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アンドラ公国と北スペイン

(75番)  2013年   6月

アンドラ公国と北スペインへ行ってきました。
スペインからの独立問題に揺れる「バスク地方」と「サンティアゴ巡礼路」を含みます。

今回の参加者は男性6名、女性11名の計17名でした。

今回のルート

1日目 6月11日
✈ 11:55 発 成田: エール・フランス航空(A321)
  17:15 着 パリ(シャルル・ド・ゴール空港)

✈ 20:45 発 パリ
  22:25 着 バルセロナ
時差マイナス7時間

🛏 バルセロナ泊

2日目 6月12日
🚌 バルセロナ市内観光へ
→カタルーニャ美術館(モンジュイックの丘に建つ。1929年の万博の時の迎賓館を1934年に美術館として開館した。主に10~12世紀のロマネスク美術を見学)

カタルーニャ美術館のパンフレット

一路、ピレネー山麓の独立国家アンドラ公国へ。

{アンドラ公国の説明}
789年にイスラム教徒を追放して建国され、1278年からはフランス(大統領)とスペイン(ウルヘル司教区の司教)の二人によって統治されている。

アンドラ公国

国土: 468㎢(金沢市とほぼ同じ広さでフランスとスペインに挟まれている)
首都: アンドラ・ラ・ベリャ
人口: 約8万人
公用語:カタルーニャ語
宗教: カトリック
主産業:観光業、金融など

昼食:ガスパチョ、メルルーサのグリル野菜添え、デザート

→中央公園 →政庁舎 →ポブレ広場(アンドラの基準点で町の中心) →サンステファノ教会(17世紀の建築) →コム(教区主菅所) →カサ・デラ・バル(1585年建築。2011年まで国会や裁判所として使用)→ピレネー デパート

夕食:ビュッフェ

🛏 アンドラ・ラ・ベリャ 泊

3日目 6月13日
🚌 ピレネー山脈の古都セウ・デ・ウルヘルへ。

アンドラ公国を出発する際、他の人達は国境でパスポートに「記念スタンプ」を押して貰った。
私はこういった行為や文字を書き込む行為とかしてはいけないという事を知っていたので押して貰わなかった。
実は「出入国のスタンプ」がどこの国か不明なのがあって鉛筆でいつでも消せるように書いたつもりがポールペンで書いていたことが発覚!
パスポートを更新した際、始末書を欠かされた苦い経験があるから。
係の人から「これは何ですか」と聞かれ、「あ、はい、鉛筆なのですぐに消せます」と自信たっぷりに言ってゴシゴシしたら、消えない・・・😅
あの時の冷や汗は今でもよく覚えている。
添乗員さんがこういう事を知らないというのは問題だと思うが。

後記: 南極へ行った際もある島でパスポートに記念のスタンプを押して貰ったが、同じ事を伝えるとこの責任者の人も知らなかった。

セウ・デ・ウルヘル
ローマ時代から続く古い町で人口は約12,000人。

→サンタ・マリア大聖堂(11~12世紀にかけて建築。イタリアのロンバルディア様式【壁面に帯状になったアーチ列の装飾】の影響が残っている)→中庭回廊 →聖シケル教会 →教会博物館

昼食: ナスの肉詰め、ウズラの香草焼き、クリーム・ブリュレ、ワイン

四駆に乗り換えてアイギス・トルテス国立公園へ

アイギス・トルテス国立公園
標高1,900m、広さは15,000ヘクタールで氷河が形成した地形で湖や滝が多い。まだ雪が残っていたために四駆はラテラ湖の手前150mでストップし、湖まで雪道を歩いて行くことに。途中、雨が降り出して思わぬ歓迎に右往左往!)

