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「第63回 北上・みちのく芸能まつり」(その1) |2024.08.03 さくらホール【源流の足跡 郷土芸能の探求〜みちのくの民俗芸能が集う 舞・踊の源流を訪ねて】


源流の足跡 郷土芸能の探求〜みちのく民俗芸能が集う 舞・踊の源流を訪ねて

去年初めて岩手県北上市の北上みちのく芸能まつりを見に行き、すっかり北上の郷土芸能の熱に当てられてしまい今年もまた行ってきました。

今年はさくらホールの有料公演を2日分チケットを購入して、しっかり堪能させてもらいました。

まずは会場に入りいつものように自分用、共有用に撮影をしようと一般撮影ブースに行くと垂れ下がっているお知らせが目に入る。

おお、配信禁止。そりゃ有料公演だし、そうだよね。とりあえず自分用に撮って、noteは静止画で貼って書こうと切り替えて鑑賞。しかし今さっきなんとなくYouTube検索してみたら、公式の方(?)の映像が公開されていましたので、そちらを入れ込ませていただきます(アングルも良いし嬉しい!)
なので、是非動画も見てほしいです。

3日のさくらホールでの公演、もはやこれだけでも8分目までパンパンにお腹を満たされた感じでした。

当日会場で配られているリーフレットの中身も余白ギリギリにパンパンに詰め込んでいる情報量から主催側の熱量も感じさせられます(笑)
この記事でも各団体毎にリーフレットを引用も書いていますので、是非読んでみてほしいです。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレット01
源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレット02
源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレット03
源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレット04

民俗芸能の源流を訪ねて

日本大百科事典によると民俗芸能は

「各民族それぞれの地域生活のなかで、住民自らが育て、伝承してきた演劇、舞踊、音楽、およびそれらの要素を備えた儀礼や行事等をいう。(中略)郷土(芸能)の名がとかくその芸能の特性を一小地域内のものと認識させる懸念があるためであり、しかし実際には、この種の芸能には、地域性以前に、民族が普遍してもつ基層的な民俗文化の忠実な伝承がみられるため 、これらの芸能を広く民族全体にわたって考察することで民族の芸能の基層を明らかにし、さらに特定階層者によって芸術化せられた芸能と比較することで民族の芸能の発展・変容の経過を明らかにすることができる、との認識から(民俗芸能)である。後略。」

と三隅治雄は述べ、更に国史大辞典で

「地域社会の中で、住民の信仰や風俗・習慣と結び付きながら伝承してきた郷土色ゆたかな芸能。(中略)祭や宴遊・講などを主な伝承の場とし、特に農耕の祭に呪術的機能を買われて演じられ、また芸能をもって成人教育とするなど人生通過儀 礼にかかわるものも多い。種類には神楽系・田楽系・風流系・舞楽系・延年系・舞台芸能系・言い立て芸系・人形芸系などさまざまある。」

と記されています。ではなぜ人類に芸能が必要とされてきたのだろうか。
精神分析学者岸田秀の「人間は本能の壊れた動物だ」を受けて宗教学者の釈徹宗は、「人間は他の動物に比べて過剰な精神のエネ ルギーを抱えている」とし「他の動物は必要以上のムダな活動をしない」しかし人間の「この過剰なエネルギーの領域は、人間の喜びの源泉であり、苦悩の源泉でもある」として「瞑想や修行は」「過剰な領域が暴走しないようにコントロールする」と言う。

そして「ここから宗教・アート・芸能・科学などが発生した」と導き出しています。人類がコミュニティを形成した時点で通過儀礼を必要とし宗教性を伴い、 シャーマンなど現われたと考えられます。釈氏は「古代社会は、宗教と政治、科学、アートや芸能などは、重複しており宗教者は時に為政者であり、アーティストであり、芸能民だったのだ」とし「宗教者とアーティストは目に見えないものを表現し」「相手の枠組みを揺さぶる 姿勢が通底している(要約)」と関係性を説いています。

現在の民俗芸能の歴史をたどってゆくと稲作儀礼や渡来芸能・宮廷芸能へとたどり着き、平安・鎌倉時代から浄土信仰が庶民へ浸透して行く背景の中に庶民が自ら円寺楽しむ姿が見えてきます。
(文責 阿部)

