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短編小説:泣き言

セミ

 寒さで木下は布団から目を覚ました。彼は、子供の頃から肌が弱く、この暑い季節になると、肌に汗が溜まった所が痒くなる。夜なんか、エアコンをオフにして寝た日には、無意識にひっかいた箇所が赤くなってしまい、時には血が出てしまうことがとてつもなく嫌で、寝るときはエアコンをつけっぱなしにしてある。

 ちょうど鳴る寸前であった目覚ましを止めた木下は、しばらく布団の上でダラついた後、なまった体をお起こし早速シャワーを浴びた。布団は畳んだりはせず、シーツも以前使っていたベット用のものを使っているものだから、余った部分がしわくちゃになっている。

 彼が住んでいるアパートは2階建て木造築48年で、外観からも老朽感がうかがえる。外階段が付いており、2階の一番奥の部屋が木下の借りている部分だ。1フロアに5部屋あるため、外廊下の奥行きは意外と長い。準ターミナル駅から徒歩10分以内の立地にも関わらず、家賃が安いところがメリットであるが、フローリングは所々色褪せており、ワンルームのため、洗濯パン・台所が共に一つの空間にある。一応ベランダはついているが、足で体重をかけると、今にも底が抜け落ちそうな感触がするため、洗濯物を干すときも一苦労だ。

 それでも、住めば都である。住んでから6年が経過し不自由は感じはしない。しかし、この季節になって現れるセミには耐えれんものがある。

 日が暮れ、アパートの外廊下の蛍光灯が光始めると、セミがその紫外線に集まりはじめ、不規則に飛び回り、帰宅する住居人達を妨害する。
 セミも、自分がどこを飛んでいるか分かっていない様子で、アパートの外壁に突進してぶつかって跳ね返り、蛍光灯にぶつかって跳ね返りを繰り返している。
 あの体と羽の色合い、硬さ、不快な泣き声、無視できない程の大きさが、なんとも気持ち悪いと木下は感じている。

 そのため、夕方以降になると部屋を出入りするたびに、神経をすり減らす。必ずといって良いほど遭遇するセミに触らぬよう、神経を全集中させなければならない。万が一、セミが部屋に侵入でもしてきたら、たまったものではない。

 木下がセミを異常なまでに嫌うには、一応過去がある。小学校の頃、公園で友人と虫捕りをしていた時、突然セミが顔面に衝突してきたのだ。ただ払いのけるはずだったが、無意識にわっと掴むように振り払ってしまい、偶然にもセミを手の中で掴み圧迫してしまった。

 その時の、顔と手の中で感じたセミの不快さが今でも残っており、セミを見ると通常の人からすると異常とも思える拒絶反応を示してしまう。触ることなんて到底できず、近づきたくもない。

 これであるから、夜は迂闊にコンビニにも行けない。過去には、帰宅時に、あまりに多くのセミが外廊下を徘徊しているため、2時間近くも近所の公園で待機していたこともある。

 そんな神経を消耗する夏こそ、木下にとって最も辛い時期であることは間違いない。

 そして、彼が40になったのも、この夏である。若い時は威勢が良かった彼も、いい加減、能力の限界や体力の低下に気づきはじめており、以前より未来に希望が持てなくなってきている。

 大学を卒業したとき、大手企業に就職して営業職として配属されたものの、厳しい競争についていけず、出社するだけでもストレスだった。出社のためだけに、やむを得ずタクシーを頻繁に使用するほどだった。

 そんな、社会人3年目の春。父親が急遽亡くなってしまった。灰癌だった。昔から、ヘビースモーカーであった父は、俺は長生きするから大丈夫と、周りの忠告も聞かず一日数箱を消費し続けていた。父が、少し胸が苦しいと訴え初めた時、母も木下も、まさかその半年後に亡くなってしまうとは想像もしていなかった。医者からの宣告後あっという間に53歳の生涯が終わった。

 木下にとっても、すぐに受け入れられる現実ではなかったが、悲しみに暮れている隙間に、父からの遺産を現金で受け継ぎ、その直後に会社を退職した。数千万円の金額は、会社を退職するという決断には十分な金額だった。

 しかし、木下も遺産に胡坐をかき、のらりくらりと生活を送っていたわけではない。自己啓発セミナーに通ったり、ベンチャー企業など含め色々な職種で就職したり、資格を取ったりとチャレンジをしてきたつもりだった。

