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自分だったら何を伝えたいんだろう 〜仙台げいのうの学校文化祭のトークなどを聞いて思ったこと

前回の記事のトークを聞いて

それぞれの立場で、民俗芸能の外から民俗芸能と接することについてを短い時間だったけれど、聞かせてもらいました。

そして、はたして自分ならどういうことを話すだろうかということも考えさせられました。いつも新人気分を大切にしているつもりですが、気がつけば和太鼓は13年、獅子舞は10年と、年齢的にも新人とは言えないようなところにも来ました。事務局をやっているので対外的なことは用意しているところもあるのですが、ホンネの部分というか。
対外的な部分は、誰しもが受け取りやすくを心がけて重くなりすぎないような言葉を選び伝える、所謂広報という感じです。団体や歴史について、そして地域についての概要。

そして、自分自身は「風土」という言葉を借りれば入口は「風」にあたる人で、今やらせてもらっている雄勝の獅子舞などは自分の本来の地元ではない別の地区のもの。やり始めの頃は身内からは言われないけれど、別の所では他所の人で地元でもないのにやっているよ、という言葉が聞こえてきたりもして、微妙な気持ちになったりもありました。(自分の地元でも無いのに色々やってくれてありがとうの意で悪気が無い場合が多い。)
単純にその通りなんだけれど、当時は疎外感というか絶対に埋められない距離を感じて胸がキュッとなる思いを何度も経験していました。が、そのうちちゃんとそれを受け入れて、というよりも自分が他所の人であることを全面に出し、でもここの芸能、それを通して地域が好きだし、もっと仲良くしたいし、歴史も含めてみんなを知りたいんですという気持ちを込めて関わるようにしたら、自分的にもとても心が楽になったなぁと今思い返すとそう思います。そして気がつけば他所とか身内とか気にしなくなっていました。

それよりもその「思い」と「継続」に本質へ触れる入口があるんじゃないかなと。もっと、生活や、それに対する祈りだったりと重要なことは沢山あるとは思いますますが、まずは個人として。

また、僕自身は十代から結構真面目に音楽を続けていたので、やはりお囃子など楽器を扱う方向から関わろうとしています。耳コピは慣れているので、普通に大丈夫なのですが、何かこう違和感というか、「クセ」があって、そのクセを表現できず頭を抱えた時もありました。
「楽器の技術とか、表現力とか、そういうのではなくて・・・」
と、言葉にできない感じでした。

何度も何度も繰り返して音を合わせて練習させてもらって、やがてそれは「クセ」ではなく「訛り」だという事に気づいてからは、とにかくその人達と音だけではなく、よく話をしたり何かをできるだけ一緒に作業することを意識したりもしました。何故ならは息を吸って吐くように太鼓を打つし、笛を吹くし、獅子を振るし、準備もする。全てもう書かれた歌のようにみんな自動的に全部つながって・・・という感じよりもっと有機的な歯車な感じに動いていてマッチしている感じで、ああ、これも生きている土地の表現なんだなぁと思った時に、自分もこの歯車の一つになっているかもと感じた時。

そのクセも、もしかしたらこの悩みそのものも受け継がれているもので、その線、列のようなものに自分も入れたのかなと思いもして。

あ。今これを書いていて、この時点で「あ、重いな」と思い、反省する(笑)

今回つらつらと書いたことをまとめると、民俗芸能は個人を越えて伝承されてきているものかつ少しずつ個人のエッセンスも加えられている繋がっている尊いものでもあると思います。先人たちが見てきたものや思ってきたものや願い、そこから見える暮らしなどを大切に僕個人として、民俗芸能に関わっていきたいなと改めて思ういました。

とりあえず、ちゃんと訛りの中で会話をできるようになって初めて入口に立てるみたいな感覚なので、しっかり入口に立ってその奥へ歩を進めて行きたいと思います。

芸能も音楽も、精進しよう。

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