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

岩手の北上だけの芸能ではなく、遠野や宮古、岩泉、そして福島の双葉、秋田の藤里、芸能が繋いだ縁の函館までの芸能を一つの会場で見ることができるという凄い企画。

文化と芸能の根源から感じていこうというところから始まる気持ちが伝わってきます。僕自身も芸術、音楽についても同じ様に思い感じ考えることも本当に多くあり、今こうして民俗芸能と縁を持って触れ合っていることにも深い共通性を感じて点を線にしようとしている作業をしている途中なんだなということを改めて感じさせられるような内容でもありました。

全体を見てとてもわかり易い素敵な内容でしたし、それぞれの芸能を祭礼などの地元の行事でやっているところを見に行きたいと思いました。

またこれまで見たり関わり合った郷土芸能の点と点が線で繋がり始めるような感覚にもなりました。

それでは、各団体毎に記録動画と一緒に書いていこうと思います。


藤琴豊作踊り(秋田県藤里町):駒踊り

志茂若藤琴豊作踊り(秋田県山本郡藤里町)

藤琴豊年踊りは、志茂若組と上組の2団体があり、地元浅間神社の秋祭り(9月7日宵宮8日本祭り)に奉納します。秋田県の北部地域に駒踊りを伴う民俗芸能が各地で伝承されています。

琴藤豊作踊りの祭礼などにおける構成をみると全体が「大名行列」の形になっており、先祓い、鳩麿、弓鉄砲、万作旗、槍、獅子、駒馬印、鋏箱嚥方(笛太鼓)と行列を組んで練り歩きます。

藤琴は、駒踊がハイライトの芸能ですが、獅子舞棒使い、奴踊、万歳など多彩な芸能を盛り込んだ 複合的な芸能です。獅子舞は、いわゆる三匹獅子舞ですが太鼓は抱えず幕を両手で握って激しく舞う女獅子隠しの踊りです。
棒使いは、全国的にも棒踊としてありますが、岩手県北の剣舞にもある踊り とも似ています。

奴子踊は、江戸時代に流行った武士の中間である奴の粋な踊で、それを集団で手踊 逮 りとして踊ります。万歳は、秋田万歳を余興として軽快なやり取りで観客を楽しませます。

藤琴豊作踊は、多彩な芸能を組み合わせた総合的な民俗芸能で旧暦8月の八朔に豊作を願った秋祭りに行わ れてきた祭礼行事でもあります。秋田県北の他市町村では、お盆行事として行われている所もあり、それぞれの地域性を含みながら伝播してきたと考えられます。この民俗芸能の特徴は、勇壮な駒踊で 青森県三八地方の野馬狩りをイメージした踊りとは異なり、戦闘の様子を表しています。

駒踊は、鹿角の米代川から下流域に点在しており、江戸時代に拡散したものとみられます。藤琴豊作踊りの由来には、佐竹氏が秋田にお国替えになった事と関連付ける由来もあります。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

秋田の藤里町の民俗芸能で、甲冑を着けての踊りは初めて見ました。
演目の「駒踊り」は琴藤豊作踊りのハイライトになる演目だそうで、全体的には大名行列のように様々な役割、芸体が行列で練り歩く芸能だそう。

甲冑は10kgもあるそうで、その上で激しく、肩の大袖を顔に打ち付けるように踊るのは凄かったです。遠くからカメラ越しに見て頬骨のあたりが赤くなっているので、本当に激しく打ち付けているのが分かります。

お囃子の太鼓もかなり大き目の桶太鼓をほぼ床(地面)と近い位置で横台に乗せて、長いバチで打っていました。

この日見た駒踊りの中での演目は

・馬方節、ばっちぐり
駒踊りの始まりを表す歌「馬方節」。両軍が出陣をして形をつくる「ばっちぐり」

・三番叟
踊りの場所を清める演目

・岡崎
出陣の前に息をあげている場面

・乗り戻し
両軍ともに必勝のいきで闘う場面

・膝折
敵味方ともに非常に苦戦をして馬が膝間つきながらも闘っている場面

・大乗り違い
両軍、勝負を決する大奮戦をしている場面

・かた乗り
大奮戦の後、勝負が決まらず引き上げる場面

演目が移る度に解説を入れてくれるのでとても解りやすかったです。お囃子も場面の緩急を表している感じで勇壮かつ繊細でとても耳心地が良かったです。このステージでは太鼓2、笛6の編成。

