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祈り、光。生きるということ

 2月20日の昼下がり、あえてのんびりと構えるようにして「岡崎京子展」に行きました。

 のんびり構えるようにしていたけど、世田谷文学館への道筋に『リバーズ・エッジ』のあの二人が描かれているポスターがいっぱい、町内掲示板や何の変哲もない普段は選挙ポスターを頼まれて貼ってそうな店先でまで目にするとそれだけで泣きそうになって、動揺してちょっと道を間違えてしまい、世田谷文学館の裏をぐるりと回るようにして入り口に辿り着きました。間違えて入った道には老人ホームと垣根で隠されたお墓があって、少し気持ちが落ち着きました。展覧会会場の裏側にお墓があることは私が熱心な読者だった頃の岡崎京子にとてもふさわしいと思ったから。生きてる人間より死んだ人間の方が楽だなと思って、地元の観光地の一つに外人墓地があった頃の私が蘇ってきたから。それは『リバーズ・エッジ』的感性ではなくて『うたかたの日々』的感性であり、日本には珍しいコロニアルなムードが漂っていることをウリにした観光都市の裏側でひっそりと息を殺して自分も殺して生きてきた頃の私に戻るための儀式だったように思えた。

 私は「東京」を知らなかったけど「郊外」も「普通の地方都市」も実は知らなくて、家の近くの史跡へやってくる観光客に写真を頼まれては笑顔でカメラを受け取り、心の中で「お前らには帰る場所があっていいな」と毒づくような女の子でした。基幹産業が水産業と観光業という水商売の街で育つと、夢見心地でお金を落としていく人たちをバカなんだなと思うようになってしまう。夢を見ている人にはこの街の現実を見せないようにする、見せたら私たちが飢えてしまうから。自分の通う学校から繁華街まで用事があって自転車で向かう日常の中に常に非日常を見いだしてときめきたくて辺りを回っている人がいて、そういう人の前ではディズニーランドのキャストのように振る舞わなければならないのだった。私がその頃着ていた制服は東京の姉妹校と同じデザインだったので、「夢のような街に住む彼らが望むようなお嬢様」という現実と乖離したキャラクターを提供し続けていた。東京の姉妹校と私の学校では授業料が一桁違うと言われていたくらいかけ離れたものだったけど、私は彼らのニーズに敏感な人間だった。彼らが見放したら私が東京に出るお金も落ちてこないんだと思ってた。

 もっと悪いのは、観光客の夢見心地をそのまま受け取る地元民で、この街の特殊さに気付かず、ここが一番いい街なんだと本気で思ってる明き盲が非常に多かったことで、そんなにいい街ならなんで私の家の前は舗装されてなくて下水道も整備されてないのか、行政が手抜かってるばかりどころか市職員全体でやらかして地方交付税交付金減らされてるようなところなのに暮らしやすいわけないだろうってずっと思ってたけど、そういうことを言うと本当のことすぎて叩かれた。「私は女だ」というと殴られたり蹴られたりしたし、「男は馬鹿だ」というと恫喝されたし、家でも学校でも外でも望むべき振る舞い方をできなければすぐ暴力を振るわれていたので、そうやって一から十まで本当のことを言う度に迫害されると、もう黙って耐え抜いてなんとか東京の大学に受験で合格してそれを命のビザとして東京に亡命することが成功するのを願うしかなかった。