 ただ、就職といった意味では、どこも長続きはしなく、次の会社を探すまでの間の無職の期間中、貯金に甘えていたことは事実である。

 そして、最近、彼を悩ますのは、将来がいよいよ現実となってきたからだ。お金が底をつき、経済的にも、社会的にもドン底まで落ちていくといういう不安。貯金は減るばかりである。

 木下は、シャワーを浴び終わり、体をふいた。いつもと同じ洋服を身に着け、朝食の代わりに、買い溜めてあったカロリーメイトをかじった。

 時刻は12時を回るところだ。

 支度をしている最中、時折やってくる癖のある思考が頭を乗っ取った。それは、自分を呪う後悔。若い時に言われ響いた言葉。「もっと、自分を好きになんなきゃだめだよ。自分を好きになれないと一生辛いままだよ」。
 たぶん、真実なんだろう。しかし、今の木下にとっては、そんな言葉は茶番でしかない。
 なぜなら、こんな自分を好きになったら、それは死ねということだと思うからだ。こんな自分を好きでいては、この社会では生きてはいけない。

カウンセリング

 本日、8月中旬の水曜日。13時から、カウンセリングの予約があった。別にカウンセリングなど興味もなかったが、あるカウンセラーに興味本位で顔を出したのがきっかけで通い始めている。今回が3回目だ。前回は、去年の10月頃だったはずだ。

 そのカウンセラーは、名前を西岡と言い、普通のカウンセラーとは少し違う経歴に興味を引かれたのである。

 西岡は中小企業の経営者だった。一時、事業に失敗し多額の借金を抱えて鬱病にまでなったものの、これまで培ってきた仲間の援助もあってか借金を完済し、新たに年商数十億の会社を作り上げた。
 そんな西岡が、60をあと数年で迎えるという年齢になった時に会社を売却し、これから隠居生活に入るのも性に合わないと、残りの余生の使い方を考えたのがカウンセリングであったようだ。
 その年になってまで大学院を修了した行動力には、彼から見ればまだ若造の木下も刺激を受けた。

 西岡のスケジュールはいつも予約で満席だ。彼の、鬱に向き合いながらも人生を好転させた経験や、実際に顔を突き合わせたときに感じる、なんとも成熟した雰囲気のある安心感が、人を引き付けるんだろう。

 「いつ来ても、立派なビルだな。」オフィスが入居するビルの前に到着した木下は、そう心で思った。

 西岡カウンセリングオフィスが入っているビルは、普通のカウンセラーが借りるような事務所ではない。大手財閥系企業が所有しているビルで、借りている区画は狭いとしても、ある程度の資金力がなければ、入居はできない。

 エレベーターで8階まで上がったが、数人の会社員達がそれぞれ違うフロアで降りて行った。彼らをみると、やや引け目を感じたが、気にせずカウンセリングオフィスの受付に向かった。

 受付の人:「お待ちしておりました。お名前を頂いても良いですか。」
 木下:「はい。13時に予約のある木下です。」
 受付の人:「木下様ですね。1セッション、1万2千円になります。」
 木下は、財布を取り出し、受付の女性に手渡した。
 受付の人:「それでは、あちらのお部屋に入って、椅子に座ってお待ちください。」

 部屋に入ると椅子に腰かけ、室内を眺めた。部屋は殺風景だ。西岡とお客が座る椅子2脚。そして、部屋の奥の隅には丸テーブルがあり、その上に花が飾られた花瓶が置かれている。

 その花がなんなのか、木下は分からなかったが、三色三種類の花が飾られており、たぶんセラピー用に考えられたのだろうと思った。
 その他、絵画などは飾られていなく、あとは無地のプラスチックの壁だけが目に映る。

 2・3分であろうか。木下が目をつむり、呼吸に意識を向けていると、コンコンとドアが2回ノックされた後に西岡が入ってきた。そして、椅子に腰かけた。 

 西岡は背が高かった。身長は180cmはあるだろう。カジュアルな白シャツに茶色いジャケットを合わせた格好は、高身長の彼にはよく似合っていたし、親しみを感じる。
 清潔感に気を使ていて、髪は短く整っており、ヒゲも綺麗に剃ってあった。