個人的な感想ですが、この太鼓の調子と笛の合わせた感じ(リズムと旋律の長さや繰り返しなど)の雰囲気が、数年前に北秋田市の綴子神社の例大祭で見た綴子大太鼓と奉納芸能の行列の練り歩きとどことなく、共通している何か感じました。

(綴子大太鼓については、近日記事を書きます)
↓綴子神社例大祭宵祭り(2022年)動画

藤里町と北秋田市綴子の位置関係を調べてみたら30kg圏内で割とご近所でした。もしかしたら、色々と交流や影響があったのかなと想像してみるとなんだか益々興味も出てきます。

余談ですが、この日のさくらホールでの公演が終了した後に宿に行くと志茂若組の方々も同じ宿だったみたいで、思わず声をかけました。頬骨、やっぱり凄く赤くなっていました。この後もおまつり広場での演舞があるそうで、応援させてもらいました。

黒森神楽(宮古市):シットギ獅子

黒森神楽(岩手県宮古市)

黒森神楽は、黒森大権現信仰に依拠して、江戸時代初期より上閉伊下閉伊の村々を神楽巡行してきました。 昔は、11月から4月頃まで北廻りは宮古から普代まで南廻りは宮古から釡石付近まで隔年で繰り返し、昼は集落で門打ちをして夜は宿で夜神楽を行い、娯楽の少なかった時代庶民の楽しみでもありました。

黒森神楽は、三閉伊の神楽上手が各地から選抜された10数人で構成されており、昔は胴取りが選抜して いたようです。現在は、岩泉町、宮古市(田老・新里)大槌町から神楽衆が集まって活動しています。

江戸時代は、修験の霞を超えて神楽巡行は認められず、たびたび各地の修験から盛岡藩に訴えが起こされました。しかし過去の盛岡藩の判例を基に訴えは退けられて広範囲な巡行は明治まで続けられ、今日に引き継がれています。

明治に霞がなくなり、三陸沿岸漁民の信仰を集めていた鵜烏神社の権現様を携えた鵜烏神楽が、巡行を開始し三閉伊沿岸住民の信仰と娯楽は豊かに展開してきました。

黒森神楽には多彩な儀礼があります。巡行では神社出立に権現様の舞立を行い、先達の墓で神楽念仏をあげ、集落に着くと産土の神を下ろし、家に入る前に権現様の舞い込みを行います。家に入ると床の間などに鎮座させ、権現様にシトギ団子を咬ませ拝礼します。食事では御祝いで祝福し家の繁栄を祈願します。朝旅立つときは、その家の蔵や馬屋など褒め、部屋で神楽念仏を行い、舞立では台所で火伏をして、家人の見固めをして出立します。この様に礼を尽くしながら庶民の思いを受け止めてきました。

黒森神楽の舞や雛子も沿岸の人々の気質を捕らえた軽快で勇壮な威厳ある様相を呈しながらも、娯楽性に富んだ狂言や仕組み舞で引 き付けています。

シットギ舞い込みは、宿に権現様が入る高度な儀礼舞です。神楽衆が刀と杵をもって舞い、臼で米をついてシトギ団子を作り、その残り汁を参集者にオマブリ(お守り)として付けます。その後、雄雌の権現様を舞わし火伏をして家に入ります。

大蛇退治は、スサノウノ命が大蛇退治をして八重垣姫を妻にして出雲を治めると言う舞です。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

今年の3月に岩手県宮古市の郷土芸能際で「田代大念仏剣舞」を見て、黒森神楽に影響を受けているということを聞いてとても気になっていた芸能で、見られるのがとても嬉しい。

宮古で田代大念仏剣舞を見た時は、七頭舞みたい!って思ったのですが、七頭舞は黒森神楽がルーツという(下記の中野七頭舞の解説文章にて)こともあって、さらに興味深いです。影響を受けているそれぞれの芸能が現代に続いて活動をしているのがなんとも尊いし面白い。

お囃子の編成、楽器も七頭舞や田代大念仏剣舞と似た感じ。そしてシットギ獅子のお囃子が始まると、笛の調など違いはもちろんあるけれど確実にルーツが同じだなと感じました。雄勝の大須と立浜の祭囃子の違いのような感じ(ちょっとニッチ過ぎる表現かな。。。)

