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100ヶ月後に退職するキャリア官僚(まとめ)

こんにちは。牛侍です。私は2020年の夏に某官庁の国家公務員総合職(旧Ⅰ種)を退職しました。希望に胸を膨らませて入省してから10年弱、仕事や留学をはじめ様々なことを経験させていただいた一方、自分のこと、家族のこと、霞が関のことなど多くの悩みを抱えてきました。

自分の体験やこの悩みをSNSで共有することで、少しでも多くの方が「自分一人が悩んでいるわけではない」「みんな同じような悩みを抱えているんだ」と感じていただければと思い、Twitter上で、『100ヶ月後に退職するキャリア官僚』シリーズを連載しました。思いがけず多くの方から励ましの言葉を頂き、自分自身が勇気づけられるとともに、背中を押してくれたといった言葉をかけていただいた方もおり、身に余る光栄です。

もし途中からご覧になった方や今一度見返したいという方がいらっしゃる場合を考え、これまでの100回にわたる連載をnoteでまとめましたので、もしよろしければご覧ください。

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(1ヶ月目)

国総試験に合格し厳しい官庁訪問を勝ち抜いて内定を得た後、約半年の学生最後のモラトリアムを終えた自分は、本日付で某経済官庁の一員になる。

やりがいのある仕事と国益への貢献に胸が高鳴りながら人生初の辞令を受け取った。

退職まであと99ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(2ヶ月目)

職場の人達に少しずつ顔を覚えてもらい、電話の取り方やメール処理をこなし始める。当然ミスも多く怒られることも。

ある時2つ上の係長が自分に言った。
「君は僕や他の人に怒られても響かないように見えるね。もっと落ち込んだほうがいいよ。」

ミスを注意されヘコまないはずはない。だが業務中に落ち込んでいてもしょうがないのでは。スポーツの試合中にミスしても反省しつつ次のプレイにつなげるほうが大事だ。

自分には新人らしい「しおらしさ」が足りないのだ、と思った。

なお、その係長は3年後に転職することとなる。

退職まで98ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(3ヶ月目)

全省庁の新入生が集められ、合同研修が1ヶ月強かけて行われる。

研修とはいうが、一般教養的座学が多く他省庁の同期との仲間意識醸成の意味合いが強い。(実務上の有用性はあまりない。)

研修は各省庁出身者で構成された少人数グループ単位で実施。多くの同期と交流する中で、爽やかな笑顔の奥に見え隠れするプライドの高さを感じた。

「自分こそが国を変える」という、極めて健全であるが競争を勝ち抜いた故の一種の奢りがあった。おそらく自分もその一人だった。

目を輝かせて日本の将来を語りあう若者たちがそこにはいた。

退職まで97カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(4ヶ月目)

研修が終わり通常業務に戻ると、例の先輩職員が話してくる。「君の公務員人生最高の一ヶ月はもう終わったから。」

内心、陰鬱な学生時代を送ったんだなと思いつつ愛想笑いする。社会人初めての夏には愛想笑いは完全にマスターしていた。

退職まで96カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(5ヶ月目)

一通りの業務は見たものの、今ひとつ個別の業務の意味が分からない。

議員レクとなったら議員バッジと永田町往復の交通手段を用意する。情報を配布しろと言われたら省内の建物を渡り歩き、紙で印刷した数十部の資料を配り歩く(今考えれば壮絶な無駄)。

上司は「全てのことには意味がある。議員レクは国会対応の基本を、省内の情報配布はいかなる情報がいかなる部署に届くか、組織の動きを学ぶのだ」と言った。

なんだかんだ私は実直に仕事していた。成長に繋がるかはよく分からなかったが、褒められ自分が認められれば嬉しかった。

退職まであと95ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(6ヶ月目)

決して要領が良くない自分は同期でも仕事ができる方ではなかった。そこまでひどくはないが、まあそこそこ。早とちりして上司や先輩に迷惑をかけたこともたくさんあった。それでも真摯に正面から指導をしてくれた周囲の方々には大変感謝している。

公務員になろうという人は「良い人」が多い。民間でもっと稼げる職業に就けたのに、「人々のため・社会のため」と志を持って来ているので、そこまで利己的な人はあまりいない(ただし、中堅以上で思い入れが強すぎてパワハラ気質になる人は結構いる)。

徐々に仕事には慣れてきた。

退職まで94カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(7ヶ月目)

大した仕事もしてないが(だからこそ?)自分の仕事に自信が湧かない。いつの間にか、午前0時まで仕事をした後、そこから一人で飲み歩く生活をするようになった。本当の問題から目を背けるように。

健康診断の結果は年齢の割に最悪だった。

退職まで93ヶ月

【補足】なお、「大した」仕事はしていないが、「大して」仕事をしていないわけではない。おかげさまで過労死ライン以上の残業時間は働いていたので、新人でも飲み歩けるくらいの余裕はあった。

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(8ヶ月目)

一年目はあらゆる意味で最下層の職員である。コピー機の補充からゴミ捨てまであらゆる雑用をこなすほか、怖い管理職にはとりあえず怒鳴られる。良い指導とは厳しい指導である、従順であればあるほど良いという謎の体育会的文化は霞ヶ関にも存在する。

採用職種毎の年次による上下関係が定年退職まで絶対に覆ることのない権力秩序の中で、若手はまず自我が一度潰され、所属する組織の論理を徹底的に叩き込まれる。少し極端な言い方かもしれないが、若手に個性はあまり必要ではなく、「空気を読む力」「察しの力」を研ぎ澄ましていく。

退職まで92ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(9ヶ月目)

公務員は結婚年齢が比較的若い。倒産しない・終身雇用・年功序列という安定性と、地方や海外への転勤が多くそれをきっかけにする人が多いというのが理由。

自分は入省前から付き合いのあった彼女がいたが、社会人一年目で結婚は意識していなかった。

彼女、すなわち今の妻との出会いは学生時代の合コン。数合わせで参加したが、その場でたまたま気が合って付き合い始めた。

仕事が始まって忙しくなったが、互いの若さもあって、深夜に二人でラーメン屋に行ったり、楽しく過ごした。

二人の仲は良かったが、彼女の部屋は汚かった。

退職まで91ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(10ヶ月目)

国会答弁は、議員から委員会での質問事項を聴取し、それを問として起こした上で、担当課室を特定し、作成する。作成した答弁案は、担当課長、又は局長まで決裁を取った上で、大臣官房の審査を経て完成する。ここで往々にして発生するのが割り揉めだ。

自分の課室の所掌ではない場合、答弁の作成責任を負わないように、「ウチでは受けられません」と申し立てる。しかし誰も受け手がいない場合には押し付けあい(消極的権限争い)が発生する。謎なのは、この押し付けあいはなぜかまず下っ端同士で戦わなければならないという暗黙のルールがあること。

上司から「絶対に受けるなよ」と言われた場合、理屈はなくても徹底的に弾く。これを下っ端同士で話し合うから、結局意味がないことに時間を浪費し、答弁の作成は進まない。しかし受けてはいけない。なぜなら前例を作ると今後一切同様の問いについて担当させられるからだ。

アホくさ。

退職まで90ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(11ヶ月目)

新人のうちは様々なお使いを頼まれる。時には他省庁に、または国会に出向くことがあるが、中央省庁ならではのお使い先は、首相官邸である。

上司から渡された封筒を官邸の事務局に届けに行くことがあった。距離的には近いが、最初のうちは緊張する。

セキュリティを抜けると、そこには疲れ果てた報道関係者が待機している。

テレビに出てくるホールを抜けてエレベーターに乗ると、警戒厳重な事務局と閣僚の部屋に繋がる。このフロアは特に警戒が厳重で、政府職員でも行き先を何度も確かめられ案内される。

しかし自分は方向音痴なのでよく迷う。ある時、用事を終えた帰り道にエレベーターで何階から来たか分からなくなった。とりあえず1階を押すが明らかに雰囲気の違う通路に出て戸惑う。

立ち往生していると黒尽くめのポマードの男性が寄ってくる。

絶対に怒られる…

しかし優しい彼は出口まで案内してくれた。ありがとう!

退職まで89ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(12ヶ月目)

当時、霞ヶ関の情報伝達の手段はどこまで行っても「紙」だった。情報は、プリントアウトした原本をコピー機で何十部も印刷して、新人が手で持って配って歩く。

このように配布は紙が基本で、部署に届いた情報はスキャンしてチーム内で共有する。

二度手間だが、偉い人には紙で情報が届かないと失礼だと言ったような感覚が共有されていた。合理的かどうかよりも偉い人が気持ちがよく仕事ができるかという点が最優先される。

民間も同じだよ、と言われたが顧客というものが存在しない霞ヶ関はこの傾向が強い。違和感は強まった。

退職まで88ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(13ヶ月目)

役所二年目、新入生が入ってくる。思えば一年はあっという間だ。

新人が決裁を持ってきた。体裁の誤りを見つけて不機嫌そうに「やり直し」と指摘する。自分が職場に馴染んできたということだが、同時に自分の中で何か大切なものが崩れていく。

昔であれば、体裁なんて気にしなかった。内容面の話じゃない。にも関わらず今は後輩の細かいミスを指摘していい気になってる。ふと考えると怖くなる。

間違ってはいない。周りも同じような指導をしている。しかし違和感が大きくなる。

自分が指導したのは本質的なことなのだろうか?