 西岡:「久しぶりだね、また来てくれたんだ。それで、あれから、どうなった?前回は、たしか、就職先で悩んでいたよね。」
 木下:「はい、結局、あれから派遣会社の紹介で、総務の仕事に就いたんです。ゆくゆく正社員の可能性もあるということで、挑戦してみようって。それでも、なんというか、業務量が多くて耐えられず退職してしまいました。なんというか、私はダメなんですよね。規則やら、ルールやら、データのタイトルを間違えるだけでグチグチ言われるんです。私は、そんな細かいことを気にする性格ではないので、私がその仕事をやる意味が分からなくなってしまって。」

 西岡:「やる意味が分からなくなった。」

 木下:「はい、そうなんです。そう思うんですよ。なんか、なんで他の人は、あんな書類を作ることでせっせと働けるんだろうって思ってしまったんです。つまらないじゃないですか、あんなの。しかも、私を指導してくれていた女の人なんて、すごく楽しそうに仕事してるんですよ。やりがいを感じている風にもみえましたね。新しくエクセルの式を改造したとか、書類を回す段取りを見直してみたりとか、たぶん、物事を整理していくのが好きなんでしょう。私にはない価値観ですから。」
 西岡:「そうなんだ、そしたら、なんで事務職にしちゃったの?」
 木下:「それは、一応、月給も悪くなかったですし、この年齢で正社員のチャンスなんてあまりないですから、やってみようって気になったんです」
 西岡:「そうなんだ。それなら、やめちゃう前にもう少しやってみようっていう気にはならなかったの?」
 木下:「、、、」
 西岡:「でも仕事ってね、事務職に関係なく、どれも細かいことを要求されるよ。派遣社員ってことは、社内の人がお客さんみたいなことでもあるしね。その人たちが、木下君にそうやってほしいって言ってるなら、それは出来るようになった方が楽じゃないかな。」
 木下:「そうなんですけどね。でも、結局、仕方ないんですよ。なんか、自分が意識しないところで指示されると、すごく反発しちゃうんですよ。頭が情報を拒絶してるっていうか。受け入れたくないんです。私は、駄目なんです。こうなると、もうコントロールできないんですよ。もう、どうしようもないんです。だって、脳が拒否してるんですよ。」

 西岡は沈黙した。無理だと言い切られると、次の言葉に詰まった。
 沈黙は続いた。そして、木下は、先ほど自分が話した言葉を咀嚼したかのように会話を続けた。
 木下:「そうなんですよ、仕方ないんですよ。私だって、続けたくても続けられないんですよ。努力とか、人のためにとかいう理屈で抑えられるものではないんです。」

 木下は再び沈黙に入り、うつむく顔を左手で支えた。

 「私は、もう信じれられないんですよ、自分の情緒を。それが辛いんです。ハッキリしてるのは、嫌ときは嫌で、体が勝手に全身で拒絶するんですよ。だから、投げ出すんです。私の意思とは関係なしに。そういう生体なんですよ、私は。そんな自分を分かってるんです。
 でもですね、気分が収まると、次こそは頑張ってみようって、我慢してみようって、耐えてみようって思うんですよ。どうせ、投げ出すくせに。本当、バカな人間です。
 私だって、働きたいですよ。真面目に仕事をして、日々積み上げていきたいですよ。そうですよ、私は、大人になりたかったんです。でも、相変わらず子供のまま、わがままで、嫌なことはすべて投げ出すんです。
 そういう奴なんですよ。仕方がないですよね。もうどうしようもない。

 なんか、もう、大人になろうなんて思わなければよかったんです。大人なんて目指さなけりゃよかったですよ、本当。ガキの世界にいられれば良かった。好きなことでも見つけてやればよかったんです。
 それでもね、私は大人になりたかったんです。
 なぜ、私は社会にはまろうとしたんでしょうか。でも、社会不適合者なんだから意味ないのに。社会で頑張ろうと努力してきた結果がこれですよ。
 両親はねぇ、私を教育なんてしてないんですね。金を払っただけ。飯を食わせた、学校に通わせた、習い事をさせた、それで親の役目が完了ですか。それなら、好き勝手させてくれりゃよかった。
 学歴だの、勉強だのなんだのって、私には全部不要でしたよ。不要だったんですよ。そもそも、社会不適合者なんだから、私には何の役にも立たなかったんだ。
 大人になることを強要しすぎることが、むしろ成長を妨げるってことが分かってなかったんですよ。