まだまだ細かく違いが解るほと見たり聴き込んでいないので、またこれからも機会があったらじっくり見にいこう。

内容的にはシットギ獅子は獅子(権現様)の演目なので、七頭舞や田代の念仏剣舞とは違うのですが、雰囲気の似ている囃子の中だとより強い繋がりを感じました。本当、音って空間に強く作用したり、空間を作り上げたりする上に時空を繋げると改めて思いまします。

刀、杵で団子を作る舞をして、獅子様にその団子咬ませる。団子を作る時の残り汁をお守りとして道化役が参集者に色々とに参集者につけるというのも独特で面白かった。

中野七頭舞(岩泉町)

中野七頭舞(岩手県岩泉町)

中野七頭舞は、岩泉町沿岸小本地区の中野集落白山神社の祭礼の先払いとして奉納する民俗芸能です。江戸天保年間生まれの黒森神楽の胴取りだったと言われる工藤喜太郎(大正7年没)が、黒森神楽の舞い込み儀礼や御堂入儀礼の舞から考案した七頭舞(ナナズモー)が元祖です。

19歳まで一緒だった孫が書いた由来によると周辺に多くの弟子を持ち、神楽巡行を久慈から大槌まで行っていたと言います。 その弟子たちが自分の地域で七つ物を集落の祭りで行っていたが、それぞれに特徴ある踊りになったと 言います。

日中戦争が始まって七頭舞は中断したが戦後昭和23年に青年会が復活させ白山神社の祭礼や小本の八幡神社祭礼で奉納していた。

昭和51年に白山神社の神輿が再興され60年ぶりに中野集落を神幸する機運で保存会が作られ活動を再開した。この様子を観たのが小本小学校に赴任したばかりの北上市出身の千田任男先生でした。千田先生が生徒に踊らせたいと保存会長に頼み実現し、生徒たちの溌渕とした踊りに小本の住民は驚くと同時に中野七頭舞のすばらしさを再認識しました。千田先生の計らいで北上みちのく芸能まつりに出演し好評を博し保存会員も自分たちの踊りに誇りと自信をつけました。この踊を観た東京民舞研の会員たちが、小本を訪れるようになり、踊りを習い全国に広まって行きました。

七頭舞を小本小学校で身に着けた子供たちは、中学校でも踊り、高校生になっても踊り続け、やがて保存会員として活躍し、現在につながっています。

以前は、神楽衆が笛を担当していた時期がありました。岸神楽のメンバーや黒森神楽のメンバーが笛を吹き応援していました。白山神社の 祭礼には、黒森神楽のメンバーが神子舞を担当していました。そのようなことから黒森神楽との交流も行われ民舞研の七頭舞講習会の時 に参加者に神楽が披露されたこともありました。

岩手県北地方には、各地に七つ物と言われる刀や杵で踊り神輿の露払いをする民俗芸能があります。「七」は天地開關にかかわる最初に誕生した「七神七代」で天照大神を生む伊弊諾・伊弊再の夫婦神までの神々と神話で記されています。その七神には、七頭舞の踊り手が示すような役割がそれぞれにあります。工藤喜太郎は記紀神話に基づいて神輿を先導する芸能として再興したのだろうと考えられます。

小本で稲作が始まったのは、1950年頃からで、沿岸漁業と林業を主体とした集落でした。ヤマセの常雲地帯で山野を切り開き畑作で 糧を得てきた長い歴史を踏まえて神楽太夫が地域に活力を与えようとして再興した民俗芸能です。 現在踊られている中野七頭舞も以前は、今のようにそろった芸態ではなく個々に違いが多く観られたようです。それを元会長の山本恒喜さ んが、目に留めた一人の踊り手・末子吉爺の所作を踏襄して再構成した踊りで現代的創作芸能では決してないと言います。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

中野七頭舞を見るのは、2013年に宮城県の栗原万葉祭で共演(伊達の黒船太鼓として)させてもらった時に一度だけ見たことがありましたが、出番の準備などバタバタしていてじっくり見れず、今回じっくり見れるのがとても楽しみでした。

2013年のくりはら万葉祭のプログラム

(そういえば2013年の万葉祭の開会の儀で今では一緒に雄勝味噌作の獅子舞でもお馴染みの山下進さんも龍笛演奏して参加していたのも思いました。ご縁だなぁ)