 そんな頃の私を支えてくれたのは岡崎京子を置いて他にはなくて、中2の時に月刊カドカワに連載されていた『カトゥーンズ』に出会ってから、私は外出の度に岡崎京子を探す日々でした。大学受験までを見据えた勉強をする場所と全国大会を目指すような部活に籍を置いていた人間に許される自由時間などたかが知れていて、「うちは門限なんかない」と言った親が、バスが遅れて夜7時過ぎに家に着くと「遅い!常識でわかるだろう!」と殴ってくるような環境な上に音大目指していたわけでもないのに「辞める」の一言を放てばどんなことになるかわからなくて怖くて高3までピアノも習っていましたから、誰かと遊ぶ時間なんかも作れなくて、インターネットどころか部屋にテレビを置くのも許されなかったため、ずっと本と音楽とラジオだけに支えられて生きていました。毎日深夜2時に鳴る汽笛を聞きながら涙を流して『東京ガールズブラボー』を読んで、早く東京に出てサカエちゃんになるんだ、と誓っていましたし、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』のテープを毎週毎週すり切れるほど繰り返し聞いていましたし、岡崎京子とほぼ同時に出会ったフリッパーズ・ギターの解散を知ったのが中3の秋で成績ガタ落ちで内申が推薦取れないレベルにまでになってしまって急いで一般受験対策して死にそうになって恨んだりもしてましたし、そういう内面世界を唯一話せるサブカル友達がいた塾へ行くのだけを楽しみにしつつ、観光客の皆さんに愛想を振りまいていたような、そして塾に行ってやることはせこせこと友達との手紙のやりとりとラジオ番組のハガキ職人としてネタを書いていたような、ローカル局のローカル番組を見ていたら、まりんの妹をたまたま見つけていそいで録画していたような(そしてそのネタをまりんの妹の名前を叫んでいた電気のANNに送りつけるような)大変に偏った生活でした。「サブカルチャー」と呼ばれていたものがなければ私はあの環境で潰されていたと思います。18歳の冬一度しか亡命のチャンスはなくて、もし浪人していたら発狂するか自殺するかどっちかだったろうと今でも思ってます。無事東京のサブカル大学サブカル学部に亡命を果たしてから読んだ本で、鶴見済が学校というシステムは監獄や修道院から生まれた、みたいなことを書いていて(多分元ネタはフーコーあたり)、うちの学校は敷地内に修道院あったからなーと変な納得したりしてました。

 今までの人生の中で一番嬉しかった瞬間は、東京のサブカル大学サブカル学部から命のビザ申請が通った連絡が来た時です。その時、それまで耐え忍んだ全てが報われたと思いました。岡崎京子の作品を読んで涙を流したり笑ったりする度にそれらは私の血となり肉となり骨となり支えてくれました。それまで『りぼん』を読んでいた私がスムーズに岡崎京子マンガへ移行できたのは岡崎京子が少女マンガのスピリットをしっかり持っていたからというのは大きな要因だったように思えます。岡崎京子不在の場で主に名前の通った男の人やそれを語ることで名前が売れた男の人が語る岡崎京子からはその部分が抜けていて、少年マンガにも通じるインパクト重視の『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』の話題が多くて、私は置いてきぼりにされて、言いようのない悲しさと寂しさをずっと抱えてきました。そしてやたら「平坦な戦場」を連発することをダセエダセエと思ってました。あれは1993年から1994年にかけて連載された作品、その前に起きたことはバブル崩壊以外はスペースシャトルの事故もチェルノブイリも湾岸戦争も遠い彼岸の話だからそんな単語を挿入することができただけで、1995年を東京で迎えた岡崎京子だったらそんなもの入れなかったと思ってる。なのに1995年以降に気軽に「平坦な戦場」というタームを使うやつは全員ダセエ、そう思ってた。この2作は作中の登場人物全員を突き放して描いているため、岡崎京子作品では例外中の例外だと思っていて、基本的には岡崎京子という人は女の子に対して優しい視線を投げかけて女の子のアジールを作ってくれた人だと思ってます。だって私がその「女の子のアジール」になんとか逃げ込んで、それは男の人には平坦に思えたかもしれないけども、私個人としては全く平坦とは感じられない戦場を生き延びた一人だからです。私が立ち読みではなく買って読んでいたファッション誌は『オリーブ』『MCシスター』そして『PeeWee』だったので、忘れられがちな存在の『PeeWee』に岡崎京子が連載を持っていたことで、その名が残っているのも嬉しかった。『PeeWee』はソニーマガジンズ発行だから音楽系の記事充実してて、『オリーブ』とはまた違うサブカルライフに彩りを添えてくれる雑誌でした。