ピレネーの主脈の北斜面に位置するアランの谷へ

今夜の宿泊はパラドール【歴史的に価値の高い建築物を改装した国営ホテル】でスペイン国内には約90ある。
ここはアランの谷の山腹にあり、景色もよく、部屋は古めかしいがそれがかえって良かった。
アメニティはハーブで作られた質のいい物が置いてあった。

夕食: かぼちゃのポタージュ、カジキマグロのグリル、チョコレートケーキのミントアイス添えなど

🛏 ビエリャのパラドール泊

4日目 6月14日
🚌 終日、美しきピレネーの小村を訪問

ボイの谷
11~12世紀に建築されたロマネスク様式の教会が9つあり、2000年に世界遺産に登録された。そのうちタウールにある二つのみを見学。

サン・クレメンテ教会
1123年の建築。鐘楼は正方形の6層になっていて目立つ。
「全能のキリスト」の壁画のコピーがあるが、現在修復中で中には入れなかった。

サンタ・マリア教会
こちらも1123年建築。
中に入ると「カタルーニャ博物館」で見た「栄光のマリア像」やタウールブルーと呼ばれるピレネーの鉱物で描かれたフレスコ画などがあったが、残念コピー。

サンタ・マリア教会

ボイ村の見学
12世紀以来の石造りの家と石の壁で囲まれた古い町並みが残る。
家の1階は家畜小屋や穀物倉庫になっていたりする。

昼食: 野菜サラダ、フィデウア(パスタのパエリア)、デザート(アイス、プリン又はスイカ)、ワイン

👟 ピレネー山麓ハイキング
モイヤレス渓谷の高山植物を見ながら片道2kmのミニハイキング
見つけた植物は水仙、忘れな草、黄ボタン、踊子草、7種のピレネー欄、バヒリアナ、バイオレットなどで、スペイン語の他の植物もたくさんあった。
2週間前に出発したグループは雪が残っていたために、ハイキングができなかったそうで我々はラッキーだった。

ビエリャの町の散策
この町はアランの谷にあり、交通の要衝となっている。

ずっと教会ばかり見ているので、ロマネスク様式などに詳しくなりそうだ。
切り立った山々は新緑が美しく、家並みもとても素敵でバスの車窓から見ているだけでも、ちっとも飽きない。

パラドールにて夕食: タラと野菜の前菜、イベリコ豚のソテーとナス添え、カタルーニャのクリームデザート

🛏 ビエリャのパラドールで連泊

5日目 6月15日
🚌 スペイン最古のロマネスク様式の「大聖堂」があるハカへ

ハカ
サンティアゴ巡礼路、フランス側からピレネー山脈のソンポール峠を越えてスペインにやって来た巡礼者たちが最初に目にする町。11世紀にはアラゴン王国の最初の都として栄えた。

大聖堂
当初はロマネスク様式で建築されたが、現在はゴシック様式となっている。一部にはロマネスク様式も残っている。正面入り口のタンパンには「クリスム」と呼ばれる象徴が彫られており、南口の柱頭には「従者を連れて竪琴をひくダビデ王」や「イサクの犠牲」が彫られている。
丁度、結婚式が行われていた。🎊

ハビエル(フランシスコ・ザビエルの故郷)
ハビエル城(現在は博物館となっている)

ザビエル城

フランシスコ・ザビエルは1506年4月7日にこの城でナバーラ王国の国王諮問長官兼財務長官であるドン・ファン・デ・ハッソの5番目の子として生まれた。
この頃、ナバーラ王国はアラゴン王国に併合され、彼の家はナバーラ王国再建を願うも敗れて亡命。父親も亡くなってしまう。
結果、ザビエルは聖職者として生きる道を選び、パリに留学をした。
そこで、イグナティウス・デ・ロヨラと出会い、1534年7人の同志でモンマルトルの誓願をたて、1540年にイエズス会が発足。
1548年にインドのゴアで宣教監督になった後、1549年に来日して日本語を学び、布教活動を行い多くの人にキリスト教を伝えた。
1552年3月19日中国の上川島で病死。

フランシスコ・ザビエル

尚、スペイン語 [Javier] 発音「ハビエル」
  バスク語  [Xavier] 発音「ザビエル」
当時は親の名字を名乗るのは長男か長女だけだったので、ローマ教皇に叙階の依頼をする際、「ザビエル村のフランシスコです」と名乗った為に、彼のフルネームとなったとか。
そう、彼はバスク人。
バスク語は膠着語という日本語に近いアジア系の言語でザビエルがマラッカで日本人のアンジロウ(ヤジロウ)と出会ったのも不思議な縁かも・・・

小さなお土産物屋さんがあって、ザビエル チョコレート【普通の板チョコ】が売られていた。日本人に大人気で私も買って食べてみたが美味しかった。

後記:インドのゴアへ行った時にザビエルの遺体が安置されている教会へ行ったことがあります。
1554年に一般に公開された時、ある女性が近づいてきて右足の指を2本噛みちぎったとか、はたまた、
ローマのイエズス会総長の命令で腕が切り取られた時、死後50年以上も経っているにも拘らず鮮血がほとばしったとか・・・など、ビックリするような話を初めて聞きました。😖
しかし、どうして切り取ったのかな?