黒森神楽のシットギ獅子のすぐ後に七頭舞。やはりお囃子で空間が繋がっている感じに一気になりました。あまり黒森神楽や七頭舞に浅い僕にとっては演目の別場面なのかなと思うほどでした。
お囃子や舞手の人数は多く、舞手の役柄も多様(7つ)ありとても賑やかで、かつとても縁起の良い感じという印象でした。

7つの道具は「先打ち」「谷地払い」「薙刀」「太刀」「杵」「小鳥」「ササラスリ」で、各2名ずつで14名での踊りはとても見応えがありました。

演舞が終わってから黒森神楽の代表、中野七頭舞の代表の方々のトークもあり関係性をより人目線で感じ取れてとても興味深かったです。

黒森神楽(宮古市):大蛇退治

再び黒森神楽の演目になりました。大蛇退治(おろちたいじ)という演目で、素戔嗚尊が大蛇を退治して櫛名田比売を助けて妻にする物語。(今イベントのリーフレットには八重垣姫って書いてあるけれど、、、どっちなんだろ?)
雄勝法印神楽でいうと叢雲。

お囃子はシットギ獅子では立って演奏していたけれど、これでは座って演奏。シットギ獅子は家の外、この演目は屋内でやる演目、ということなのかな?

セリフがとても聞き取りやすくて何を言っているのか理解できるので展開がよくよく付いていけます。

戦いも、道化(笑える演出)もあって本当盛りだくさんでした。

行山流湧水鹿踊(遠野市):友恋雌鹿狂

行山流湧水鹿踊(遠野市宮守)

行山流湧水鹿踊は、遠野市達曽部地区(稲荷穴付近)で江戸末期から伝承されている太鼓踊系鹿踊です。湧水集落では、この他メンバーを重複して湧水神楽も伝承しており、集落の産土の祭礼に奉納しています。又鹿踊は、旧達曽部村の産土の八幡神社祭礼にも奉納しています。

岩手県には、2系統の鹿踊が全域にあります。一つは独り立ちの太鼓踊系と言われる太鼓を抱えて鹿だけが八人から九人で踊る仙台藩系の鹿踊で北上市・花巻市までの県南域にあります。
もう一つは、遠野や下閉伊・県北などで知られる幕踊系と言われる太鼓が別にあり、幕を振りながら、笛太鼓の嚥子で踊り、鹿以外の坊子や刀振りが付く系統です。

行山流は宮城県南三陸町の水戸辺と言う漁村で江戸元禄時代頃に発祥し、一関周辺に伝承され各地に広がりました。一方、行山流を追うように仙台の泉から金津流が起こり、江刺の石関に伝播しています。このような流れの中で江刺梁川にこの二つの流派とは幾分ことにする行山流久田鹿踊が伝承されています。その流れをくむのが行山流湧水鹿踊で由来では、江戸幕末慶應年間 に地元の人が自宅にあった鹿踊の装束で友人を誘って始めたと言われます。

元々南部領で幕踊系統の地域で、久田から何時伝承されたかは定かでありませんが、江戸後期には旧盛岡藩領内の和賀郡に太鼓踊系が広く浸透していることからもありうると考えられます。伝承元である久田鹿踊は、江戸初期慶長年間に始まった仙台の八幡堂鹿踊から教えられ、享保年間に仙台藩主から「大旅」(たいはい)と言う旗印 を拝領し、供養碑も建てられています。

八幡堂系鹿踊は、大崎八幡宮別当寺龍宝寺子院東光院に統制されてきた鹿踊で、剣舞が共に伝承されています。現在、川前、福岡、上谷刈で行われており、仙台城下廃絶を含めると11か所で踊られていました。 湧水鹿踊の装束や踊り構成は、八幡堂鹿踊と同じで、鹿をあやす坊子と言われる踊り手は、両手に血の羽で出来た払子と唐団扇をもって踊り、鹿は太鼓を高めに腹に抱え、羽の短めのササラを腰に差して、背中に南無阿弥陀仏と書かれた流しを背負います。詞章などは、行山流舞川鹿子踊とほぼ同じですが、演目名が違う事や坊子が鹿をあやす所作が入ります。

何故、久田鹿踊が八幡堂系仙台鹿踊であるのに行山流と名乗っているかは判然としていませんが、伝承集落は盛岡領との境であり、早くから警護に携わる用人が住み着いたことも考えられます。