退職まで87カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(14ヶ月目)

彼女とは交際2年強になるだろうか。それぞれ賃貸アパートに住んでいるが、平日夜はどちらかの家にある泊まることも結構あった。

共に過ごす時間が増えると、当然喧嘩も多くなる。些細なことで色々言い争ったが、今でも心に焼き付いている言葉がある。

仕事が忙しく、彼女のことを気にかけていない時期があった。約束も守れず、余裕のなさからコミュニケーションはほぼなし。

向こうに不満が溜まって喧嘩になった際、仕事が忙しいんだよ、余裕がないんだと言うと次の言葉が帰ってきた。

「あなたの仕事のことは私には関係ないでしょう。」

さらに一言。

「自分の日程を自分でコントロールできないのは仕事のできない人だよ」

その場は「この分からず屋」(怒)となったが、後から思うと全く正しい。なぜ他人の職業選択によって自分の人生が振り回されなければいけないか、自分が逆の立場だったらどう思うか。

退職まで86ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(15ヶ月目)

役所には各課室に非常勤職員がいる。色々な人がいて、本当に細かいところまで一生懸命仕事をする方もいるが、正直庶務のレベルで全く役に立たずひたすらネットサーフィンをしている人もいる。そういう人がいる場合、大概は新人の負担が増加する。

普通は非常勤であるか否かを問わず真面目に働いている方がほとんどで評価もシビアだと思うが、役所の場合は戦力外でも原則として契約をそのまま更新する。課長補佐クラスは「非常勤を使うのも一年生の勉強」という謎理論で丸投げし、我感ぜず。

友人はこれを以て「社会保障政策」と呼んでいた。

もちろん非常勤の方が云々という気は一切ないし、本当にお世話になった方もいる。しかし問題は、サボっていて全く役に立たない人とものすごく仕事ができる人が区別されていない点だ。

往々にして非常に優秀な方の場合非常に謙虚であり、役に立たない人の場合には図々しい。

退職まで85カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(16ヶ月目)

人事から留学希望調査があった。人事院留学(2年)を希望する場合、省内の推薦を得て人事院審査を通過した場合、早ければ4年目あたりの係長から留学に行くことができる。

米国ロースクールで勉強するのが夢だった自分は、速攻で申し込んだ

退職まで84カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(17ヶ月目)

留学について人事と面談。

「志望動機は?」

本当は憧れだ。子供の頃海外のキャンパスを訪れ、自分もここで学んでみたいと思ったのがきっかけ。

「語学力を高め、国際的視座から政策を考えたいです」

結果は後日知らされると言われた

退職まで83カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(18ヶ月目)

パワハラ上司に対する耐性を発揮した人物は、タフな奴と認定され高評価がつくと同時に、それが故その後もパワハラ系上司の下に配属される傾向がある。

早めにギブアップした人物は、むしろ耐性なしとして穏やかな仕事や上司がいる部署にいく。

自分は幸いにして「本当にやばい上司」の下で”かわいがり”のターゲットにされるような地獄を見た経験はないが、同僚がそのような立場になって日に日に顔がやつれていくのを見るのは辛かった。

どことなく霞ヶ関には「上司部下の関係に周囲が口を出してはいけない」という暗黙の了解がある。

退職まで82ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(19ヶ月目)

自分の役所は民間の方と接する機会も多い。業界団体や個社との面談では、自分より一回りも二回りも年上の方を相手にすることがあった。

こちら側は経験も知識もなく、実力では敵うべくもないが、いつも先方は非常に丁寧で恭しく接して来る。

しかし自分はそんな恭しい態度が実は嫌だった。官庁と民間というだけで何がそんなに違うのか。

「役所はね、偉いんだよ。だからその力の使い方が大事なんだ。」

いや、そもそもそういう官尊民卑みたいな発想がおかしいでしょ。現状に疑問を抱かず仕事する先輩の姿には疑問が残った。

退職まで81ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(20ヶ月目)

ちらほら初任合同研修で一緒だった霞ヶ関の同期採用組が退職したという話が聞こえてくるようになった。職場に合わない、精神を病んだ、理由は色々だ。

とは言ってもまだ一年と少ししか働いておらず、自分はこの時全く辞めたいとは思っていなかった。

留学だって行きたいし、何より職場ではまだまだできないことだらけ。理不尽もあるが、自分が成長しているという実感も感じられて充実していた。

「一年ちょっとじゃ霞ヶ関のことなんて全然分からないじゃないか。」

去っていく一部の同期は自分とは全然違う道を歩いていく人に見えた

退職まで80カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(21ヶ月目)

仕事の本質は役所も変わらない。一手先を読む能力、謙虚に学習し創意工夫を続ける能力などがある人は、成長を続けていく。

自分は当初から「仕事ができない」という自覚があった。人よりできないならば人より努力しなければという危機感があった。

「人より努力して当たり前」という考えや、成長への飢えがあったから、周囲に少しずつ信頼してもらえる場面も増えていった。

しかし逆に、他者に対し「何でできてないのに努力しないんだ?」と感じることも増えていった。土日使っても仕事仕上げろよ、と考えることが普通になった。

退職まで79カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(22ヶ月目)

留学選考について人事から電話があった。

「君の留学先はイギリスになりました。撤回・相談は受け付けません。」(ガチャ)

留学に行けることになったのは嬉しい。全員が行けるわけではない留学に自分が選ばれたことについてはありがたいとは思う。

しかし、元々の希望では米国としていて、最終意思確認もなく、背景事情の説明もないまま「決まったら一切の文句は受け付けない」という一方的な宣告には正直がっかりした。辞退すらも受け付けないというのだから。

米国ロースクールを出てNY司法試験を受ける目標はこの時点で潰えた。

退職まで78ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(23ヶ月目)

留学について補足すると、候補者は、留学先国別に受験する大学院を選定し、各自語学のスコアを準備して出願する。そのため、自分が学びたいことが米国の大学院にある場合にも、イギリス留学と決定した段階で、米国の大学院には行けないことになる。

一度は辞退しようかとさえ思ったが、推薦を受けておきながら辞退してまた来年米国でお願いしますという要望を叶えてくれるほど人事はお人好しではない。人によっては香港・シンガポールなどほぼ選択肢がない留学生もいるため、多様な大学がある分だけイギリスはマシだ、と考えた。

退職まで77ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(24ヶ月目)

社会人になって2年が経とうとする頃、初めて彼女の実家を訪問した。

「彼氏が家行くくらいカジュアルでいいか」というノリで新幹線に乗り、彼女と地元に向かう。

駅に着くとタクシーを拾って、運転手さんと世間話しながら20分弱で家の前に到着した。

彼女の両親が出迎えてくれ、一通り挨拶をした後に夕食をご馳走になった。しかしトラブルが発生。まさか田舎のはずがホテルの空室が全く見つからない。

「君まさかうちに泊まって行かないよね?」という彼女父の冷たい眼差しに「えへへ(笑)」と返し、空き部屋に布団を借りて寝た。

退職まで76カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(25ヶ月目)

人事異動の時期が来た。三年目で次は係長ポジション。希望調査では産業調査を行う課を強く要望し、一つの分野を深掘りしたかった。

「取りまとめは嫌だ取りまとめは嫌だ取りまとめは嫌だ…」

「××政策局総務課を命ずる」(デデーン)

退職まで75ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(26ヶ月目)

以前にも増して忙しくなり、日付が変わってから帰る日が続いた。しかし、留学に行けるというのは一つの大きなモチベーションだった。深夜に帰り、朝4時頃まで英語の勉強をして就寝、朝起きてすぐに出勤という日々が続いたが充実していた。

退職まで74カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(27ヶ月目)

総務課での勤務がはじまってから、最も時間を使った仕事の一つが成長戦略の協議だ。成長戦略は、日本政府の重点施策をほぼ網羅した重要な文書であり、人件費に換算すればおそらく十億円以上がかかって作られるのではないかと思われる(金額は推測)。

成長戦略の取りまとめを行う内閣官房から毎回ショートで確認依頼が発出され、これに対応して関係各室への作業発注・刈り取りを行う。ピーク時には国会待機とはさらに別途内閣官房によって案文協議の待機がかけられ、ひたすら深夜まで職場に残ることになる。疲労はピークに達していた。

退職まで73ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(28ヶ月目)

「係長は何かあった時のために常に自席に座ってろ」

当時の上司の指示だった。興味のある審議会や勉強会の話も聞けず、朝から深夜までひたすら調整業務を繰り返す日々。ある時、どうしても興味のある政策の審議会の傍聴のために席を外した。

