルドは振り向いた。無表情のまま、容赦無く鋭い視線を向けてくる。その妖しく暗い眼光に、思わず怯む。

「……君も、何か用か?」

 予想以上に周囲に低く響く、こちらを圧倒するような物言いにたじろいだ。先程、団員が演奏していたチェロのような、静かだけども重厚感のある音色。しかし、どこか落ち着いた印象も抱いたアンジュは、勇気を振り絞って、恐々と尋ねた。

「いえ、あの…… 外の空気を吸いたくて……構いませんか?」

 すると、少し驚いたように、髪と同じブルネットの長い睫毛に縁取られた、切れ長の涼やかなを見開いた。

「……どうぞ」

 素っ気なく答え、空虚な眼差しを彼方に再び戻す。一応、お許しが出たので、彼から少し離れたバルコニーのへり近くに立った。

 当初の目的通り、アンジュは黙ったまま外を暫く眺めていた。が、気分が落ち着いてくると、彼が放つ独特の存在感や雰囲気が、妙に気になって仕方なくなってきた。惹き寄せられるように、また尋ねる。

「あの……貴方は、行かないのですか?」
「ああいう雰囲気は、苦手でね」

 彼女の方を見ないまま顔色一つ変えず、今度は抑揚のない声でジェラルドは答えた。しかし、自分と同じ思いの人がいた事が嬉しくなり、アンジュは少し心が泡立った。

「……私もです」

 なるべく穏やかに返し、今度は僅かに微笑む。だが、彼は無言のままだ。

 ――邪魔かもしれない……

 変わらず無反応の様子に立ち去ろうと思い、すっ、とアンジュは後退りする。すると、彼はようやく視線を体ごと彼女に向けた。

「止めておけ」
「……え?」

 更にされる声で放たれた言葉の意図が分からず、戸惑うアンジュに、ジェラルドは続ける。

「俺に取り入るな。無駄だ」

 威嚇するような拒絶の言葉と、今にも斬りつけるような鋭い視線に狼狽うろたえた。

「取り、いる? ち……がいます。慣れなくて、苦手で……ここしか居られなくて…… ご迷惑なら申し訳ありません」

 まごつきながら、アンジュが必死に詫びると、今度はダークグリーンの瞳孔を見開き、彼は少しだけ口調を和らげた。

「……もう行くから、居たらいい」

 ぽかん、と不思議そうにしている彼女のすり抜け様に、一瞬、立ち止まる。

「さっきの歌、なかなか良かった。馬子にも衣装だが」

 ぼそり、とそう呟き、ジェラルドは会場の人混みに混じ入って行った。残されたアンジュは、彼の言葉の意味が分からず動揺する。
 だが、『歌が良かった』というフレーズだけは、耳に強く残っていた。初めての舞台で、初めて褒めてくれたお客様。少し怖いけど、いい人かもしれない。仲良くなれたらいいなと思った。
 後で『馬子にも衣装』の意味を知り、前言撤回とショックを受けるのだが。

 次週の昼過ぎ。ワーグナー楽団の一行は、またグラッドストーン家に招かれる。主人の公爵が、楽団をいたく気に入り、月に数回は呼ばれる事になったのだ。仕事が増えたと、団長はご満悦だった。
 しかし、アンジュは支度をする手を何度も止め、憂鬱そうに、ため息ばかりついている。ジェラルドに歌を褒められたことを、クリスに嬉しそうに話した直後、『馬子にも衣装』の意味を教えられ、彼の嫌味に気づいたからだ。
「よりによって、彼に近づいたの?」
 そう苦笑しながらも、彼女はどこか微笑ましそうにしていた。

 ――なんて、失礼な人なの!!

 アンジュには珍しく、怒りの火種が鎮まらない。小柄で短身、年齢より幼い童顔、女性らしい丸みの少ない体型を気にしていたのだ。コンプレックスという、年頃の少女らしい感覚が芽生えた証拠でもあるが、当人には重大問題だった。
 それとも、孤児院の件を誰かから聞いたのか…… 外見か出自の事かは判りかねたが、彼女にとって嫌な人に変わりはなかった。しかし、仕事なので行かない訳にはいかない。他の団員達と共に、渋々、彼の屋敷へ向かった。

↓次話に続く

#創作大賞2023

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