湧水鹿踊は、150周年を2016年に迎え相伝式を行っています。祭壇を組み、大旅(たいはい)を飾って踊り伝授書が久田鹿踊から渡されました。演目は礼庭追い集め、三人狂い、友恋牝鹿狂、案山子踊り、鉄砲踊りがあり、今回は友恋牝鹿狂を踊ってくれます。雌を取り合う雄の争いです。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

遠野の鹿踊、湧水(わくみず)鹿踊。昨年のみちのく芸能まつり諏訪神社公演で見て以来1年ぶりでした。

去年の諏訪神社公演での湧水鹿踊

昨年見た時は、行山流だけど囃子に笛がある!とか、ササラが羽だ!とかそういうところでとても驚いていました。今回久しぶりに見た時、ふと笛の音の流れ?調べの雰囲気が、去年の秋や今年の2月に見た仙台の川前鹿踊、それと荒浜磯獅子踊再生活動でお世話になっている名取市の熊野堂十二神鹿踊の何かと掠るような感覚がありました。

リーフレットによると、なかなか複雑な(?)感じもありますが。これもまた様々な形態の影響を受け合って醸成して研鑽されたものなんだなと感じました。仙台の鹿踊(と、剣舞)もちょっとずつ調べてみようと思いました。

行山流口内鹿踊(北上市):一番庭(礼庭)

行山流口内鹿踊(北上市)

行山流口内鹿踊は、北上川東岸の北上市口内町で伝承されています。口内町は、旧仙台領で久田鹿踊伝承地簗川野手崎と隣接しています。
口内鹿踊は、文化11年(1814)に江刺郡の上門岡、今の北上市稲瀬町上門岡の六郎治から伝えられたと供養碑にあります。上門岡に伝わった鹿踊は、仙台藩相去番所に赴任した仙台藩士犬飼清蔵が文化5年に伝えたとされています。

犬飼清蔵は、仙台泉の松森出身で金津流の創始者とされており、武芸者としても知られる人物です。金津流は、この他に稲瀬の石関に安永8年(1779)から享和元年(1801)にかけて伝授相伝されており、金津流2系統に伝えられたことになります。

相去の小野利源太 (犬飼清蔵との関係は不明)から稲瀬鶴羽衣に文化11年に金津流が伝わっているが、文化5年の供養碑も あり、踊り手の墓石には行山踊を鶴羽衣などの伝えたとあり、このころは多彩に展開された時期で各流派が入り乱れて伝承されて行った可能性もあります。

相去から上門岡に伝わった鹿踊は、文政2年(1819)に口内の柧木田や北上市立花にも伝わり、文政6年には二子町川端まで伝わっています。

仙台藩は、芸能の興行に関して制限を加えており鹿踊や剣舞は10人、田植踊は5人とし興行主に許可を与えていました。その意味で相伝にも厳しい掟があっただろうと考えられます。現在の口内鹿踊は、草刈場集落に伝承された踊組で地元の不動尊には、文化11年の三躍供養碑(鹿踊・剣舞・奴踊)が建立されています。

昭和28年6代目の時には奈良の春日大社に奉納しています。しかし昭和38年に中断、昭和51年に岩手県青年大会で最優秀賞獲得し、その秋に七代目を相伝し復活を果たし現在は8代目が活躍しています。

体験会を開いたりして知名度をあげながら踊り手の育成に努めて。女性も加わって活動しています。

演目は、礼庭、中庭、鉄砲踊、女獅子狂、案山子、岩崩、露ばみ、中山狂、舂駒狂、土佐、三光の舞などの他に各種の褒め唄があります。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

今回初めて見させてもらう行山流口内鹿踊。今年から口内鬼剣舞保存会の稽古へたまに顔を出させてもらい口内にも少しずつご縁ができ、鹿踊も見たいと芸能まつりへ来たので楽しみでした。(次の日の諏訪神社公演ももちろん行きます)

大きなササラをつけて踊る太鼓踊り系。ステージで見ているからなのか、太鼓の音が他の太鼓踊り系のよりも低くどっしりした感じの印象。

実はまだ金津流、行山流の違いはまだ一目見るだけでは分からず。。。そして、先程見た湧水鹿踊も行山流だけれど、ササラが鶏の羽だったり笛があったり(久田鹿踊←仙台八幡堂系鹿踊り)謎が深まるばかりです。