事務局説明が終わって、いよいよ討議という時に連絡係がメモを持ってきた。

「至急戻ってこい」

緊急の案件と思い諦めて自席に戻ったが、何も仕事はなかった。ただ自分が離席していたことが気に入らない上司の指示だった。

絶対辞めてやる。この時それまでになく強く心に思った。

退職まで72カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(29ヶ月目)

仕事と留学の準備で死にかけていたが、更に重要なイベントがあった。彼女との結婚である。

徹夜明けに新幹線で彼女の実家に向かい結婚の話をすると、お父さんは「まあその話はいいんだ」と言うので、とりあえずメシだけ食って東京に帰った。

結婚式はとり行わず、区役所に届出を出して入籍した。職場の人を呼んで大勢で厳かな結婚式をやるのは、二人とも望まなかった。

「今日から夫婦だね」と言うことで独身ではなくなったが、働き方が変わるわけでもなく、正直暮らしはほとんど変わらなかった。

退職まで71カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(30ヶ月目)

自分の一つ、できれば二つ上の上司の思考をトレースするのは、どこの組織でも仕事をスムーズに進めるために重要。霞ヶ関でもこの能力は勿論不可欠である。

PCを打ちながら上司の電話に耳を傾け、指示が出る前に資料や必要な書類を用意できれば100点。

二年半も仕事をすると、そんな「忖度パワー」はかなり鍛えられる。自分の意見より上司の意見、という思考がどんどん癖になっていく。

仕事をこなして周囲や他部署の評価は上がっていくが、自分独自の視点やおかしいことにおかしいと感じる感性は磨耗していった。局長は神様だった。

退職まで70ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(31ヶ月目)

留学先のペーパーテストが終わった。英語が得意な嫁さんに準備が学習面で助けてもらった部分も大きい。
不確実でも、自分だけは何とかなるという気持ちが強かったように思う。

退職まで69ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(32ヶ月目)

深夜業務と留学準備を並行したことに加え、厳しめの上司に鍛えられたこともあり、積もり積もったストレスが肌に出てきた。おでこには吹き出物が大量発生し、悲惨な顔面に。

妻は心配したが、数ヶ月で留学と思うと心は晴れやかだった。

退職まで68ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(33ヶ月目)

役所で学んだことの一つは「まずは疑ってかかる」こと。誰かがやっててくれるはず、こちらの意向は伝わっているはずという場面ほど実はトラブルが生じる。上司がいいと言った場合でもそれが後々問題になったことも。まずは徹底して自分で考える必要がある。

ある日重要な国会の議論に課長が随行する際、直前に席上資料が転送されてきた。即座に直属の上司に報告し、メールで携帯端末に送ったが、メールは見られておらず、印刷して持ち込まなかったことで自分が責任追及された。また、官邸の会議の参加登録を出したが受け手の処理漏れで、散々糾弾された。

いつしか「上司に判断が間違っていたら」「お願いした仕事が忘れられていたら」と最悪のケースを常に念頭に置くようになった。仕事のミスは減り、総務課の一員としての信頼は前より得られるようになった。

成長した部分もあるが、仕事について「基本他人を信用しない」ようになった。

退職まで67ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(34ヶ月目)

目の前の仕事には一生懸命になっていたが、当時の自分に役人として成し遂げたい政策・目標があったかというとそうではない。よくいえば「与えられた仕事をなんでも一生懸命をやる若手」、悪くいえば「自分の頭を使って考えていない社畜」だった。

本来、課題設定や成し遂げたい施策が明確で、全ての過程はその実現の道のりであるべき。しかし、自分はとりあえずなんでも頑張ります、というスタンス。留学も「イギリスの行政と法学を勉強したい」という曖昧な目的意識だった。おじさんにはウケたが、これが後々尾を引くことになる。

退職まで66カ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(35ヶ月目)

ある時、職場の同じチームの同僚(入省年次は後輩)が退職すると聞かされた。非常に真面目で、仕事に一生懸命向き合う彼。先輩という立場上厳しく接したこともあったが、なぜ辞めるのか。理由を教えてもらおうと最後に職場近くで飲みに行こうと誘った。

「ひたすら一人で単純作業を繰り返し、上からはやり直しの指示ばかり。仕事にやりがいを見いだせないんです。」彼は語った。席が近かった僕は、気遣ってやれなかったことを詫びた。

今では別の場所で楽しく仕事をしていると聞く。彼にとって転職は間違いなく正しい選択だったのだろう。

退職まで65ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(36ヶ月目)

霞ヶ関には異動希望を出す機会がある。しかし、課長クラス以上と話すと出てくるバブル世代の本音が「異動希望は主張しないのが美徳」という考え方だ。

与えられた仕事はなんでもやりますという忠誠心と、それらをそつなくこなす要領の良さが大事。

ある時、部署の親睦会の二次会まで行った際に中堅幹部クラスが、自分の異動希望を強く主張した人物を酷く批判しており、端的に言ってドン引きした。

「見てる人は見てるから」「目の前の仕事を頑張っていればいつかチャンスはある」

役所にジョブ型雇用を採用するには100年かかる。

退職まで64ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(37ヶ月目)

日曜日の夕方になるとサザエさん症候群になってしまう自分にどこか違和感を抱いていた。そこで、留学は決まっていたが、自分の市場価値を知ってみたいと思い転職エージェントに登録・面談を予約。昼休みの時間を利用して職場を抜け、話を聞いてみた。

「30超えると転職は難しいです。早ければ早いほうがいい」

エージェントから淡々と発せられた言葉はもっともかもしれないが、正直つまらないと感じた。一般論でアドバイスとして役に立たないし、紹介された先も手元の求人案件を見せられただけ。

これなら転職しない方がいいと思った。

退職まで63ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(38ヶ月目)

疲労が蓄積すると効率は落ち気分は暗くなる。マッサージも試したがイマイチで最後にたどり着いたのがサウナ。サウナと水風呂を数回往復することで交感神経が刺激されやる気が湧く。

今日も新橋駅前のサウナには霞ヶ関の住人が集まる(?)

退職まで62ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(39ヶ月目)

これから2年間の海外留学だが、公務員の留学は在外研究員という扱いになり、職務専念義務との関係で(?)就学期間中の帰国は一切許されない。高齢の祖父母や自分と妻の親族には、週末を使ってできるだけ会っておきたかった。皆笑顔で送り出してくれた。

「孫が国家公務員で海外に行くなんて大したもんだ」

祖父は戦前の生まれで元々陸軍士官学校志望だったが、農家の長男だったため合格したものの父に辞退させられたという。祖父にとっては、自分の悲願を叶えられたようで嬉しかったのだろう。この仕事に就いて良かったと心から思った。

退職まで61ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(40ヶ月目)

イギリス留学初日。ロンドンのヒースロー空港に到着し、スーツケースを抱えて妻と世帯向けの学生寮に直行する。入寮説明で言われていることの7割分からず、Pardon?をひたすら繰り返しようやく理解できるレベル。改めて自分の英語力の低さに絶望した。

二人で生活するにはギリギリの広さの部屋に荷物を置くと、その日は日用品の買い物に出かけた。
翌日はFacebookで同級生のグループに自己紹介をして、授業開始までの少ない日数で観光名所を見に行ったり。日本で溜まったストレスを浄化していった。2年間の学生生活に胸を躍らせた。

退職まで60ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(41ヶ月目)

大学院同級生の日本人で、10年大手メーカー経営企画部に勤めた後退職し、国際機関で働くことを目指す私費留学生がいた。「どうして恵まれたポジションを捨ててまで?」自分が尋ねると彼は言った。「人生やりたいことやっていいって気づいたから」

「10年勤めた会社を辞めるのは裏切るような後ろめたい気持ちもしたけど、自分の人生だから。」

彼は爽やかに笑って言った。その笑顔は今でも忘れられない。彼とは今でも無二の親友で連絡を取り合う仲だが、別々の国に住んでいる。なぜなら、彼は今欧州の国際機関で働いているから。

退職まで59ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(42ヶ月目)

僕の英語はひどかった。食堂の注文ですらもたつき、授業の内容は半分わからない。そんな純ジャパの自分が英語を上達できたのは、クラスメイトのバングラデシュ人留学生のおかげ。今は米国Ph.D課程に在籍する彼とは今も繋がりがある。

留学前には英語はマスターしてこいというが、自分は田舎育ちの純ジャパ。仕事上も一切英語に触れる機会はなかった。仕事で国際案件や海外との接点もなく、IELTSの最低要件を満たすのが関の山だった。

そんな落ちこぼれの私に、その留学生は気さくに話しかけ、スラングの意味などを教えてくれた。

ある時、語学の壁が高いと感じた僕は彼に弱音を吐いた。「自分で言いたいことを表現できないんだ」

彼は笑って、「お前は十分自分のことを表現しているよ。見ていればわかるから」と言った。それまで失敗を恐れて発言を躊躇っていることもあったが、勇気を出して発言しようと決めた。

退職まで58ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(43ヶ月目)

初のグループワークが与えられた。内容は某国の財政を分析して今後の見通しをまとめるというもの。メンバーは全員違う国籍。うまく喋れない自分はデータ分析とグラフ作成を担当。締切ギリギリまでグループで集まって議論してほぼ完成したが…

自分が読み返すとスペルミスや体裁のズレが見つかり、気になったので一人で直していた。すると終了モードでビールを片手に戻ってきたインド人(弁護士)が一言。

Why do you adhere to perfection?(なぜそんな完璧にこだわる?)