 岡崎京子展はそのあたりをしっかり網羅していて、岡崎京子がメディアから消えてから蹂躙され続けてきた「私の岡崎京子」に会える場所でした。ファンという言葉で片付けるには、岡崎京子は私の内面に深く根ざし過ぎていた。男の人にまた取り上げられてしまったと悲しくなってた私のかけらがそこに取り戻されて展示されてて、なんだか花粉症対策マスクの下でずっと泣いてた。当時コンビニや本屋で気軽に立ち読みしていた『宝島』がケース越しにあって手を出せないものになっていて不思議な気分になったりもしたし、やっぱり『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』は「エレガントじゃない落ちかた」で私はあんまり好きじゃないな、他の作品と違ってエレガントじゃないからセンスの悪い人間につかまって映画化なんかされちゃうんだ、と思ったりもしましたけど、それも含めて全て岡崎京子で、1996年5月以降の気持ち悪さが払拭されてて、岡崎京子が小6の時点で「岡崎京子」だったことがわかるものを読んだ時に、岡崎京子に出会う前の自分をふと確かめたくなって、偶然ネットにアップされている小5の私の投稿を検索したら、やっぱり私も岡崎京子に出会う前から私で、そういう根っこがあってそこからいろんなカルチャーを吸い上げて自分の感性を育んでいったことが一緒なんだって思って、心が決壊した。

 今の30代後半から40代前半の女性、そこらへんに今現在流通してる言葉に変換すると「アラフォーサブカルこじらせ系女」ですか?そのあたりの人々にとってのサブカルの入り口っていうのが実は男性陣には非常に見えにくいところにありまして、それは『りぼん』の投稿コーナー『みーやんのとんでもケチャップ』なんですね。同世代の男性陣が『ジャンプ放送局』でわいわいやってるところも見てて、一緒に読むんだけど、男性陣は『りぼん』まで分け入ってこない。入ってきたってせいぜい岡田あーみんや『ちびまる子ちゃん』レベルだ。でも更にその奥地にいとうせいこうの大学時代の友人だったという編集者がかなり好き勝手にポール・マッカートニーの追っかけ話(本人の前でものまね)とか、インドネシアのガムランやらケチャやら民俗音楽を語ったりするようなサブカル無法地帯があったんです。小学生の時にそんなコーナーの洗礼を受けて、みーやんにこんなの見つけたよ!って新聞切り抜いて報告を送ったら、私のそんな行動が誌面に載ったんです。それまで東京とこうやってつながれるなんて思いもしなかった。東京に通じる道が私にあったなんて気付かなかった。東京からレスポンスが返ってくるなんていう幸せが私の身に起きるとは思わなかった。その時に、私、東京の大学を出てみーやんみたいなマンガの編集者になりたいって初めて思った。そして、岡崎京子マンガに触れてからは東京の大学を出てみーやんみたいな編集者になって岡崎京子担当になりたいと思った。そのために受験勉強とサブカル勉強してた。

 展示見ながらいちいちそんなこと思い出すから一向に前に進めなくて、昼下がりに行ったから時間余裕だろう、と思ってたのにあっという間に閉館時間アナウンスが流れてしまって、展示の最後の方駆け足になっちゃったんですけど、一番最後のところにある言葉と向かい合った時、身体が勝手に十字を切って手を合わせて祈り出して自分を制御できなかったことに驚いた。岡崎京子が生きていることに対しての感謝の気持ちから祈りを捧げてしまったと思うんだけど、自分が一番切実に岡崎京子を読んでいた時に精神的に戻っていてその時期の学校での習慣が無意識下で蘇ってそういう行動を始めたことに驚いた。別にクリスチャンでもないのに身体に潜む記憶がこう表出するということは、日々の生活に気をつけて、いくら綺麗な格好や言葉で取り繕っていたとしても、ふとした瞬間にこうやって何かが露わになってしまうことがいつ起こってもおかしくないということだ。岡崎京子はそういう瞬間を掬い取って鮮やかに描ききることが得意な漫画家だったなと、そこで泣き笑いしながら思った。

岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html

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