 自分を恨めばいいんですよね。自己責任ですからね、この世の中。そうですよ、この年になって両親を怨むなんて、どうかしてます。クズの感想ですよ。
 そうだとしても、私にはどうしょもできなかったんだ、だってバカなんだから。こんな情緒の弱い人間に、何をやらせたって駄目でしょうが。そのくせ、プライドだけは一丁前なんですよ。そりゃそうですよ。一人っ子で甘やかされて育ったんだ。普通の家庭でしたけどね、金で苦労なんて一度もしたこたないんですよ。

 それがなんですか、社会に出たら、まったく使いもんにならんじゃないか。良いですか。私はね。簡単な仕事だってできないんですよ。ベルトコンベアで運ばれてくる荷物を、あっちからこっちに移す仕事だって退屈で続けられないんだ。辛くなるんです。一日二日ならできますよ。でも、毎日やらなきゃならないんですよ。そこで長年働いている人たちは、凄いもんですよ。
 あんな単純な作業を毎日やってるんだもん。愚痴を言いながらも、毎日真面目に、繰り返し仕事をしている。
 私は思うんですよ。仕事の愚痴をいう社員は良い社員だって。彼らは、会社に居続ける人間達ですよ。愚痴を言わない人間は、いずれにせよ辞めてしまいますよ。仕事ができようが出来まいが関係ないんです。
 彼らは素晴らしいですよ。私はね、コツコツ続けるっていう姿勢が本当は大切だと思うんですよ。肉体労働だろうが、薄給だろうが、数年でもきちんと続けられれば、それは見上げたもんですよ。スキルどうこうは関係ないんです。まずは、つまらない仕事でも、毎日続けなくっちゃならないですよ。
 それができるだけでも凄い才能ですよ。

 つまり、私が悪いんですよね。もう、なんにもないんです。私が追い求めていたもの、そんなもんはこの世の中には無かったんです。
 いっそ、新興宗教にでもはまってみようかと思うんです。そっちの方が良い。いっそ、マルチ商材の販売集団にでも加わってみましょうかね。そっちの方が良いんじゃないか。そこには、優しい言葉をかけてくれる人達が沢山いる気がするんです。大丈夫ですよ、一度馴染んじゃえばそこは都ですよ。世間がおかしいって解釈になるでしょうしね。私を受け入れてくれる仲間の方が、厳しいことをいう常識より、よっぽどいいと思うんですよ。」

 木下は、言葉を終えると、呼吸を整えながら下を向いていた。しばらく、沈黙が続いた。
 これまでの、カウンセリングでは言えなかったことを、全部吐き出した気がした。

 西岡:「、、、。でもね、私には何もしてあげられないんだよ。いくら、強く泣き言を言ってもね、もう、木下君の年齢だと自分で責任を取るしかないんだから。分かってると思うけどさ。」
 西岡は、何かをこらえるように目を細くし、木下の顔を見ていた。

 木下:「そうですよね。本当に、そうですよね、、、。」

 木下:「有難うございました。今日は、これで失礼します。」
 そういうと、西岡の顔を見ることなく、下を向いたまま、軽く会釈をして部屋を後にした。1回のカウンセリングは50分であったが、時間を使い切らずに出てきたのはこれが初めてだった。

 木下は、ひどく情けない気持ちでエレベーターに乗っていた。同じ籠に乗っていた会社員が2人いたが、別世界の人間達に見えた。 
 ビルの外へ出ると、ビルを高く見上げたくなった。
 「8階は、あの辺りか。」今まで、自分が滞在していたフロアを外から確かめた。 
 「そびえ立つビルが神々しく見える。素晴らしい人間を雇うために、会社は高い家賃を払って立派なビルに店をかまえるんだろうな。」
 そして、じわじわと滲む虚しさを抱えながら、地下鉄のホームへと階段を降りて行った。 

帰り道

 最寄駅からの帰り道。木下はある意味スッキリしていた。現状は何も変わらないのであるが、なぜか達成感があった。
 歩いていると、歩道でひっくり返っているセミを跨ごうとしていることに気づき足をひっこめた。そして、その6本の足が外向きに開いていることを確認した。
「まだ生きているのかな。死んでる場合もあるよな。どっちか、わかりゃしない。」
 木下は、普段は避けるはずのセミを軽く足先で蹴り飛ばした。セミは、バタバタと羽を動かして勢いよく地を這うように暴れだした。木下は一瞬ゾッとして一歩後退したが、すぐにセミは動きを止めた。
 「日が暮れたら、部屋から出られなくなるから、スーパーで買い物してかないとな。」
 アパートの外廊下に集まるセミのことを思い出すと、再び憂鬱な気分になった。

 終わり。


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