霞ヶ関で体裁を叩き込まれた自分には衝撃的な一言だった

退職まで57ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(44ヶ月目)

留学後しばらく英語力の問題もあって夜まで図書館に篭りきり。夜は妻が寝てから帰る日が続く。

ある時妻がおかしくなった。些細なことで激昂し、夫婦喧嘩になる。でもその原因は自分。二人で渡英したのにずっと自分のことだけ考えていた

退職まで56ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(45ヶ月目)

授業の課題で実務家のインタビューすることに。政府組織の職員になんとかアポを取り付けようと様々な筋から接触を試み、担当者を特定して金曜日にメールを送ると、極めて短い自動返信がきた。

“I do not work on Fridays.”

日本では考えられない。

文化的な違いもあるが、日本では間違いなく「誠に勝手ながら」「ご迷惑をおかけし恐縮ですが」で始まる。そもそも仕事を休むのは子育てや家族の都合だったとしても本質的に悪いことだというイメージがある。世界から礼儀正しいと言われる日本人は、実は非常に懐が狭いのではないか?

退職まで55ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(46ヶ月目)

イギリスはご飯が不味いと言われるが、スーパーのソーセージやチーズは日本より遥かに美味しい。ワインも安い。日本食は高いが、ラーメンもある。

ただ、進出直後の一風堂でラーメンと替え玉を注文すると替え玉が先に出てきて驚いた

退職まで54ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(47ヶ月目)

留学後初めての試験期間に入り、寮に帰る機会も減ってひたすら図書館に篭る日々が続いた。時を同じくして、妻との口論は増えていった。

自分本位にも「なんでこっちが一生懸命取り組んでいるのに、応援してくれないんだ」と考えていた。

退職まで53ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(48ヶ月目)

イギリスの公務員にもファーストストリームと言われる幹部候補生採用枠がある。

ある時若手と懇談する機会があり、ワインを飲みながら四方山話に花を咲かせた。日本のワーカホリックな文化は変わったのか?、といきなり聞かれ、少しね、と答えた。

でも深夜までの勤務も多いと付け加えると、「昔はイギリスもそうだけど、今は海外赴任も本人の同意が必要だし、人生の一部として仕事があるけど、仕事が人生とは考えていないの」と言われた。

妻とギクシャクしていた自分には頭を殴られたような衝撃。俺の自分の人生ってなんだっけ?

退職まで52ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(49ヶ月目)

留学一年目ももう終わりかけ。試験勉強期間中、クラスメイトはむしろ就活に力を注いでいた。

社費留学で戻る場所がある自分は他人事としてクラスメイトを眺めていたが、今は後悔している。転職しないにしても自分も海外での職探し体験すべきだった。

CVを磨き、LinkedInで多数の企業に面接を申し込む。高額な学費を自己負担して来ているから当然必死だ。今思えば、勉強さえしていれば許された自分はぬるま湯に浸かっていたといわざるを得ない。

自分のキャリアを自分で築き上げる意識が欠如し、どこかで「所詮は組織の御心次第」と思っていた。

この「甘さ」、自分自身のキャリア形成における当事者意識の欠如は、20代の自分を思い返し最大の失敗であると思う。

自分の人生自分で責任を取るしかない。「帰ったらどこに配属されるんだろう」と弛んだ気持ちで過ごしていた自分は、自分の人生にオーナーシップを持っていなかった。

退職まで51ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(50ヶ月目)

試験を終え後は修士論文のみ。時間をつくって妻と欧州旅行に出かけた。一時は険悪な時もあったが、日常を忘れて観光すると心のトゲもとれていった。新婚旅行に行かなかった自分たち夫婦にとって、この旅行は今も話題にのぼる大切な思い出だ。

退職まで50ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(51ヶ月目)

留学の二年目が始まった。ロンドンの別の大学院に移り、法律を勉強する。一年で最低限の語学力はついたつもりだったが、読み込む文献の量が激増し、一年目でLLMに入らなくて本当に良かったと思った。弁護士の方々、尊敬します。

退職まで49ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(52ヶ月目)

ロンドンには優秀な日本人が沢山いる。研究者や現地の企業で働く人、商社、金融、メーカーの駐在員…。

しかし、一つだけ我が家が苦手としていたものがある。それは駐妻コミュニティだ。海外の日本人社会は狭く、夫人同士の付き合いが求められる。

我が家は留学生かつ妻も私の渡英に合わせて私費留学中だったためあまり関わることはなかった。それでも、時にはお茶会なるものが開催され、妻曰く生産性ゼロの会話が延々と続く。今ならリモートワークもできるので改善しているかもしれないが、駐妻という括り自体時代遅れかもしれない

退職まで48ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(53ヶ月目)

駐妻コミュニティその2。その特徴は閉鎖性だけではなくヒエラルキー構造にもある。組織のトップの夫人を頂点とする階層構造。配偶者に雇用関係は全く存在しないにも関わらず、事実上強制徴用される各種イベント、行事。参加しない=輪を乱す行動と受け取られる可能性がある。

G20すら配偶者プログラムには男性(例:メルケル首相の夫のザウアー氏)が参加するが、駐妻コミュニティは女性のみ。(当時の伝聞情報では)大使夫人は話しかけることすらできない殿上人だそうだ。名著「ホモ・サピエンス全史」に出てくるチンパンジーの群れの特徴を兼ね備える集団である

退職まで47ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(54ヶ月目)

オックスフォードは、ロンドンから電車で1時間少し離れた郊外にある学園都市だ。あまり知られていないが、不思議の国のアリスのルイス・キャロルはオックスフォード大学の数学者で、街中にはゆかりのグッズが並んでおり、目抜き通りは観光客で賑わう。

日本の大学とは全く違う、歴史と伝統が残りながら、今も少しずつ上書きされ続けているような雰囲気を感じた。もし自分達に子供が生まれたらこんな大学で勉強して欲しい、心からそう思えるような場所だった。

妻の妊娠が発覚したのは、それから1ヶ月後、秋も終盤の今頃の季節だった。

退職まで46ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(55ヶ月目)

大学院で受講した科目で最も印象深いものの一つが、国際紛争解決(international dispute resolution)である。授業の中で模擬仲裁を開催することとなり、ケースを渡され、当事者として主張を構成、提出する。勉強になったが、弁論では完敗した。

先方は英国・NZ出身のネイティブ2人、こちらインド人と純ジャパの自分。明らかに自分の英語レベルが低い。相手方の競馬実況スピードの主張に対し、自分はせいぜい高校リスニング問題のスピード。ネイティブのガチンコ議論のレベルの高さを知り、自分は何で勝負できるのかと自省した。

退職まで45ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(56ヶ月目)

仲の良いクラスメイトの一人はアフリカのマラウィ出身だった。彼に会うまで知らなかったが、内戦を経験していない平和な国で、The Warm Heart of Africaと呼ばれる。奨学金で留学している彼は、高校まで川を泳いで渡って通学していたと聞き驚いた。

プールバックのような袋に教科書を入れて、毎日往復して川を渡る。そう平然と話す彼はインテリジェントで、穏やかな人格者の人気者だった。

幼い頃から勉強する環境に困らず、必要なものは基本的に全て与えられた自分がなんて恵まれて育ってきたのだろうと、少し恥ずかしくなった

退職まで44ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(57ヶ月目)

アサインメントの調査の一環でイギリスのある立法を調べていると、ウェブで公表されている議会図書館の政策ペーパーの質が高いことに驚く。イギリスでは議員と行政官の接触が原則として禁止されており、日本のような「議員レク」がないためだ。

議会や議員との関係は大臣の仕事とされ、政官の役割分担が明確。政官関係が共依存になっている日本とは大きく異なる。働き方も一部を除いて苛烈ではなく、夕方には帰宅する。「民間は激務だからLWBのある公務員に転職した」との例も多いらしく、この時心底イギリス人が羨ましくなった。

退職まで43ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(58ヶ月目)

今はコロナで減っていると聞くが、留学先には多くの中国人留学生が学んでいた。多くは学部新卒で、自分のキャリアのために法律や金融の修士課程に在籍している。彼・彼女らはそこまで語学力は高くないが、向学心が強く、試験では良い成績を残す。

中国に帰ってどんな仕事に就くの?と聞くと、できればイギリスで仕事を見つけ残りたいと言う。中国では、共産党の関係者や一部の特権階級以外にはガラスの天井があり、むしろ海外の方が活躍できるチャンスがあるのだと語っていた。年下だったが、正直その覚悟には圧倒されてしまった。

