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徒然 二律背反こそ私だ

まいにちは

せかいは

ゆめは

動かない頭で打ちこむ私の世界は、ありきたりなものであふれていた。頭痛は止まらない。吐き気がする。

楽になるためのものを私は拒むのか。

付いた傷を取り払いたいと母は言う。
そうすれば、出来ないと思い込んでいるものが出来るようになるかもしれないから。人生が変わるかもしれない。どうしても恐怖心を持ってしまう、トラウマを取っ払ったら、したいことが出来るようになるかもしれないという。

たしかに、トラウマで身動きが出来なくなることはある。
私も友人関係を築くことが出来ない。幼児のころから何回誠意をもって人と付き合っても、どうしてか、裏切られる。背後から刺されることばかりだ。だから、みんな他人だと思うことにしている。
仲いいふりをするだけに身を徹する。そうしないと、心が持たないことがわかっているから。誰とも深い仲にならない。
そんな風に生きることは確かに人生の損なのかもしれない。

でも、私は、その傷も含めて私であると思う。
心がやつれて、傷ついて、死にそうになりながら生きたのが私なのだ。消えるものじゃない。消したらいけない。
消したら、私は私ではなくなってしまう。
文章を書くにも、私のアイデンティティとして傷が存在しないといけない。

むしろ、消し去ることのほうが恐怖だ。
私が生き抜いた証拠が消えてしまう。
消し去られるということは、そのことに傷ついた自分を否定するように思える。
傷こそがアイデンティティだ。
傷つかないと私は生きていけない。
傷を引きずって引きずって、トラウマを抱えて、トラウマと向き合って自己嫌悪して、世界を憎んで、他者を恨んで、自分を殺して、自分を整え直して、作り上げた私を消し去るなんてこと、私は出来ない。

でも。

人生やり直しボタンがあれば、私は迷わず押す。

こんな生き方したかったわけじゃない。傷つくことなく、生きていきたかった。

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