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3.11を振り返る数ヶ月、吐き出してそしてまだ振り返る

胸の中の何かが変わり始めていた

東日本大震災から10年になる年。
先日の2月13日の大きな地震の揺れは、もちろん震災と比べると小さかったけれどこの時期に、そしてあの揺れ方は僕に震災当時をフラッシュバックさせるのに十分だった。もちろん忘れることは無い、それどころか今でも続いているという感覚、震災時に始めた行動が今の生活ベースになっている(郷土芸能など)ので、自分にとって震災は、今の生活と活動、そしてご縁の原点になっているものが多くあります。

去年から震災とは違う大変な世の中、やはり震災10年ということで報道陣や何か活動されている面々もざわめいていた。2021年に入ってから様々な媒体からの取材、飛び込みもあった。イベントをやりたいからと急に言われることもあった。
節目だから仕方がないのだろうと思いつつ、聞かたれたことに対してある程度まとまめて話をしようと思ったその時。

「・・・・・っ」

これまで10年、言葉に詰まることは殆ど無かったけれど、言葉に詰まった。
どうして詰まったかも分からず、胸にこみ上げてくるなんとも言えない感情と、口の中はツバが溜まり、目頭が熱くなり始めていた。

あ、僕はもしかして涙を堪えているのではないだろうか。と初めて自覚して、深呼吸でやり過ごした。

なんとなく、海を見に行く機会も増えた。

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雄勝町伊達の黒船太鼓保存会30周年動画の撮影で

今年で雄勝町伊達の黒船太鼓保存会が30周年。こういう世の中で無ければ雄勝で記念公演イベントをして、これまで本当にお世話になった方々や団体さんをご招待して共演など一昨年までは考えていたのですが、それも難しい状況。そんな中で以前からお世話になっている映像作家、プロデューサーの山田雅也さんと三塚比呂さんに相談して、映像制作を引き受けていただきました。

ここに来て、しっかり意味のある振り返られるもの、そしてこれからの未来を見ることができる動画を作ろうという素晴らしい提案をしていただき制作させてもらっています。

三部作でそれぞれテーマをつけたドキュメンタリーを予定していて今現在は第一弾【第一章 3.11と再起】(2021年3月末 配信開始予定)

打ち合わせを重ね、2月某日に第一章の撮影。震災後から定期練習場所として使わせていただいている石巻市内の施設、雄勝町の波板海岸での演奏シーンなど撮り、インタビューの撮影。会長や副会長たちの震災時の話を懐かしく聞いていて、いざ自分の番。
質問内容や流れはなんとなく分かっていて、少し足りない部分を補って・・・と少し考えながら臨む。

震災の後の黒船太鼓の行動の話をしている時にまた言葉が詰まってしまう。
実際は数秒だったと思うけれど黙ってしまった。

3月7日の宮城県太鼓連絡協議会での追悼演奏

3月7日(日)に石巻市日和山にある鹿島御児神社前で伊達の黒船太鼓でお世話になっている宮城県太鼓連絡協議会という県内太鼓団体で組織されている団体で追悼演奏がありました。

これまで何度か参加させてもらった追悼演奏。伊達の黒船太鼓からは僕を入れて4名で演奏に参加しました。
演奏前に黒船メンバーから、

「【追悼】っていう意味、なんとなくは知っているけれどちゃんと調べたこと無かったから、ネットで調べてみたら

”死者の生前を偲び、その死を悲しむこと。”

って、書いてあって。その言葉の意味を思いながら、震災で亡くなった人たちを考えたら涙が出てきてしまって。。」


「当たり前なことでしょ」

と思った瞬間、僕の胸にも深く刺さっていて目頭が熱くなりそうなところを、また静かに深呼吸して我慢した。そしてよく考えた。それは本当に当たり前のことだったのだろうか、と。僕は心の底からあの日亡くなった友人知人、親戚達そして知らない人たちを偲んで悲しむことが出来ていたのだろうか。

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10年目の3月11日の日、溶けた何か

石巻市内の様々なところで毎年、そして10年の節目だからの少し大きなイベントなどあったり。久しぶりに会う人達。それは、自分は毎日行動の中に祈りを込めているつもりで、いつも通りの3.11でした。

夜に文章を書くことがあって書いていた。
書いた単語が「震災、大津波、石巻、雄勝、壊滅的被害・・・」と書いていたら涙がポタポタと落ちて。

震災が起きて、テレビもラジオも現地で機能していなくて、とにかく今の現状をTwitterで知ってもらいたいとツイート。内容が分かりづらい!と知らない人に叱られたりしながら(その時も正直なんでこんな大変な時に叱られなきゃいけないんだ!って憤っていました)、伝えるということを初めて意識し始めた、震災。

電話が通じるようになって、関東、関西にいる遠くにいる知人達から連絡をもらうも、その半分くらいは

「自分も建物揺れて大変だったしお互い頑張ろう!」
「自分達は何ができる!?状況も教えて!」
「石巻の(または東北は)被害状況教えて!?」
「何人亡くなったの?」
「音楽で何ができる!?」
「汚いものを見ているだろうから、美しいものを見せたい」

本当に、答えにくいというか今でも一言で東北を教えてって言われても分からないし、僕の家は揺れどころか1階浸水して、1週間閉じ込められているのにお互い頑張ろうって何?とか、本当にそんなこと聞く!?とか、自分何を言っているのか分かっているの?!ということを言われることも少なくなく。

それでも、ここで感情的になることで状況が良くなることは無いし、落ち着いてもらうことと、ちゃんと知ってもらえることが何よりも大切かと思い。そして、とにかく悲しさや悔しさや怒りで動けなくなってしまうのは命取りで。絶望して自分がだめになると、他にも影響が出るような状況下、無意識のままに

(震災絡みの)感情に蓋をした。

もちろん僕はジャーナリストでは無いし、友人の芸術家からはアーティストであることを絶対に忘れてはいけないと。
僕自身もその当時音楽でどうのこうのっていう気持ちは全く分からないというか、あの状況の中にいて、楽器を持つことよりスコップを持つことが生きる為に絶対必要なことは生きることを諦めていない人であればそうだった。

震災の時通訳もしたし、アテンドも沢山したし、文章も沢山書いた。心に蓋をして。
もうそれが日常化して、普通で。

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って、思っていたら、そうじゃなかったことに、10年を経ってようやく気がついた。

本当怒っていたし、がっかりしたり、悲しかったり、悔しかったり。

(もちろんそれだけじゃなくて良いきっかけやご縁も沢山ありましたが)

ああ、そうだったんだな、僕。

って、思った2021年3月11日でした。

心より、震災や関連で亡くなった方々に心からご冥福をお祈りします。
そしてこれからの歩む未来に良き希望がありますように。

それでは、あの非日常から走り始めた日常に戻ります。

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