モザンビークへ行った時に「ザビエル」の話が出た時は聞き間違えたかと思いました。こんな所で、ザビエルの名前を聞くなんて、本当にびっくりしました。
ザビエル一行は大西洋から喜望峰を回るルートでインドのゴアへ行く前にモザンビークに立ち寄ったのだそうです。

バスク地方と言えば、時々「石担ぎ」のニュース映像が入ってきて、屈強な男たちがいるというイメージを持っていましたが、皆普通でした。当たり前ですね。

その後、パンプローナ

夕食: ローストビーフのメダリオンソースがけでキノコとグリーンピース添え、フルーツヨーグルト、ナバーラ産ワイン

🛏 パンプローナ泊

6日目 6月16日
🚌 午前中はパンプローナ市内観光

パンプローナ市内

市庁舎広場(18世紀中ごろに造られたゴシック様式と新古典式様式が融合した市庁舎の正面装飾が素晴らしい。本日はバスクの伝統衣装と楽器を演奏した楽団が見られた)→聖サルトゥニ教会 →牛追いの道を歩く →パンプローナ大聖堂(大きな鐘が二つあり、中もステンドグラスが綺麗) 
→旧市街と城壁 →闘牛場(サンフェルミン祭りのエンシエロ【牛追い】でのゴール地点となる)→
ヘミングウェイの碑(闘牛場入口に立っている。高さは2mほど。彼が書いた【日はまた昇る】でアメリカの青年が友人とスペインを旅する話で7日間にわたる牛追いの話がでてくる)

👟 巡礼路歩き ①サンタマリア・デ・エウナテ教会 ~ プエンテ・デ・ラ・レイナ
Camin de Santiago!(良い巡礼路を!)

ここで、添乗員さんが各人にホタテガイの貝ガラを用意してくれた。巡礼者達は皆これをつけて歩いている。昔、お皿代わりに食べ物を恵んでもらった事が原点となっているとか。

サンタマリア・デ・エウナテ教会(巡礼の道しるべとして機能していた他に巡礼の途中で亡くなった人の埋葬場所として使われていた)→オバノスにあるヨハネ教会 →プエンテ・デ・ラ・レイナ(アラゴンの道とフランス人の道が合流する町。ドイツ人の巡礼者が持ってきた聖母子像のある磔刑(たっけい)教会とサンチャゴ教会を見学。ここまで約5kmで1時間半)

レストランにて昼食: ニンニクスープ、野菜サラダ、名物ナバーラ風マス料理、チキン、フルーツ、アイスクリーム、ワイン

王妃の橋(11世紀の中ごろこの地を統治していたナバーラ王国の王妃が巡礼者の為に私財をなげうって架けた橋

王妃の橋

オンダリビアの散策
15世紀の城壁に囲まれた町。
聖マリア門 →サンタ・マリア教会 →カルロス5世城(現在はパラドール)→アルマス広場

サン・セバスチャン

夕食: ピンチョス(ここが発祥と言われる。小さく切ったパンに食べ物が乗せられ串や楊枝がさしてあるアペタイザー)、チャングロ(かに)タルト、イカのグリル、小エビとベーコンのプロケッタ、干しダラのクレープ包み、アンコウのグリル、2名のバースデーケーキ

🛏 サン・セバスチャン泊

7日目 6月17日
エグノン!(バスク語でお早う)

🚌 午前中はサン・セバスチャン市内観光
ここはカンタブリア海とフランスとの国境に近い「ビスケー湾の真珠」と呼ばれる町。
11世紀頃からサンティアゴ巡礼路の中継地として、捕鯨や海洋貿易で栄えた要塞都市でもある。