退職まで42ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(59ヶ月目)

ロンドンに留学する公務員は多い。同じ修士課程に在籍している他省の先輩とリーダーシップ・マネジメントの講義に出席した時のこと。組織の病理を抉る考察に感銘を受け「日本も変わったらいいですね」と言うと「概念は大事だよね」と言われ違和感があった。

違和感を感じたのは“自分がやることではない”と聞こえたからだ。確かに講義では天安門事件やシンガポールの事例など海外の事例が題材だ。しかし、自分事として捉えなければ変革は生まれない。この時はまだ役所への愛着もあり、「日本に帰ったら自分が組織を変える」と考えていた。

退職まで41ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(60ヶ月目)

留学で得たものは何か?人によって答えは異なるが、自分は外国の友人であった。当時は日本で大学教育まで受けた者に多数の外国人の友人がいるケースは稀である。特に一年目MPP修士課程の友人は、今でも連絡を取り合い結婚式にも出席する仲である。

イギリスを去る日、留学時代の親友でロンドンに住む数人が見送りに来てくれた。互いに笑いながら涙を流し、別れを告げる。またパブで飲もうなと約束する。彼らとのつながりは今でも自分の大きな拠り所だ。

日本に帰る飛行機の中で、自分も彼らに恥ずかしくない人生を送ろうと誓った。

退職まで40ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(61ヶ月目)

日本に帰って引っ越しをしていると職場から電話。配属先の内示だった。留学した経験を活かすため、国際案件を取り扱う部署を希望していたが、最終的に国内とりまとめ系業務を行う政策課配属だった。留学していない同僚は国際部署に配属されている。

分かっていたことだった。霞ヶ関では留学は「バケーション」とみなされることも多く、その後の配属や昇進とはそこまで相関がない。現に次官・局長級で留学していない幹部は大勢いる。

しかし自分は統計や政策評価も一生懸命勉強したし、それを活かす仕事がしたかった。しかし配属内示は既定事項である。

人事室長は「今の場所で頑張れば次は最大限希望を考慮する」と言うが、信用できるか。一生懸命頑張って上司の信頼を得て、キャリアの希望を伝えるという手法もあるだろう。また管理職になるには幅広い経験が必要というのも分かる。やりたいことが明確になるにつれ、人事に疑問が湧いた。

退職まで39ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(62ヶ月目)

帰国後の配属先で嫌だったのは実は部署ではない。この時期、自分はそれまでで最悪のパワハラ課長の下で働くことになった。外から呼びつけた人に3分で説明しろと求め、要領を得ないと「落第」と言い放ったり、「馬鹿」と言って部下を泣かせることもあった。

日々憤りを感じつつも、面と向かって「それはパワハラです」と言うことができなかった。むしろ、極力目をつけられないよう、仕事を必死でこなし、卒なく仕上げることで火の粉が降りかからないようにすることで精一杯だった。課長に面と向かって立てつくほどの勇気は、臆病者の自分にはなかった。

退職まで38ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(63ヶ月目)

留学の思い出補足。クラスメイトに年下学部新卒の日本人学生がいた。一度彼と同じグループになった際、過去の事例やサンプルにまず手が伸びた自分に「過去の事例なんてどうでもよくないですか?」と言われ、ハンマーで頭を殴られた衝撃を受けた。

役所で前例を参照しない日はない。国会想定、幹部発言、公表物etc。日本では常に前例との関係、他省庁の動向が問われた。これを知らないと失格だった。確かに行政の一貫性は必要だ。しかし、年下の彼は、自分よりはるかに真摯に課題に向き合っていた。
このたった一言が忘れられない。

退職まで37ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(64ヶ月目)

産休に入った妻が里帰り出産のため実家に帰ることになった。

しばらくは一人で生活することになるが、正直、自分は出産に向けた準備では役立たずだったため、よかったかもしれない。毎日仕事で深夜帰りが続き、身重の妻に何かできる余裕もなかった。

最近霞ヶ関でも育休取得推進していると聞くが、ハリボテだと思う。出産・育児は短期決戦ではない。長期にわたる夫婦の協働が必要だ。「育休取ったから明日から残業できるな」という馬鹿な管理職がまだまだいるらしいが、そんなオヤジが定年後に奥さんに離婚されるケースも多いのでは?

退職まで36ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(65ヶ月目)

政府の規制改革は、基本的に内閣府の担当室が民間の要望を取りまとめ、それに対して各担当省庁が改正を行うかどうかを検討し、その結果を内閣府がまとめて公表するという形式をとる。政策課では、規制改革について局内への作業指示・総括を行った。

仕組みだけ見ると真っ当だが、実質は叩かれないように当たり障りのないような回答を作り、現在進行形で改正を検討しているもの以外は「検討します」「対応は困難です」と記載する。職員が真剣にその規制が本当に必要か吟味するよりは、卒なく宿題を最小化することがミッションとなる。

退職まで35ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(66ヶ月目)

規制改革の続き。

なるべく要望を受けないようにするのが誤りだとは思わない。日本という国は、どんな些細なことでも目標を達成できないと叩く傾向がある。省庁の場合は、野心的な目標を掲げて達成できなければ、野党・マスコミに吊し上げられる。

達成できる現実的な目標に必要なリソースを集中させるのは、極めて合理的な戦略だ。僕の仕事はそのための露払いだった。しかし、過度なリスク回避は発想の自由度を下げ、本来あるべき姿を追求する姿勢を歪めてしまう。これは霞ヶ関だけの問題ではなく、大企業も抱える問題だと思う。

退職まで34ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(67ヶ月目)

実家の妻から夜に陣痛の連絡。その場で上司に翌日からの産児休暇の許しを得て、新幹線に飛び乗った。

出産は安産だった。不思議な感覚で、子供の顔を見ると自分のキャリアなど些細なことに思えた。その後退職に至る最大の動機は子供の誕生だった。

こう言うと、不思議そうに「子供がいてお金もかかるし、なぜ転職のリスクをとるのか?」と聞かれる。しかし、霞ヶ関に残ってもその後の職業人生を政治に弄ばれ、家族との時間を犠牲に過ごすことになるのは目に見えていた。

どこにいても自分で稼げる力が欲しい。明確な目標ができた。

退職まで33ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(68ヶ月目)

子供が生まれてからも深夜帰りの日々は続いた。しばらくは忙しい日々が続くと予測していたため、出産後数ヶ月妻は引き続き実家に残ることにしており、この時期はひたすら仕事に打ち込んだ。目の前の仕事をひたすら捌き酒を煽って就寝する生活が続く。

一方で、細々と転職活動を始めた。知人の伝手で信頼できるというエージェントにと面接したところ「年齢なんて関係ないです。留学された経験もあるし色々狙えますよ」と非常に前向きで、以前のエージェントと違って好印象。まずは紹介された日系大手の企画職に応募して見ることにした。

退職まで32ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(69ヶ月目)

転職活動は思いのほか順調に進み、役員まで面接も通過して、最後の人事との形式的な面接に臨んだ。その場では入社時期と給与の額を告げられる。別にお金が欲しくて転職するわけではなかったが、基本給はほぼ2倍になると言われた。

しかし、面接を終えて次回は内定の通知となった段階で自分が感じたのは、強烈な違和感だった。特に自分と歳が同じ人事担当者の所作・卒のなさは役人と全く同じだった。

日系大手に転職しても結局隣の芝生だ…。はっと気づくと同時に、軽い絶望感を覚え、内定辞退の電話をかけた。

退職まで31ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(70ヶ月目)

転職先はあったのに自分で蹴った。しかし、転職後の成功を考えるほど、自分には何もないと気付かされ、気分が落ち込んで夜寝ることができなくなり不眠症に陥った。

「自分には専門性がない」「特別なスキルもない」

恐怖ばかりが膨らんでいく。

現職の経験が活かせて、ある程度ポジションと収入があって…。普通の発想かもしれないが、転職を考えるほど恐怖に尻込みする。でも役所には残りたくなかった。

自分に価値がないという思いが強まり、ある時仕事が手につかなくなった。最低限のことはしても、苦しさしか感じなくなった。

退職まで30ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(71ヶ月目)

精神的にも肉体的にもドン底の中、自分の生き方について考え続けた。ある時、暗い気分で電車に乗っていると、ふと次の言葉が頭に浮かんで涙が溢れた。

「生きたいように生きていい。自分が納得できればそれでいい。自分に自信を持っていいんだ」

安定とは何か?人によってはそれは職業だ。最近は「どこでも働ける力が真の安定だ」と言う人が多い。果たしてそうか?

