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散文『人に成る日のその前に』

通い慣れていたはずの路線はもう私には遠い過去のようで、右から左へと流れる景色は私の心象風景の如く霞に紛れていた。
指先は冷えきっている。感覚がない、という感覚を私は保持することが出来ていた。
生きるというのは実に滑稽で、なんて語ることも出来ない程度には私の人生は浅く美しいものではなかった。最もそんな語り草をする人間を私は信用するどころか、嘲笑うだろうけれど。
誰もが手の中の情報端末に夢中で、ここで露出狂が出たとしても彼が求める快楽を得ることが出来ないはずだ。気付かれもしない露出はなんの意味があるのだろう、と自分の心に問いかけるのも虚しくなるほどにその人はただ冷たいコートを羽織り直すのだろう。
誰も帰るもののいないマンションの一室は、何か月前の空気をその場所に留めているのだろう。隣の部屋から聞こえてくる蜜事は、その空気を震わすことができるのか。
私にはかけがえのないものだったはずの学生生活はいつの間にか終わりを告げていた。一日中、同じ電車に乗り続け、やっとこの空洞を受け入れることが出来そうだ。そろそろ新しいホームに行かなければならないらしい。気持ちの整理なんて時間に流されてこそなのだろう。明日からは、その日々の中にある美しいものを見出さなければならない。そうすることで、私は過去を乗り越えれるはずだ。
振袖を着て、昔の同級生に会う。この苦痛を乗り越えるからこそ、私たちは大人になるのだろう。自我を持ちながら、人に成れてなかった私の色は他者に決められた色だったのだ。これからは、自ら色を作り出さなければならない。しかし、それも社会が名をつけた色なのだけれど。

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