だから僕は自分を生きることを辞めた
自分らしさ
ありのままの自分
自分軸
自己肯定感
本来の自分
などなど…
様々な言葉が
自分を生きよう!
って伝えている時代かと思います。
他にも…
好きなことで生きていく
やりたいことやったもん勝ち
自分の強みを活かす
理想の自分になる
自分磨き
自分の価値を高める
夢を叶える
目標を達成する
自分のビションに明確にする
こういった言葉群も
自分を生きることのひとつと
言えるかと思います。
僕の話をしていく前に、
そもそも昨今こういった言葉達が
巷で叫ばれるようになったのはなぜか?
ここについてお話していきます。
なぜ今、自分らしさの時代?
簡単に言うと、
時代の変化、
なのですが、
どう変わってきたのか?
ここが大事なので、
一旦、江戸時代までさかのぼります。
(歴史の専門家では無い僕個人の意見なので、詳しい方は逆に僕に教えてください)
200年近く続いた江戸時代。
この時代はどうだったか?というと、
ある程度の階級は存在していたかと思います(士農工商)が、
大事なのはそこではなくて、
鎖国をしている中でも
日本という国、
それぞれの藩が成り立っていた時代だということ。
もろもろ端折りますが、
その江戸時代から明治へ移る時、
海外へと開かれていき、
海外の文化や技術、芸術などが入ってきます。
ここで見るポイントが、
明治以降の日本の技術の進歩の速さ。
数十年とせずに、
他国と争えるまでの技術力を身につけた。
ここが日本人のすごいところでもあったわけです。
200年の江戸時代が続いたのは、
士農工商それぞれの分野においても、
その道をひたすら磨く人たちが
多かったからではないか?
僕はそう思っています。
だからこそ、明治からの技術革命が物凄かった。
ただし、この技術の進歩は止まることとなります。
敗戦を機に。
この敗戦を機に、様々なものが解体されていきます。
解体と同時に、日本に新たに入ってくるものも多く、日本という国が大きく変化していくことになったかと、僕は思います。
そして、戦後、高度経済成長やバブル、様々な震災や、他国の紛争やコロナなど、様々な海外との接点を結びながら、今の僕たちがある、と言えるかと。
で、なぜ今、自分らしさかって話に戻りますと、
「戦争を体験した世代がいなくなっている」
実際に日本の戦争について体験した世代がお亡くなりになっているということが言えるかと思います。
逆に言えば、
僕たちは戦争を知らない世代だと言うこと。
もちろん、知識や歴史の一部として知ってはいるけど、経験したわけではないですから、そういう意味での、知らない、です。
これが、自分を生きることとどう繋がっているのか?ここが肝でして。
国が変わり、時代も変わり、今の世の中、働き方も家族の形も会社の形もライフスタイルも、多様になってきたということ。
一見、開けているようにも見えるのですが、実は逆で、今の日本は縮小しています。
どういうことかっていうと、教育の弊害です。
戦前までの、明治までの時代、日本人は江戸時代から培ってきた、自分たちの土地や持ち物、自分の能力でできること、そもそも自分に備わってる物を、効果的に活用することに長けていたはずなんです。
だから、明治以降、急激に技術は進歩した。
そこに加え、日本人の考える力というのは凄まじく、海外の初めての土地でもガンガン攻めることができたのは、日本人が今ここを考えるという大きな力を持っていたから。
(ここは地政学ともつながるようですが、持って生まれたものを活かすという部分が大きかったように僕は思っています。)
ただし、戦後の教育で日本人の考える力というのは大きく削がれていくこととなります。
学校側や社会、あるいは国が用意した「答え」を生きる教育に大きく変わったから。
戦前は自分の持ってる能力を会社に売り込む就職活動だったものが、
戦後は会社に選んでもらう人材になることが就職活動となったように。
国や社会の答え合わせをすることが僕たちの人生をなっていきました。
終身雇用とか、みんな平等とか、そういうのですね。
そうやって戦後作り上げてきた日本の「答え」が崩壊したのが、「今」です。
じゃあ、戦前のような時代に戻ったのか?というと全く別で。
そもそも考える力を持っていたであるはずの人たち(戦争経験者たち)が亡くなった以上、
その人たちのように持って生まれた力で考えるということを知らないのが、
今の親たちとなっているため、
子供達も戦前のように持って生まれた力で考えるという力について、
持ち合わせようがないのです。
言葉は悪くなりますが、
生まれた時から、
考えることのできない親の元で育ち、
答え合わせの教育を学校教育の中で学び、
社会に出てから国の答えで生きてきた人たちが
そのまま大人になって、
子供を育てる。
これでは考える力などつくはずもないのは
当然と言えるはずです。
ただ、多分ここまで読んでくださってるあなたは
疑問に思うでしょう。
「え?