真の安定とは心の豊かさだと考える。自信を持って生きていけること、自分は自分として胸を張っていいと思えることが、本当の幸せだと悟った。今もそう信じている。

退職まで29ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(72ヶ月目)

実家に帰っていた妻が帰ってきて、子供と三人での生活がスタートした。妻が育休を取得していたため、実質的には専業主婦家庭だった。

自分の職場で育休を取得するのは実質的に不可能であり、夫婦二人で育休をとることはおよそ想定できなかった。

妻は夫婦の役割分担に自覚的な方で、常々「仕事を言い訳に子育てをしないのは間違い」と言っている。しかし、霞ヶ関の忙しい部署に勤務しつつ週に2、3回保育園の迎えをするのは事実上不可能だった。

転職について話すと、妻は諸手をあげて賛成だった。転職のハードルが更に下がった。

退職まで28ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(73ヶ月目)

新人の日々の指導は、自分の省では基本的に係長と先輩係員の仕事となっていた。人によっては、徹底的に厳しく指導すること=最善であると考えて、箸の上げ下げまで、ロジの基礎を叩き込む。

よく訓練された新人ほど、従順で目の前の作業に没頭する。

社会人としてのお作法や事務処理のイロハを身に付けるのは重要だ。それらは仕事をする基礎体力になる。しかし、厳しい教育は往々にして「年次が違えば絶対服従」という閉塞的な空気を生んでしまう。

この年の新人には、必要なスキルは教えつつも自由な考え方でやってもらうことにした。

退職まで27ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(74ヶ月目)

子供の成長は早い。あっという間に首が座って、気がついたら寝返りができるようになって…。

それまで自分は自己の成長や仕事ばかり考えていたが、少ない時間でも子供と過ごしていくほど、自分自身のことなどちっぽけだと思えるようになっていった。

何が幸せかは人それぞれだし、時期によっても異なる。今日一番大切なものが、十年後も同じである保証はない。それでも、人とのつながり、家族とのつながりのかけがえのなさを、子供から教えてもらった。

自分の人生は、子供が生まれてから間違いなく方向性が変わったと思っている。

退職まで26ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(75ヶ月目)

転職を心に決めたとはいえ、乳児もいる身ですぐに辞めるわけにはいかない。留学にも行っているため、五年以内に退職した場合には留学費用の返済も発生する。

そこで、あと二年間、子供がある程度大きくなるまでは霞ヶ関に残ることに決めた。

生活コストの高い東京を離れ、子育てしやすい場所を探す。夫婦共働き前提で、高収入でなくともダブルインカムで暮らしていけるモデルを考える。

働き始めてずっと、自分は職場に振り回されていた。転職を決めた時初めて、自分の人生を自分で設計して自分で決めることができたと思った

退職まで25ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(76ヶ月目)

仕事の合間を縫って転職活動を開始。まず最初に思いついたのは教師で、社会人経験・スペシャリスト採用の枠を狙うというのはどうかとなった。この枠の場合には、教員特別免許が付与されるらしく、大学で教員資格を取っていなくても応募が可能らしい。

しかし、転職は賛成のはずの妻から鋭いツッコミ。「転職はいいけど、それってあなたの本当にやりたいことなの?一貫性がないんじゃないの?」

確かにもっともだと思いつつ、この嫁はまたなんちゅー難しい課題を出してくるんだと内心笑うしかなかったのであった。

退職まで24ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(77ヶ月目)

転職活動は業務終了後や有給を使っていたため、身体的疲労が蓄積していった。将来への不安から来るストレスもあって、みるみる白髪が増え、額には吹き出物も出現。毎週、金曜の夕方を迎えるタイミングで「今週も乗り切った…」という感じだった。

気の置けないごく一部の同僚には転職することを打ち明けていた。彼も自分と同じ閉塞感を感じており、悩みや辛さを分かち合う転職希望者だった。変な話だが、この転職仲間がいたことで本当に救われたと思っている。もし彼の存在がなかったら、自分のメンタルは絶対にやられていた。

退職まで23ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(78ヶ月目)

転職者に対する風当たりは厳しい。正直言って、少なくない人々が「裏切り者」「落伍者」という目線を投げかけてくる。そんな圧力を感じると、転職しようとしている自分が何かとても良くないことをしているような、逃げているんじゃないかと思う。

事実、転職を相談した方の一部には「お前は逃げている」と叱責を受けた。

しかし、何が逃げで何が逃げじゃないのか。叱責してきた方の中には、仕事はできても複数回の離婚を経験している人もいて、(それ自体悪いことではないが)むしろ自分が家族から「逃げ」ていたんじゃないの?

退職まで22ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(79ヶ月目)

職場結婚又は公務員同士の結婚は霞ヶ関ではかなり多い。地方と違い潜在的な出会いの場は多いが、一週間のほとんどを職場で過ごしていることや、馬車馬のような働き方にそもそも理解がある人を配偶者にすることで結婚後の夫婦生活が円滑にいきやすい。

自分は妻が民間のため、深夜帰宅が続くと「不倫かあるいはとんでもない遊び人だ」と疑われたし、急な仕事でドタキャンすると「スケジュール管理ができない人は仕事のできない人」と厳しいお言葉を頂くことが多く、時には喧嘩に発展して、同じ職場ならこうならなかったのかな、と思うこともあった。

でも、結婚後しばらくした今は、違う経験や価値観を持つ人と一緒で良かったと思うことの方が多い。腹が立つこともあるが、自分とその置かれた環境を少し引いて客観的に見ることができるし、何より互いに遠慮せず気持ちや考えをぶつけあう仲でいることは、長期的には恵まれたことだと思う。

退職まで21ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(80ヶ月目)

今の霞が関を改革するためにはどうすればいいか?

多くの官僚は「歯を食いしばって偉くなって、自分が力を持った時に変えるんだ」と言うだろう。しかしこの発想にこそ大いに問題がある。出世する過程でミイラ取りがミイラになってしまうのである。

なぜならば、数字で成果がでない公務では上司の評価は全てであり、出世を続けるには上の意向に逆らうことはできない。自分が偉くなるまではと我慢を続けて、その間に永田町も含めた人間関係にがんじがらめにされ、いざ自分が相応の役職についた時には何もできない。このスパイラルが繰り返される。

霞ヶ関を変えるにはみんなが「今」動くしかないのではないかと思う。別に決死隊になる必要はない。おかしいことにおかしいと声をあげて、明らかに意義のない仕事と思うのあれば辞めればいい。一人一人の行動が全体を動かすムーブメントになる。全ては自分の判断。今の自分を解き放て。

退職まで20ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(81ヶ月目)

転職活動は暗礁に乗り上げていた。今の職場に残りたいとは全く思わない、しかし日系大手は以前の経験から役所と同じ穴のムジナだと考えていた。そうすると選択肢は、三つしかない。

① 外資系企業
② スタートアップ・ベンチャー
③ 起業・自営業

③はない。公務員から起業するほどの人脈・スキルはない。すると①又は②だが、外資への転職で求められる例えばマーケティングやIBなどの専門性・経験は自分にない。役所転出組が多いのはコンサルだが、それでは子育てとの両立は不可能だ。

狙いをスタートアップ・ベンチャーに絞った。

退職まで19ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(82ヶ月目)

しかしスタートアップと言っても数限りなくある。どんな分野の企業に応募するか…。留学時代に知り合った起業家の方を頼り相談したところ、次のようなアドバイスをもらった。

「何をやるかより誰とやるか。創業者と波長が合うかがとにかく重要」

「焦って転職しない方がいい。働くところはきっとあるから、大まかな方向性を決めたら、人で選んだ方がいいよ」

事実、スタートアップで働く友人は口を揃えてトップの人格やビジョンがビジネスの成否に占める比重の大きさを話していた。まずはできるだけ多くの人に会おうと決めた。

退職まで18ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(83ヶ月目)

霞ヶ関には会議が乱立する。同じ議題でも官邸やら内閣府やら、こんなに重複して意味ないだろうというくらいに重複が起こる。これは意図的な仕掛けで、他人の領分に口出ししたい某K省のようなところが表と裏であえて重複する会議を立ち上げる。

確かに規制官庁の会議体のみでは抜本的な改革ができないのは、携帯料金の例を見ても明らかだろう。しかし、「過ぎたるは及ばざるが如し」。政府内部で意思疎通が取れていない、連携できていないことの証左である。省益あって国益なしの慣習は、政治主導が叫ばれて久しい霞ヶ関に根強く残っている。

留学中同級生だったアジア某国の年上の外交官が言っていた。

「日本との交渉でさ、外務省と打ち合わせが終わった後に、経済産業省から「外務省の人はなんて言ってましたか」って聞かれたんだぜ(笑)政府内の情報共有一体どうなってんだよ…。」

中にいる人間には笑い事ではない。

退職まで17ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(84ヶ月目)

妻が復職して、人生の難易度が上がった。仕事に追われ、週に何回か子供の迎えや食事の用意を担当し、転職活動も行う。一時期はあまりに苦しくて精神的に限界を迎え、眠れない日々も続いた。

あと少しで退職、それだけが心の支えだった。

退職まで16ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(85ヶ月目)

AIによる業務の代替が課内で話題になったことがあった。霞ヶ関の通常業務についてどれだけ自動化が可能なのか。

最後に口を開いた課長が一言「でも俺たちの仕事はなくならないな。なぜなら不合理に溢れているから」

これは今思い返すと味わい深い。

国会答弁は機械的に事実を述べるだけならAIで代替できるだろう。しかし、法改正の時に各省に意見照会を行う「法令協議」で自分達に都合が悪い場合、「紙爆弾」と言って嫌がらせのように数百の質問を送りつけて相手の業務をわざと逼迫させたり、政治家との関係で寝技に持ち込むなど、日常茶飯事である。

魑魅魍魎の住む永田町霞ヶ関を渡っていくのは、非常に人間的な、貸し借りのバランスシート感覚や、パワーゲームをコントロールする巧みさが求められる。課長が言いたかったのはこういうことだろう。

しかし、国民はこの不合理な仕事をして欲しくて官僚に税金を払っているのだろうか?