旧市街の散策
グロス地区 →クルサール橋 →国際会議場 →ヴィクトリア・ウルへリア劇場 →マリア・クリスティーナホテル →ラ・ブレチャ市場 →ギプスコア州議事堂 →大聖堂 →イグナティウス・ロヨラ通り →新市庁舎 
旧市街(1908年から1913年までナポレオン軍に占領されたが、それを解放したのがイギリス軍だった。しかし、町に火を放ったのでそれ以後、50年に渡って再建された) →カジェ・マヨール →サンタ・マリア教会 →旧市庁舎(憲法広場)

ミラマール宮殿の庭園
1893年にマリア・クリスティーナ(アルフォンソ12世の2番目の王妃)が夏の宮殿として建設した宮殿の庭。宮殿には入れない。
景色が素晴らしかったが、強風が我々を歓迎してくれた。
→ビスケー湾(【風の櫛】というエドワルド・チリーダによる彫刻)

モンテ・イゲルドの丘
サン・セバスチャンを一望できる場所。山に囲まれた町並みや山向こうのフランスも見ることができた。

昼食: キノコのリゾット、バカリャオ・デ・ピルピル(干しダラの煮込み料理)、アイスクリーム

午後は自由行動

🛏 サン・セバスチャン連泊

8日目 6月18日
🚌 バスク地方の観光へ

ゲルニカはバスク自治州ビスカヤ県の都市で人口は約16,000人。
この街が世界的に有名になったのは、1937年4月26日に爆撃を受けたこと。
その様子が描かれたピカソの壁画(高さ3.5m、幅7.8m)がある。

ゲルニカ

当時、スペイン共和国の政府軍は元陸軍総長フランシス・フランコの指揮する反乱軍と戦っていた。スペインを二分したこの内戦でピカソは政府軍を支持した。
同年5月からパリで開催される万国博覧会のスペイン館で飾る絵を政府から依頼をされていたピカソは当初、絵のテーマは政治とは関係のない物を考えていた。
しかし、ドイツ軍の援助を得た反乱軍によって一般市民を巻き添えにした無差別爆撃によって彼はテーマを変更し怒りを込めて描き上げた。市場に集まった住民7000人のうち、死傷者は300人を超えるが、正確な数字は不明でもっと多いと言われる。

ピカソは後にドイツ軍の将校から「ゲルニカを描いたのはあなたですか」と問われ、「いや、あなた達だ」と答えた。😞

本物は現在、マドリードのソフィア王妃芸術センターにある。

→ヨーロッパ公園 →ゲルニカの木(1800年代の木で石化しており、モニュメントとなっている)→議会場 →サンタ・マリア・デ・アンティグア教会

ビルバオにあるグッゲンハイム美術館(外観のみ)
米国人建築家フランク・ゲーリーによる前衛的な魚の鱗をイメージした建物で1997年10月に開館した。

昼食:ねぎのパイ、イベリコ豚、ライスケーキ、ワインなど

ビスカヤ橋
1893年に建設された世界最古の運搬橋で世界遺産。
エッフェルの弟子、アルベルト・パラシオの設計。約48mの高さに橋げたを架け、ワイヤーでつるしたゴンドラにより車が8台、人間が300人を1度に移動させることができる。これによって海上交通を妨げることなくなった。

夕食:タラとジャガイモのスープ、シーバスのベーコン巻き、アップルパイ

🛏 フェンテ・デ(ヨーロッパ連山の麓にある)のパラドール泊(標高1,050m)
山小屋風で広くて素敵なホテルだった。

9日目 6月19日
朝は辺りに放牧されている牛のカウベルの音がとってもここちよかった。

🚌 ピコス・デ・エウロパ(ヨーロッパ連山)のカブレ展望台へ
ロープウェイでわずか4分で到着。1,843mにある展望台は崖から一部が突き出ており、高所恐怖症の人には無理かも。そこから見られる雄大な景色は目が洗われる思いがした。
昨日雪が降ったそうでザラメ状の雪が残っていた。
頂上の気温は2.8度で寒いのなんのって・・・

