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フリードリッヒ・グルダの「お勉強臭くない」モーツァルト

今朝はフリードリッヒ・グルダ、アバド、ウィーンフィルの演奏するモーツァルトのピアノコンチェルトのCDを聴いている。

このところ、時々クラシック音楽のCDを聴いたりしているのだけれど、今朝はその中でも、予備校時代からのお気に入りであった録音を聴いている。このCDを買ったのはごく最近なのだけれど、この録音自体は予備校時代から持っていて時々聴いていた。

その予備校時代から愛聴していたCDを父親に誕生日プレゼントで贈ってから、しばらく手元にモーツァルトのピアノコンチェルト20番のCDがなかったので、困っていたのだが、仕方がないので買い直してまた聴いているのだ。

本当は、モーツァルトのピアノコンチェルトの愛聴盤はもう一枚あって、マレイ・ペライアの演奏するやつが好きなのだけれど、そのCDも父親に同じタイミングであげてしまったので、今はもう手元にはない。グルダのしっかりとしていながら軽やかな演奏も捨てがたいし、マレイ・ペライアの透明感がある美しい音色も捨てがたい。

それで、ペライアの録音の方は手元にはないので、今朝はグルダの演奏を聴いていた。

グルダの演奏は、というよりもモーツァルトのピアノコンチェルト全般に言えるのかもしれないけれど、聴いていて疲れない。かといって退屈な音楽というわけではない。メリハリがきちっとある音楽だし、ずーっと聴いていると音楽に吸い込まれるような感覚になって聞き流せなくなってしまう。モーツァルトが250年近い時を経ていまだに高く評価されている所以だろう。無駄がなく、くどさが無く、飽きない。

先日、クラシック音楽の「お勉強くささ」が嫌いだという話を書いたが、この録音を聴いていると、そういう面倒なことはどうでもいいのではないかという気持ちにまでなる。クラシック音楽家にとってみればモーツァルトもお勉強の対象になるのかもしれないけれど、私のような純粋なリスナーにとってみればモーツァルトはお勉強しなくても楽しめる音楽である。

私は、カントリーミュージックが好きで、普段はカントリーミュージックばかり聴いているのだけれど、カントリーはあれはいわゆるポップスのようなもので、じっくりと聴いていなくても楽しめる。聴いていて疲れないし、ギターの名人やら、歌の名人が登場するのでじっくり聴いていても新しい発見がある。

カントリーのいいところは、「お勉強」の側面を感じさせないことだと思う。一部のクラシック音楽のようにインテリにしかわからなそうな音楽(本当はそんなこともないのだろうけれど)ではないし、ディテールに耳を凝らさなくても、全部聞かなくても楽しめる。

対して、クラシック音楽はどうもこむづかしい曲が多すぎる。さわりの部分だけ聴いてどんな曲なのか説明してくれと言われてもなかなか難しいし、全部聴いたところで、何がいいのかさっぱりわからない曲も多い。それが、クラシック音楽を「インテリにしかわからなそうな」音楽にしてしまっているのだろう。

しかしながら、このモーツァルトのピアノコンチェルトを聴いていると、スーッと耳に入ってきて、気軽に楽しめる。じっくり聴いていると、その色彩の豊かさや、転調の巧みさなんかが見えてきて「なるほど、聴いている人を飽きさせないようにこういう工夫をしているのか」と妙に納得するのだが、そんなことを考えなくても、ただ音楽を聴いているだけで気分が良くなる。

おそらく、フリードリッヒ・グルダの演奏もそう思わせることに寄与しているのだと思う。ピアノの音は軽やかで、メリハリがはっきりしているし、勿体ぶっていない。

ジャケットの写真を見ると、グルダはこの録音でスタインウェイのピアノを弾いているように見える。20番、21番の演奏ではなんのピアノを使ったのかはよくわからないけれど、25番の演奏を聴いているとダイナミックな低音、ピリッと緊張感のある高音なんかはスタインウェイの音のように思えるし、残響の豊かさはベーゼンドルファーのようにも聞こえる。これだけシャリッとした音がするのはベーゼンドルファーかな。

いつだったか、知り合いの調律師さんがグルダを聴いた時ベーゼンドルファーを弾いていたと言っていた。どうも、グルダはベーゼンドルファーがお気に入りらしく、晩年に自宅スタジオで録音されたものもベーゼンドルファーで演奏されたものが多い。若い頃はスタインウェイを弾いて自宅でベートーヴェンを録音しているから、自宅にはスタインウェイ、ベーゼンドルファーを含めて何台もピアノがあるのだろう。

グルダほどの演奏家になれば、ピアノも曲によって使い分けている。いわゆる、スタインウェイしか弾かないような演奏家とは違う。どういう基準で弾き分けていたのかはわからないけれど、その曲に最適な音色というものを追求していたのだろう。それとも、その時の気分か。

いずれにしても、グルダの演奏、ピアノそのものが持つ音色、アバドの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音、それぞれが合わさって、こういう聴いていて飽きない、「お勉強臭くない」モーツァルトの音楽ができているのだと思う。

そう思って、いつだったかグルダの演奏するベートーヴェンを聴いたのだが、思っていたよりも畏まった演奏だったので、グルダもああいう「お勉強臭い」音楽を演奏するのかと、妙に感心したのだった。

まあ、人生生きていると「お勉強」の要素も必要な時があるから、そういう音楽もあっていいのだけれど。

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