退職まで15ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(86ヶ月目)

田舎者の自分は、昔、地元を出たくてしょうがなかった。地方の暮らしが嫌だった。しかし、東京で十余年を過ごし、人生の岐路に立った。家族の生活、子供の教育、生活コストを総合考慮して出た結論は「家族みんなで地元に帰ろう」というものだった。

東京では生活面や文化面で充実した日々を過ごせるし、キャリアも自分の思い描く夢に近づく。

それは正しいが、その対価は安くない。子供の教育では小学校あるいはそれ以前から塾に通わせ、住居では高額な住宅ローンの返済に追われ、しがらみが増えるにつれて会社・組織から離れられなくなる。

しかし、何より重視したのは家族のつながりだ。子供と祖父母の交流、お互いの実家の両親と心を通わせる余裕、何より自分達家族が慎ましくも家族で最低限の時間をとって過ごせる仕事。

「またおじいちゃんおばあちゃんと一緒に遊びたいね」という娘の一言で、もはや迷いはなくなった。

退職まで14ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(87ヶ月目)

日本を良くしたいという気持ちがあって公務員になった。今自分に取り組んでいることは明日の改善につながると思っていた。しかし、時間がない。心に余裕がない。

近隣では中国、シンガポールなど国家百年の計で将来を見据えた政策を実施している。

「日本は民主主義国家だから」「文化が違うから」

反論は想定できるが、残念ながら日本に長期戦略は存在しないと思う。あるとしても、具体的施策を欠く「ビジョン」だけだろう。

官僚に根性が足りないのか?他国のが頑張っているのか?

そんなことはない。今でも擦り切れるほど働いている。

公務員組織も変わることができない。終身雇用を維持しながらコンセンサスベースで改革を進めようとしても変わるわけがない。

変革のドライバーがあるならそれは時代の変化でしかない。現状が続き、手遅れな状況まで追い込まれて初めて、否応なしに物事が変わっていく。その時に多大な犠牲を払う。

今の政治家・官僚が悪いわけでもない。背後にある民意を含め、システム全体が変化を嫌っているように思う。

上司が「でも俺やギリギリ君の代までは大丈夫だろう。君の子供の世代はやばいな」と言った時は絶望した。国民の負託を受けて施策を実施する立場である官公庁幹部がこんなこと言うのか…。

自分が直接変えられるのは自分だけだ。自分の幸せを考えることができるのも自分しかいない。

手の届く範囲で、少しでも身近な人を幸せにできたら、その方が自分の価値を世の中に提供できるかもしれない。

「官僚になったクセに」「官費留学しておいて」と後ろ指を指されるだろう。それでもいい。

その日2通のメールを打った。

一つは職場の上司に「本年一杯で退職させていただきます」

もう一つは転職の相談に乗ってくれた起業家の方に「インターンでもなんでもいいんで働かせてください」

退職まで13ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(88ヶ月目)

以前退職した先輩に話を聞かせてもらった。言われたことは一つ、「君は何を仕事にしていきたいの?」

日本の行政組織では、国会・政党に説明するプロになれても、特定の分野のプロにはなれない。法律を作っても、法律を使いこなす法曹にはなれない。

特定の専門性がなくとも、導管体として国家の調整役を担う縁の下の力持ちが官僚の役割だ。それ自体は非常に価値ある仕事だが、最終的に自分がその仕事を続けるかは憲法で保障された職業選択の自由に基づく個人の判断だ。

「最も大事にする価値を優先して暮らしていける方がいい」と言われた。

その先輩は、辞めたことを後悔していないと言う。もし人生やり直してもきっと辞めていただろうと。

「個人により判断は異なり判断のための基準も異なる。だからこそ何かを決めるときには他人ではなく自分の判断基準で考えなければいけないよね。牛侍も納得いくまでよく考えな」

退職まで12ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(89ヶ月目)

官僚勤務とワンオペ家事育児

官僚でまともに仕事していたら基本18時に帰ることはありえない。21時でもまあありえないと言って良い。必然、子供がいる場合配偶者はワンオペ家事育児となる。特に、「本流」ポストにいるほど帰宅は連日深夜となる。

配偶者の負担も過剰になる。夫婦の一方は仕事で限界を迎え、その煽りを受けもう一方も限界を迎える。これを解消する方法は、転職か離婚か出世を諦めるかである。霞ヶ関の若手退職率が注目されているが、離婚率も日本平均より高いと思う。総合職の女性で出産後志願して一般職に転じた方もいる。

最悪なのが上司の無理解。霞ヶ関の幹部のおじさんは、妻が専業主婦の場合が多く、そもそも家事育児に時間をかけて仕事をする時間が削られるという感覚が一切ないという人もかなりいる。週末に仕事を振られて、一度「あなたの配偶者がウチの子供の面倒みてくださいよ」とキレそうになったことも。

結局自分の身は自分で守るしかないのだが、中には官僚で激務だが子育てもして仕事も完璧でみたいなパターンもいるかもしれない。しかしそれは自分のみならず配偶者の気力・体力・能力に左右されるし、レアケースであるごく一部の稀有な成功例を一般化するのはやめてほしかった。

退職まで11ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(90ヶ月目)

既に退職意向は伝えていたのだが、辞めることをオープンにすると職場の同僚から親族まで一定数が全力でメンタル潰しにくるのがもはや面白かった。

「民間は甘くない」「君は民間ではやっていけない」「目の前の課題から逃げている」「浅はか」等々。

皆悪気はない、むしろ心配してくれているから声を掛けてくれるのだが、決意を持って退職する自分ですら、毎日のようにネガキャンをされると心にダメージを受けて寝れなくなることもあった。

自信を持て、と心の中で何度も自分に呼びかけることで、辛うじて冷静さを保つことができた。

退職まで10ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(91ヶ月目)

退職についてはしばらく上司や人事から慰留されていたが、決意が固いと分かると流石に引き止められることはなくなった。仕事は勿論続いていたが、育成の必要がないとなったためか、心なしか負担は軽くなった気がした。

その間に転職先と話を進める。

転職先はスタートアップ。創業者は界隈では名が知られている方で、別の起業家の方に紹介していただいたことがきっかけで知り合った。

気さくで温和な印象を受け、一緒に働きたいと思ったのをよく覚えている。転職が現実的になり、気持ちは霞ヶ関になかった。辞める日が楽しみになった

退職まで9ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(92ヶ月目)

退職が決まった後に困ったことの一つは、有休取得時に上司が指示を出してくることがあったことだ。

課内でラインで連絡が取れるようになっていたため、家族都合や転職先の関係で有給を取った日に、「◯◯の対応お願いします」と言った指示が来る。

何らかの嫌がらせかもしれないが、上司としては、仕事はいつ来るか分からないし、与えられた職務をこなすのは当然、ということだろう。

緊急事態であれば有給も何もない。しかし来週やっても変わらない業務を有給日にやらせるのはいかがなものか。

近々去る職場で当時は気にならなかったが…。

霞ヶ関で働く方々には、激務の中で有給を取得した日くらい、できれば仕事から離れて過ごしてほしい。

退職まで8ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(93ヶ月目)

官僚を辞めたいと思う人の頭に浮かぶ共有の疑問の一つは、「自分は現実から逃げているだけじゃないのか?」というものだ。

入省当時の気持ちや、仕事で嬉しかったことなど思い返すと、今の自分が逃げていると感じて、もう少し頑張ってみようとなる。

この感情によって「あと何年かやってみよう」となり、辞めたいと言いながら気づいたら40超えてたという人は少なくないだろう。自分も思い悩んだことがある。

しかし、何が逃げで何が逃げではないか、線引きは曖昧だ。最も重要なのは、自分が今やりがいを持って仕事に取り組めているかどうかだ。

そして今の仕事にやりがいを感じることができるかは、あくまで主観的な問題である。

他人にとって良い仕事であることと自分にとって良い仕事であることは別の問題であり、「他人が楽しいと思う仕事だから」自分も続けるというのは悪手極まりない。このような判断の延長線上には、幸せはない。