昼食: 前菜の盛り合わせ、牛肉の煮込みとミックスベジタブル添え、チョコレートムース、ワイン

サンティヤーナ・デル・マール旧市街の散策
ここは中世貴族の館が多く残り、町全体が国の文化財に指定されている。
→サント・ドミンゴ通り →プラザ・マヨール →ラス・リンタス通りとカントン通り →カジェ・デ・リオ →教会(12世紀にトルコで殉死した聖女フリアナ像がある)
大雨の中を散歩して、すっかりびしょ濡れに。☔

アルタ・ミラの博物館
1868年ある猟師が行方不明になった犬を探しているうちに偶然この洞窟を発見した。
彼を雇っていた弁護士でもあり、アマチュア考古学者でもあったマルセリーノ・デ・サウトゥオラ氏は何度も調査を繰り返したが、何も発見できなかった。
1879年、当時9歳の娘マリアを連れて行った時「お父さん、牛よ!上を見て!【アルタ・ミラ!】と叫んだので、上を見ると洞窟の天井全面に動物の姿(野牛、イノシシ、馬、バイソン、トナカイなど)が描かれていた。

アルタミラの壁画

この壁画を旧石器時代(18,000~10,000)のものと確信したサウトゥオラ氏は学会で発表したものの、彼が浴びたのは非難と中傷だった。彼の説が認められたのは亡くなった後、20世紀初頭のころで南仏のラスコーや北スペインで他の洞窟17か所が次々と発見されてから。1985年に世界遺産に登録をされた。

1977年までは一般公開されていたが、体温、二酸化炭素、照明などにより約40%が破壊されてしまったために、現在は精密に再現された博物館(2001年オープン)で見ることができるようになっている。洞窟の入口までは行くことができた。

いや~、小学校の教科書の小さなスペースにしか載っていなかった「アルタ・ミラの壁画」をこの年齢になって見ることができるなんて、本当に感無量だった。😃

夕食:ズッキーニのスープ、子牛のカツレツとミックスベジタブル添え、サンマルコケーキ

🛏 ブルゴス泊

10日目 6月20日
🚌 スペインで最も美しいロマネスク様式の回廊を持つ「サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院」の見学へ

サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院
6~8世紀に建てられた西ゴート族の僧院から始まり、イスラム勢力によって破壊された後、11世紀に修道士サント・ドミンゴが再建したものの、その後半ば放棄されていた修道院を1880年にフランスからやって来たベネディクト修道会が再建。現在は約25名が生活をする。
ロマネスク様式の回廊を時代順に見学をしていった。回廊の角には8つの壮麗なレリーフでキリストの生涯の各シーンが描かれている。
不信のトマス像」という絵は初めて拝見。
キリストが復活した事を信じない12人の使徒のうちの一人トマスに対して、ここに手を伸ばして私の脇を触って見なさい」とキリストがトマスに対して信じる者になりなさいと諭す場面だった。

博物館になっている薬局(すべてハーブを使用)や研究室も。

昼食:野菜サラダ、チキンのグリルとフライドポテト添え、フルーツサラダ、ワイン

食後、グレゴリオ聖歌を鑑賞
修道士たちの日課として毎日9回の礼拝の中で歌われる。我々は本日6回目の礼拝の時に聞くことができた。「心が洗われる」とはこのことだろう。
涙が出そうになったほど感激。🥹

🚌 午後はブルゴスの市内観光

ブルゴスは884年カスティーリャ伯デイエゴ・ロドリゲスにより創建された町。
1037年カスティーリャ王国とレオン王国が統一され、首都として繁栄したが、1492年にレコンキスタの完成に伴い首都はマドリードに遷都された。

「レコンキスタ」とはキリスト教徒がイベリア半島からイスラム勢力を駆逐するために行った解放運動のこと。

→アララン川 →エル・シド像(11世紀のカスティーリャ王国の貴族でレコンキスタの英雄。1961年に映画化【チャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンが主演】)、19世紀の劇場 →エスポロン通り(プラタナスの並木道)→プラザ・マヨール(市庁舎広場など)→サンタ・マリア門(城壁に囲まれたこの町はかつて12門あったが、現在はそのうち7門が残っている。16世紀カルロス5世によって造られたこの門は最も有名で町の偉人たちの彫刻が素晴らしい)→

サンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂

ブルゴス大聖堂

1221年司教マウリシオにより建築が始まり、完成したのは1765年で500年以上かかった。
スペインのゴシック建築の代表作と言われ、1984年に世界遺産に登録をされた。

フランスの詩人ゴーチェは「2年かかっても見尽くすことはできない」と称え、スペイン国王フェリペ2世は「人が造ったものではなく、天使の業だ」と絶賛した。

→サルメンタル門(全能のキリスト他の彫刻が素晴らしい)→主祭壇上の高さ57mの星形で円の天井 →13世紀のバラ窓(ステンドグラスが美しい) →103の聖歌隊席 →エル・シドと妻のメヒナのお墓 →ディエゴ・デ・シロエによる黄金階段 →マウリシオ神父の横臥像 →16ある小礼拝堂 →17時ちょうどのカラクリ時計 →元師の礼拝堂 →マグダラのマリア(レオナルド・ダ・ビンチと弟子ジョバンニ・ピエトロ・リゾリジャンピエトリーノ合作による)→教会博物館

建物自体も荘厳だし、中はどちらの方向を見ても感激の嵐!!!😆

夕食は自由食

🛏 ブルゴス泊

11日目 6月21日
🚌 中世から多くの巡礼者達が足を止めてきたカストロヘリス村の見学

カストロへリス村

サンティアゴ・デ・コンポステーラまでは約451kmにある村。
まだまだ遠いぞ。
村は巡礼路沿いにある小山にまとわりつくような場所で、山頂にはお城があり、街中はまさに中世そのままの世界が広がっている。

→入口のサンタ・マリア・デル・マンサノ教会 →サント・ドミンゴ教会 →プラザ・マヨール(市庁舎)→出口のサン・ファン教会まで巡礼スタンプを押しながら散策。

👟 巡礼路歩き ② フィテロ橋 ~ イテロ・デ・ラ・ヴェガ
フィテロ橋(ピスエルガ川に架かるロマネスク様式の石橋) →イテロ・デ・ラ・ヴェガ村まで約1km。天気も良く麦畑の中を歩く気持ちの良い散策となった。

フロミスタの見学
サン・マルティン教会(1066年アラゴン王国のサンチョ大王のムニア王妃の遺言によって建設された。19世紀に修道会が廃止されたために倒壊が進み、大部分は修復された。美しいレリーフなどは残っている)

サン・マルティン教会

昼食: 野菜サラダ、魚のスープ、ポークソテーとフライドポテト添え、アイスクリームなど

レオン市内到着後観光へ
ローマ時代にローマ第七軍団が置かれた場所でレコンキスタをリードした町でもある。
現在の人口は約15万人。本日よりお祭りがあるとの事。
サント・ドミンゴ広場 →ボトネス宮殿(アントニオ・ガウディ設計の館) →大聖堂(13世紀の創建のフランス ゴシック様式でステンドグラスが綺麗)→サン・イシドロ教会(ロマネスクのフレスコ画が美しい王室霊廟がある。農民の生活がわかる12か月のカレンダー【9月は葡萄を収穫する様子が描かれていた】)

サン・イシドロ教会

夕食:イベリコ生ハムとレオンの生牛ハム、エビのグリル串刺し、イカと魚のリゾット、チーズスフレなど

🛏 スペイン有数のパラドール「サン・マルコス」泊
元は1515年建築の古い修道院でスペイン・プラテレスコ風の外観で一見、宮殿のようだし、中は美術館のようだった。

パラドール

12日目 6月22日
🚌 「巡礼の路」と「銀の道」の交差点、アストルガへ。

北部から南部へと通じる鉱産物や農産物の重要な交易路「銀の道」も通っているために昔から人々が行き交い、文化的にも歴史的にも価値あるものが多く残されている。

→大聖堂(ミサが行われていた)→大司教館(1889年ガウディが同郷の司教に頼まれて建築し始めたが、友人が死去した後の司教と趣味が合わなくて途中で交代したので、全部がガウディの作品ではない。現在は巡礼博物館となっている)