でも、今自分を生きようってことで、
考える時代に移り変わろうとしてるんじゃないのか?って。」
実はここに大きな罠があるのです。
自分らしさの罠
というのも僕たちが戦後、
答え合わせの教育の中で生まれ育ってきたことを
ここまで歴史を振り返りつつお話ししていきました。
ここが重要なところで。
僕たちは生まれた時から答え合わせをする親の元、
答え合わせの教育機関の中学び、
答え合わせの社会の中で成人し、
答え合わせの人生をずっと生きてきたんです。
これを紛れもない事実と、
一旦思ってください。
こう考えると、
今の世の中で叫ばれている
「多様性」
「自分らしさ」
「個性」
というものを僕たちがどう認識してしまうのか?
ここです。
僕たちはどうしてもこれまでの答え合わせの癖で、
「自分らしさ」をはじめとした
「自分を生きること」が「答え」のように錯覚してしまうはず。
そうです、ここが罠です。
日本人の考える力の絶滅
前後起きたこの変化が、今、ちょうどピークを迎え、さまざまなこれまであったはずの答えが崩壊した。
その途端言われ始めた「自分を生きる」という新しい「答え」に、ただただ僕たちはしがみついているだけ。
結局のところ、「答え」が変わっただけで、思考はしていないのが僕たちだということです。
ただし、「自分を生きる」となるとそれなりに学ぶ必要があります。特に自分について知る必要が出てくる、って思うのが、答え合わせの教育で生きてきた僕たちの習性。
そこで自分に関することを学び始めるのですが、学びの大枠として「答え合わせ」から抜け出すことはできません。残念なことに。
よくあるのが、心理学や脳科学、あらゆる自己診断ツールや、スピリチュアル、占星術や数秘など、さまざまな学びを行うのですが、そこで得た知識を答えを思い込んでしまうのが僕たち。
そういうのを知った時、「あ!これこれ!これ私!」って思いやすいですし、難しい言葉や概念を知ると新しい答えを得られるので、答えが増えることで安心するっていうのも僕たちの特性でしょう。
ただし、よくよく見てみればわかることですが、そこに「考え」などなく、知識を答えとして鵜呑みにしているだけ。
自分を知ろうとしているのに、外部の知識で答え合わせをしている。
もちろん、知識はもっともらしいことがほとんどなので、納得できるのですが、納得ということは答え合わせでもあるわけで、そこに考えはない、ということでもあります。
さらにいうと、今世の中に出回っている知識のほとんどは、人をモノとして考えた場合の知識がほとんどです。
学問の傾向としてそうなりがちなのですが、特に統計的になっていけばいくほど、一般論というようなモノとしての概念で片付けられてしまいがち。
もっとも、答え合わせの民族にはこれが効果的で、こういうもっともらしい人をモノ扱いした情報を流しておけば、みんな信じるわけです。
そして、人をモノ扱いするというのが、実は、答え合わせの教育がもたらす最大の病であると、僕はお伝えします。
今を生きる僕たちの病
答え合わせで生きてきた僕たちは、答えというものをもとに人と会話するようになってしまっています。
そのため、結果的に人をモノ扱いしていることとなってしまってるのです。
答えが全て。
どうしてもこう考えてしまうので、答えが知りたいし、答えと違うものを嫌います。
となると、自分の考えなんて持たなくなるんですよ。
答えが大事だから。
自分で考えない。
考えるような行為をしていたとしても、それは答え合わせのため。
答え合わせのために頭を使うことは好きなんです、僕たち。
例えば・・・
結婚を例にお話ししましょうか。
理想の結婚相手。
こう言葉にした時点で、
頭の中に自分の答えが出来上がってしまうのが僕たち。
その答えに合う相手をとにかく探し始めます。
恋活、婚活、結婚相談所、友達の紹介などなど。
答えありき、なんです。
そして、答えじゃないものは全て間違いなので、無視していくこととなります。
この時、目の前の人は人として見てないです。
自分の頭の中にある「理想の結婚相手」という「答え」だけを見ているから。
だから結果的に言えば、目の前の人は人ではなくモノ。
もっと突き詰めて言えば、結婚相手もモノです。
自分の理想を作るためのパズルのピース。
形がハマればそれでいいという、答え合わせの状態。
こうなってしまうのが今を生きる僕たちの病です。
本来であれば、
多様性、個性、自分らしさの時代をいきているのであれば、
違いを認め合うためにどうするか?が大事なはず。
でも、自分の中の答えが大事すぎて、
目の前の人を自分の答えにハメてしまう。
結果モノとしか見ていない。
だからこそ、同じ価値観、類は友を呼ぶ、引き寄せの法則、なんていう「答え」が流行っている。
多様性と言いつつ、同じ価値観を探している、これって矛盾してませんか?