が、そういうことはとりあえず置いておいて、やはり格好良いし、たまに可愛い。

滑田系鬼剣舞共演(滑田鬼剣舞・谷地鬼剣舞・函館鬼剣舞)

滑田鬼剣舞(北上市)谷地鬼剣舞(北上市)函館鬼剣舞(北海道函館市)

滑田鬼剣舞は、1901年(明治34年)、岩崎鬼剣舞から相伝し、その後、1910年(明治43年)飯豊鬼剣舞に、1912年(大正元年)谷地鬼剣舞へ、そして1914年(大正3年)村崎野鬼剣舞に伝授したが中断、戦後昭和 31年には二子鬼剣舞に相伝しました。

2016年には、北海道函館の「北海道滑田鬼剣舞愛好会」が、北上市鬼剣舞連合会から函館鬼剣舞の名称を認められ、滑田系鬼剣舞の仲間入りをしました。今年2月には、函館鬼剣舞27周年を滑田・谷地両団体を招いて函館で盛大に記念公演を行いました。

滑田鬼剣舞のルーツは、和賀町岩崎で伝承されてきた岩崎鬼剣舞です。岩崎鬼剣舞には、江戸中期・享保17年(1 733)の「念佛劔舞伝全」と言う相伝本があり、岩崎の地で300年ほど前から念仏剣舞が踊られていたと推察されています。故門屋光昭氏の考えによると、享保16年には飢饅や盛岡藩の悪政によって農民が疲弊し一摸が頻発し、ここ和賀でも指導たちが重刑に処せられていたような時代であったことを踏まえると、血判迄で押して念仏剣舞を相伝した農民たちの切実な思いが伝わってくると述べています。

民俗芸術研究所の茶谷十六氏の一揆の調査によると一揆の後数年後に念仏剣舞など民俗芸能が行われる地域があると言います。茶谷氏の考えでは、一揆後は監視の目が厳しく指導者たちの弔いも公に出来ないが、ほとぼりが冷めた辺りに供養される傾向があると言います。命を覚悟で村人を救った指導者を村人たちは感謝と尊敬を込めて祈り続けてきたのでしょう。空也上人や一遍上人が普及した踊念仏は、浄土信仰によって死後極楽往生できることを願って踊ってきましたが、民衆の間に普及すことで現世に生きる人々の暮らしに安寧と楽しさを通じて共同意識につながる芸能へと進化していったと考えられます。

では岩崎剣舞は何処から来たのでしょうか。由来書には、羽黒山の鬼渡大明神に出現した客僧が善行院に七ケ条目録(剣舞目録)を伝授しとされています。しかし羽黒山には鬼渡大明神は無く剣舞由来も伝わ っていない事と合わせて、現在の一関市花泉湯島の美渡神社(明治に鬼渡大明神から改名)に伝わる上油田大念仏剣舞由来起(慶安元年・天保四年写し)には、この鬼渡大明神で客僧が出現し大念仏剣舞を得たとされ、裏表紙に寛保元年(1741)に総勢数十人で踊ったと記されている。

民俗芸能研究者の故小形信夫氏の考察によれば、大念仏踊は、室町時代から江戸初期にかけて現在の岩手県南から盛岡周辺まで広がりを見せているが、羽黒修験が深く関与して行くにつれ、現世利益を主眼とした民俗芸能への変 容が起こり、上油田のような大念仏剣舞へと発展したとされます。更にさらに上油田から伝播北上するにつれ、大念仏がなくなり阿修羅踊系念仏剣舞と変容したと思われ、同じような由来が付加され胆沢の南下幅念仏剣舞や岩崎剣舞へと繋がったのではないかと推察されています。

岩崎に置いて旧来の七ケ条目録による念仏剣舞が何時の頃まで踊られていたかは定かではありませんが 、幕末に衰退していたと考えられ、明治初年に南下幅に赴き踊りや回向を習得し再興し、鬼剣舞へと発展を遂げていることを考えると明治と言う神仏習合の修験道が廃止され民俗芸能を取り巻く環境が大きく変 わっていった時期と重なることも大きな要因であったと推察されます。

小形氏は

「鬼剣舞の近代的変化は、複雑多様化したと見えるが七ケ条目録を受け継いだもので、構成を組み替えたり、新たな名称をつけたりしたことがわかる(要約)」

として阿修羅踊系念仏剣舞の一系譜の説明 を閉じています。

(2002年念仏剣舞~発生・伝播・変容と資料東日本ハウス文化振興事業団発行より)