大司教館

アストルガはヨーロッパのチョコレート発祥の地
チョコレート博物館
ココア(チョコレート)の起源は「メソアメリカ」で現在のメキシコ南部からホンジュラス辺りとされている。
スペインに渡ったのが、1528年コンキスタドールのエルナン・コルテスがカカオを持ち帰り、スペイン王カルロス1世に献上をした。当時は疲労回復の薬として飲まれていた。

その後、巡礼者を勇気づけてきた「鉄の十字架」へ
ここまでの山道にはラベンダーとエニシダが沢山咲いていた。

イラゴ峠(1,504m)は道中の難所として旅行の守護神マーキュリーの丘と呼ばれていた。ここには鉄の十字架が置かれていて、巡礼者達はスタート地点から持ち続けた石を置いて行くと願いが叶うと信じている。我々もそれに倣って願い事を書き置いてきた。
本日は大掛かりな撮影が行われていた。

ポンフェラーダにて写真ストップ
12世紀頃、巡礼路の警護の為にテンプル騎士団が招聘され、1178年より騎士団のお城が建てられた。

昼食:野菜サラダ、イカとジャガイモの煮込み、サクランボ、アイスクリーム、ワイン

セブレイロ峠
サンティアゴ・デ・コンポステーラまでは約150km。
標高1,300mの最後の難所。
ローマ時代のケルト人の「パジョーサ」と呼ばれる伝統家屋も残っている。
サンタ・マリア・レアル教会(9世紀の建築でフランス人の道で最古の教会)の見学

ゴゾの丘
「歓喜の丘」とも言われ、長い巡礼の旅で巡礼者たちが初めて大聖堂の尖塔を」見ることができる場所。大聖堂までは約5kmの道のり。

ゴゾの丘

夕食:タコのガリシア風、ホタテのガリシア風、メルルーサのガリシア風とジャガイモ添え、サンチャゴケーキなど

🛏 サンティアゴ・デ・コンポステーラ泊

13日目 6月22日
サンティアゴ・デ・コンポステーラ(星降る野原の聖ヤコブ)市内観光

エルサレム、ローマ(バチカン)に次ぐキリスト教三大聖地の一つ。
9世紀にエルサレムで処刑されたキリストの12使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン名サンティアゴ)の墓が北スペインで発見され、聖堂が建てられた。
世界遺産に登録をされているのはフランスからピレネー山脈越えの約800kmの巡礼路。
巡礼者たちは約200本の聖人像が刻まれた「栄光の門」から入り、中央に座す聖ヤコブの像に迎えられ、聖ヤコブの墓の上に作られた主祭壇に向かう。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

→オブラドイロ広場より大聖堂(1071年~1211完成)を眺める →付属博物館 →北門より入場(ミサに参加してボタフメイロの儀式【高さ1.6m、重さ約80kgの大香炉が振られる。これは困難な旅を終え到着した巡礼者は疲労困憊しており、振り香炉は病の予防効果があるとされていた。と同時に巡礼者たちの臭い消しの役割も果たした。天井から太い綱でぶら下げられており、片方の綱を数名の人が引っ張って振る】の見学)
大勢が見守る中、厳かな雰囲気の中で絶好のポジションで、見られて感激!😃 
地下礼拝堂(中央祭壇下にある聖ヤコブのお墓)→免罪の門 →主祭壇(2000kgの銀が使われている) →栄光の門 →プラテリアス門 →ビラール通り →巡礼者事務所 →もみの木の門 →旧市街から新市街へ抜ける →二人のマリア像 →アラメイダ公園 →大聖堂に戻った

夕食:自由食

🛏 サンティアゴ・デ・コンポステーラ連泊

14日目 6月24日
出発まで自由行動

🚌 ヴィーゴの空港へ

✈ 18:05 発 ヴィーゴ エールフランス航空(EMB 170)
  20:05 着 シャルル・ド・ゴール空港

✈ 23:25 発 シャルル・ド・ゴール空港 (B777-300)

15日目 6月25日
  18:00 着 成田

今回はキリスト教についてとても勉強になりました。
昔から四国の八十八か所巡礼は一度行ってみたいと思っています。
後記:2019年に行ってきました。知らないことだらけで毎日、目から鱗でした。

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