他者の価値観を自己の意思決定の尺度として使うことは、人生において最もやってはいけないことだと気がついたのは、年齢が30を超えてからだった。

転職というイベントは、写鏡を見るように自分の人生を振り返る経験であり、限りある残りの人生をどのように生きるかを僕に教えてくれた

退職まで7ヶ月

【追伸】現役官僚の皆様へ

霞ヶ関での仕事は良いところも悪いところもあります。自分が心からやりがいを感じるのであれば続けるべきだ。反対に仕事に疑問を感じ続けているなら、躊躇わずに辞めるべきだ。

自分の心に素直になるべきだと思います。あなたの能力は低くない。

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(94ヶ月目)

年が明けて、テレビや新聞の報道は中国のコロナの状況とダイヤモンドプリンセス号の集団感染ばかりとなった。

政府としての重要課題になってはいたものの、まだ誰も世界中がコロナ感染の恐怖に怯えることになるとは思っていなかった。

退職まで半年

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(95ヶ月目)

コロナ感染が国内でも最大の課題となり、仕事はコロナ一色になった。政府として経済対策を進める上での仕事に追われつつ、通わせていた保育園が閉じたため、ギリギリの生活を回した。妻と二人でPCに向かい子供にひたすらYouTubeを見せるしかなかった。

職場との関係でもなんとか可能な限りの在宅勤務を許してもらった。転職する身ながら、苦しい状況で自分ができることが限られることにもどかしさを感じていた。

最後はなんとか両親の助けを得て、子供を一定期間実家に預けることで乗り切ったが、更なる衝撃があったのはその後だった。

退職まで5ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(96ヶ月目)

転職先の創業者と話をしていた時だった。

「今のままで事業を拡大できるかは難しい判断」「ひょっとしたらもう少し残ったほうがいいかもしれない」

業況悪化によって、従来話を聞いていたのと同じような待遇での受入れが難しいとのことだった。

事情が変わったのだからしょうがないのだろう。それは話を聞いてよく分かった。

しかし、霞ヶ関に残るつもりはなかった。転職のための「つなぎ」として働くことにはモチベーションを感じられなくなっていた。退職意向は取り下げなかった。自分のやりたいことは既に元の職場になかったからだ。

実家近くに帰省することで当面の生活コストを下げ、転職活動を続ければ良い。もし本当に生活に困るなら、留学の経験を活かして、以前に一度検討した教員に応募してみて、可能であれば英語を教えながら暮らすこともできるかもしれない。

キャリアが常に右肩上がりじゃなくたっていいのではないか。

そうやって思えたのは、以前に一度かなり深く悩んでいたからだったと思う。自己肯定感を内製化できた

浮き沈みはあるが、他人と比較しなくなったことで、自分の進みたい方向に向かって努力を重ねられればそれでいい。あとは家族が笑顔で過ごせたらいいんだと考えるようになっていた。

退職まで4ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(97ヶ月目)

霞ヶ関の若手キャリアの二人に一人は勘違いをしていると思う。自分もそうだった。公共心はあるが、世間知らずにも「自分が国を変える、変えられる」と思っている。夢見る少年少女のようですらある。

心意気は悪くないが、多分そのスタンスだと何も変えられない。

国を変えるのは、国民だ。行政ではない。

リーダーの存在が取り沙汰されがちだが、大局的には時代を代表する特定の人物が世間の注目を集めてはいても、そうした人物が表出した時代の変化にこそ価値がある。一人のヒーローが世界を一から全て変えるのは、映画や漫画の中だけで、現実ではない。

官僚機構の役割は、国民の意思を政治を通じて実行することだ。国民の意思に逆らった改革をすることではないし、すべきでもない。

世の中を変えていく力は、国民一人一人の小さな行動の積み重ねの中にある。霞ヶ関を去っても、現状に諦めを持たずに、世の中に貢献していきたいと思った。

退職まで3ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(98ヶ月目)

退職を決断し明鏡止水に至った自分には、一時的に無職になることは大した恐怖ではなくなっていた。

やるべきことは明確で、地元で妻と新たな職を探す。リモートワークが可能であれば東京の会社でも良し。

そんな中一定数の方に転職の相談を受けた。

話を聞くと、皆霞ヶ関での業務内容や働き方に大きな違和感を持っていた。一方で共通していたのは、ともすると根拠のない楽観論だ。

「次のポストは少しは楽になるかも」「次は出向で外に出れるかも」「働き方改革が一気に進むかも」

こうして辞めたいが辞められない人が堆積していく傾向がある。

何の保証もない将来の希望と現在の自分の意向を比較対象にするのはそもそも間違いだ。勿論、霞ヶ関でしかできない仕事もあり、そこにやりがいを見出しているとか、雇用の安定性を何より重視する人は良いのだが、希望的観測に基づいて「様子見」で残留している人は、機会費用を考慮できていない。

長い間下積みしてきたから今更辞めるのはもったいないという意見もあったが、これはサンクコストだから、合理的な意思決定ではない。

また、もし霞ヶ関が本当に変わるなら、民間で有為な人材は戻ってこれるよう中途採用の拡大もやっているはずだから、一度出たら戻れないこともない。

とりあえず残るという道は、選択肢を広く残しているようで、選択を先延ばしし、成長や家族の生活のあり方をむしろ狭めてしまっている場合があるのではないか。

「残る」「辞める」どちらを選ぶ場合にも考え抜いて積極的に選択をすべきだ。本質的に選択を回避することはできない。

退職まで2ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(99ヶ月目)

10年を霞ヶ関で過ごして得たものは何だっただろうか。

民間で使えるスキル、引く手数多の転職先、安定した生活、これらはいずれも手に入らなかった。

霞ヶ関の働き方に特化した応用しにくいスキル、30を超えた年齢、長時間労働による不健康は得た。

では得たものはなんだったろうか?

それは経験だ。日本の政治行政のリアル、日本の課題について同僚と議論し考える日々、留学など、霞が関に来なければ体験できなかったことは人生の財産だと思う。また、「国のために働いているんだ」という自負も、自分自身の自信につながっていたように思う。

しかし、月並みだが、特定の組織・集団に所属して得られる肩書きは、いずれもあまり価値がないと思う。商社、銀行、コンサル、医師、弁護士、官僚など、職業や業種が変わってもきっとこれは同じだろう。

何を成し遂げたか、残した結果とプロセスにこそ価値がある。残念ながら、自分にはこれがあまりない。

上から降ってくる仕事をひたすら処理する日々に埋没してしまった。忙しさを言い訳にして、調整にばかり気を遣い、迂闊にも、調整がうまくできることが仕事ができることだと勘違いしていた。

振り返ってみれば、自分が体を張って幹部や上司に意見したこともなく、周囲の雰囲気に流されていた。

現在の自分は、過去の自分の積み重ねで構成される。

当時は頑張っているつもりだったが、疑問を抱いている時も、どこかで「上の言ったことだ」と諦めて仕事をしていた。この延長線上になんらかの達成物があるわけなどなかった。

自分は本当の意味で官僚としての職責を果たしていなかったのだ。

長くなったが、この「自分の仕事を他人事とせず腹を括ること」の大切さを、三十半ばに至ってようやく理解できたことこそが、最大の学びだったかもしれない。

もちろん官僚の中にもこうした気概を持っている人はいる。残念ながらほぼ全ての時間において自分はそうなれなかった。

退職まで1ヶ月

100ヶ月後に退職するキャリア官僚(最終月)

「辞職を承認する。」

最後の辞令を受け取り、最終日はあっけなく終わった。人生の一つの区切りだが、子供の迎えや引っ越しなどの用事もあり、しみじみと浸っているような時間はなかった。

最後に、このシリーズを通して伝えたかったことを記したい。

誰かに期待するのではなく、自分に期待した人生を送ることの大切さを、できるだけ多くの方に伝えたかった。

人事配属のガチャや国会に振り回される日々を嘆いても、日々は変わらないのだ。自分の行動を、働く環境を、自ら変えないといけない。

自分のような矮小な人間でも、退職の決断ができた。

かが声に出すのを待つのではなく、自分が声を出していかなければ。

退職できないのは、それは意識的にせよ無意識的にせよ、現状を捨てることができないからだ

人生の選択とは、他方の可能性を捨てることと等しい。やりたいことがあっても今の身分や給与などを捨てられないのであれば、多分一生キャリアについて主体的な選択できない。

「しょうがない」と割り切っていたことを問い直してみよう。

自分にはどうしようも無いと思っていたことをどうしたら変えられるか考えてみよう。

このシリーズの呟きが、自分の仕事や生き方を見つめ直すきっかけになり、自分なりの幸福な人生に近づくことができることを心から祈っている。

私自身、多くのものを捨てた。多くの人が残念だと言った。

でも新しく手に入ったものもある。コロナでどうなるかわからない中でも、しばらくウチで働いてみたらと声をかけてくれる方もいる。

もし私と同じような悩みに苦しんでいる方がいたら、あなただけじゃないんだと言いたい。一緒に勇気を出そう。


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