僕たちは矛盾して生きている
この僕たちの中にある「矛盾」。
実はここが最も大事です。
というのも、「自分らしさ」といった瞬間に、
それが「答え合わせ」になるのが僕たちだから。
僕たちは考える力を失い、答え合わせの教育で育ったからこそ、答えを持っていないと不安です。
でも、そもそも「自分」というものに「答え」などないことは、少し考えていけばわかることです。
士農工商、明治の時代、「自分という答え」などありませんでした。
答えがなくとも、自分は自分の道を生きる、やがてそれが答えになるだろうと、自分なりに考え、生きていくことで、そういう生き様を残した人は数知れないことでしょう。
最初から何かに成るといって何かを成したわけではなく、結果的に成していく人たちが多かった時代だったのではないか?
少なくとも僕はそう考えます。
そして、そういう精神性と言いますか、そういうものを受け継いだごくごく一部の人が戦後も少しはいたんだけど、もうかなり少なくなってきてしまってる印象です。
ただ、今の時代を生きる僕たちは当時の人たちのように考える力はないです。
だからと言って考えなくていいかっていうとそうでもなくって。
考える力がないことを分かった上で考える。
この矛盾が大事だと僕は思っています。
僕たちはどう生きるか?
ここまでのことを踏まえ、
題名の「僕が自分を生きることを辞めた」その理由についてお話ししていきます。
この理由については、かなりシンプルです。
考える力を持たない僕たちが、
僕たちなりに考えて生きていくためには、
「答え」を持たないことが大事ではないか?
ただこれだけのことです。
もちろん、「答えを持たないこと」が「答え」という、矛盾があることは分かった上で、です。
となると、単に答えを持たないだけではあまり意味がないのです。
じゃあどうしたらいいか?
考える力がない僕たちなりに考えるきっかけを持つこと。
そこで僕は「問いかけ」の力を借りることとしました。
別な表現をすれば、「禅問答」に着想を得たわけです。
「禅問答」というのは、「答えのない問いかけ」として、古くから口伝(言い伝え)てきたもの。
ここに僕たちがこれからの時代を生きるヒントがある、そう僕は思ったわけです。
問いかけていくと、やはりどうしても自分の矛盾、自分の中から出てくる言葉の両極なものが見えていきます。
これを、どれが良いどれが悪いと、答え合わせするわけでもなく、ただただあるがままとする。
雑に言えば、自分の中にあるものを「放っておく」。
何も変えない。
何も正さない。
何もしない。
ただただ、自然を観察するように、自分の言葉を観察するだけ。
ここで僕は自分の言葉を観察する、と書いてますが、僕たちは言葉にしないと何もわからない生き物であるからです。
江戸、明治の人たちは、機械はなかったけど、自分の言葉で話すことが今の僕たちよりも圧倒的に多かった。
今の僕たちは、機械でさまざまな情報は手に入るけど、自分の言葉で話すことが激減した。
もちろんそれは考えないから。
自分のことを話してるようで話してないことがほとんど。
それは僕も同じ。
だからこそ、自分に絶え間なく問いかけていこうと僕は思った。
そして、「自分」という「答え」を生きても仕方ないな、と。
答えを持つと人は答えに執着する。
執着は消えて無くならない。
中でも、自分という答えは「エゴ」となる。
これももちろん在り続ける。
だから、執着もエゴもあるとした上で、じゃあどう生きるか?っていったら。
「自分のことはどうでもいい・・・」
そう僕は思ったわけ。
だって、考える力のない他人と生きていくためには、自分が自分がってエゴ入らなくない?ってこと。
もちろんこれは僕の意見だけど。
ただ、これからの時代、個性や多様性、自分らしさの人たちが増えていくのだとしたら・・・
もっと言えば、
他人と生きていくってことはどういうことか?
考える力を失った日本人たちとどう生きるか?
ここなんだと思う。
ここを無視して生きても良いし、
真正面に向き合っても、
どっちでも良いと僕は思う。
ただ、僕が思うのは、
もう答え合わせは終わりで良くない?ってこと。
違いを認め合うために、
答えがあるにせよ、
一人一人の答えを尊重し合うために、
じゃあ、どうする?
ここが大事なんじゃないかな?って思うわけ。
他人の生き方に口出しするのが簡単な時代。
SNSで自分の答えを他人に押し付けるのなんていくらでもできる。
その数が集まれば、その力も大きくなりやすい時代。
でも、個人の生き方なんて人それぞれでいいはず。
その違いを認めることができず、
答え合わせの中で生きるのか?
違いを考えて認め合っていくのか?
あなたはどう生きますか?
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