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

鬼剣舞には「岩崎系」と「滑田系」の二人の流れがあるそうで、その滑田系の3団体による共演。滑田系の演目「三人加護」を谷地鬼剣舞、「狐剣舞」を滑田鬼剣舞が舞い、最後は滑田系も岩崎系にもある演目「三番庭」を谷地、滑田と函館鬼剣舞が合同で踊るという流れでした。

どれもとても格好良い。お囃子が三人加護も狐剣舞も途中で調が変わる(よく聞く鬼剣舞の調子から神楽っぽい雰囲気に変わる)のが印象的でした。

また、函館(北海道)にもしっかりと滑田系の保存会がありこうやって地元で共演をするということも、これまでしっかり育んできているご縁、凄いし色々と見習いたいとも思いました。

次の日の鬼剣舞全演目公演もとても楽しみです!

前沢の女宝財踊(福島県双葉町):映像紹介

出演予定だった福島県双葉町の「前沢の女宝財踊」は何か訳があり出演キャンセルになったそうでした。(流行り病でしょうか・・・)
見られなかったのは残念でしたが、動画での紹介がありました。次の機会があったら是非生のお祭りなどで見てみたいです。上の映像が多分今回の紹介でも使用されているものだと推測します。他の映像など探してみると、篠笛の演奏が甲音でされているのもあり(上の動画は呂音)オクターブ違うだけで雰囲気が全く違うのが印象的でもありました。
祭礼やイベントの趣旨で変化するのか、それとも演者の自由なのか、色々気になってきました。(個人的に甲音での演奏と踊りの雰囲気が好みでした)

この踊りも2011年の震災後に一度これが最後と腹を決めて踊ったけれど思い留まって未来に残そうと奮闘している芸能だそうで、応援していきたい一つです。

前沢の女宝財踊(福島県双葉町)

前沢の女宝財踊は、ばくち打ち・僧侶・お子抱き・盲目の琵琶法師・旅芸人など登場して笛の音に合わせて拍子をとりながら歩きます。

これは南北朝時代に、北畠氏の家臣12人が旅芸人などに変装して南相馬市鹿島区の江垂に落ち延びた故事をのちに踊りにしたもので、踊りの終わりころには、ばくち打ちがをサイコロを振って博打に耽っていると盲目の琵琶法師がつまずいて博打場に転がってしまいます。怒った博打うちは 、暴行を働きますが、坊さんが助けると言う流れで踊りは進みます。

この踊は、元々南相馬鹿島の江垂にある日吉神社の12年に一度の浜降り神事に奉納されてきた民俗芸能でした。故事は、南北朝時代に南朝方北畠氏の霊山城落城の時、山王大権現のご神体を子どもに見立て 、旅芸人に扮して相馬江垂に逃れて日吉神社に納めたといいます。この浜降り神事では、神楽から余興芸迄各集落から集まり、海岸まで神輿のお供をして歩きました。お神輿は、芸能の奉納が終わらないと動き出せないと言う決まりごとがあり盛大 に執り行われてきました。

昭和2年にこの行事を観ていた農業高校の校長が、宝財踊に関心を寄せ、生徒に踊らせると人気を博し、卒業生たちが地元に戻って踊り始めたのが普及する要因でした。校長は踊らせるにあたって元々7人で踊っていたものを本物に配慮して12人にして踊らせたのが現在の宝財踊となりました。

前沢の女宝財踊はJR双葉駅の南西、原発の北西数キロの前田地区にある稲荷神社に奉納してきた風流芸です。事故後保存会員は、いわき市や県外に移住してしまいましたが、2012年にふるさとの祭り全国大会が郡山で開催された時に、これが最後と考え出演しました。しかしここでやめてしまうと長年培った絆が切れてしまうと継続を決めて現在に至っています。

源流の足跡〜郷土芸能の探求〜 リーフレットより引用

さくらホールでの「源流の足跡〜郷土芸能の探求〜」をしっかり堪能した後は一度宿にチェックインして荷物を置く。外がかなり暑かったので冷房をつけるとお尻から根が生えてきそうになるも、次なるお目当てのおまつり広場へ行くために気合いを入れ直し宿を出ました。

(つづく)


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