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弘法も筆を択ぶ? 良い楽器はやっぱり必要か。

弘法筆を択ばずというけれど、ミュージシャンの多くは自分の楽器に強いこだわりがある方が多いだろう。
それは、当然そうあるべきだと思う。板前さんが切れ味の悪い包丁を使って調理していたら料理の味も落ちるであろうし、仕事において使う道具というのはものすごく重要なファクターになってくる。

先日、エアコンの取り付けの工事を行ったのだけれど、エアコンの取り付け業者のかたもいろいろな道具を持ってこられていた。その姿を見て、「ああ、これは自分ではできないだろうな」と思うと同時に、ちゃんと信頼できる業者にお願いして良かったと思った。

楽器も同じことで、演奏者の技術やイマジネーションを十分に発揮するためにはある程度いい楽器を使っていなければ、その能力も無駄になってしまう可能性がある。本番もそうだけれど、これは練習の時もそうであると思う。

プロ、アマチュアを問わず、楽器の技術の高さを問わず、いい楽器(その奏者に合った楽器)を使うことは演奏のパフォーマンスやクオリティにかかわってくる。例えばギターだって、ある程度音色のパレットが広い楽器を使ったことがなければ、ギターの音楽表現の幅の広さを体感することはできないし、弾きづらい楽器を使っていては、演奏技術の上達にも良くない。

誰もが最高の楽器を手に入れることはできないというのは当たり前だけれど、楽器選びの際には自分の技量に合わせた楽器を使っていてはいつまでたってもそれ以上になることはできないのではないかと思っている。むしろ、自分の身の丈に少し合わないぐらいが丁度いいいと思う。そういう楽器を選ぶことによって、今までの自分が気づかなかった楽器の音色の豊かさに気づくことができる。

その上で、メインで使用する楽器を何にするかは個人の自由だと思う。例えば、ものすごくチープな音しかならない不器用な楽器を使っている方も、それはそれでいいと思う。

これは矛盾しているようだけれど、楽器の音色の多様さや、音作りの方法がわかっている方はどんな楽器を用いても、その楽器のいいところや悪いところを引き出し、音楽をつくることができる。ここで重要なことは、音楽は必ずしも美しい音だけが必要というわけではないということだ。時には濁った音も、歪んだ音も、チープな音も、必要となってくるのが音楽なのだ。

そのためには、ベースになる自分の音作りのために、いい音を知っていなければならない。可能であればそういう楽器を所有して、それで練習して自分の音作りや演奏技術づくりを探求するというのは、音楽づくりそのものの本質の一つであると思う。

幸い、今日ではある程度いいクオリティの楽器が、比較的安価に手に入れることができる。比較的安価といっても、安くはないけれど、19世紀のように貴族でなければ手に入らないというような楽器ばかりではない。(もちろんそういう楽器も多いけれど。)

そんな中で、チェットベイカーのCDを今日聞いていて思ったのだけれど、チェットベイカーはキャリアのうち長い間、安物の楽器(BuescherのAristocrat Modelというスチューデントモデル)で演奏していた。それまで持っていた楽器も何度かは質に入れてしまい、借り物の楽器で演奏していた期間も長い。

しかし、チェットはどんな楽器を吹いていてもチェットベイカーの音がする。50年代からキャリアを通して自分の音がある。
最晩年はセルマーから贈られたBachのストラッドを使っているが、Bachを吹いていてもBuescherの頃の柔らかいチェットの音色で吹いている。

これは、彼の演奏技術が卓越していたということであるのだけれど、その卓越していた技術は若い頃から自分の音作りに対し真摯に向き合っていたことが多いに影響している。

チェットベイカーは晩年のインタビューの中で、若い頃はとても楽器にこだわっていて、Martinの工場に行って15台だったか20台の中から自分の楽器を選んだと語っている。MartinのCommittee Deluxeモデルを使うようになったのは、同年代のJazzトランペッターの影響も強いのだと思うけれど、彼がその楽器を選んだのは、自分のスタイルを作るためだとも語っている。

チェットベイカーは弘法筆を択ばずの代表格の一人だと思うけれど、彼の音作りだって、いい楽器で培われたものであるのだろう。

そういうことは置いておいても、チェットベイカーの音楽は柔からで寡黙で、美しいなあ。

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