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55.自動販売機前の間


最近、「美しい」と感じる光景を見た。



先日、夜の七時頃。

職場から帰路についていた。

赤信号で止まっていたところ、後方から急ぎ足で車の横の歩道を歩いていく中学生がいた。

体操服を着ていた。

大きなアディダスのエナメルを肩にかけている。

おそらく部活動の帰りなのだろう。

その少年が車を横切ろうとしたとき、彼はその歩道沿いにある100円の自動販売機の前で立ち止まった。

5秒程度、その自動販売機を見つめて、そこで結局何かを買うわけではなく、そのまま立ち去って行った。



私はこの景色をみて、何か「美しさ」を感じた。

そのシーンがなぜか強く印象に残り、脳裏に焼き付いた。




自分の中学生時代を思い出した。

小遣いは多くはなかったが、少しの駄菓子や、ジュースを買える程度は持っていた。

仲のいい友人と塾や部活動の帰りに、時々、200円程度でお菓子やジュースを買って飲みながら話す時間がたまらなく好きだった。

そのときに、自分の一か月の小遣いの計画を考えながら、少ないお金で迷いながら買ったジュースやお菓子の味は格段にうまかった。

時には、迷った末、我慢した日もあった。



あれから約10年が経った。

一人の社会人として、人並みの給料をもらいながら生活をしている。

当時と比べて自由に使えるお金も増えた。

それほど贅沢をする性格ではないが、それなりに欲しいと思ったものは買うことができる。

公私ともに充実した生活を送ることができていて、それなりに何不自由ない生活を送れていると思う。

そんな私がその自販機前で立ち止まる光景を見てふと思った。


中学生時代の自分が味わっていたような100円の幸福感を感じながら、今も過ごすことができているのか。」


答えは明らかにNoだ。


自分自身が大人になり、成長した証であるとともに、人として退化している部分でもあると思う。

正直、そうなってしまっている自分に少しさびしささえ感じる。

でもこれが人が成長過程で自然と経験していくプロセスだと思う。


今、当時と比べて、一か月で使えるお金は100倍くらいになった。


100倍幸せになったかどうか聞かれると明らかにそんなことはない。


今より100倍お金を稼げるようになれば100倍幸せになるか聞かれてもきっとそういう風には感じないと思う。


2021年、50年前と比べて、生活は大きく変わった。

三食満腹に食べられることが当たり前。

スマホが一台あれば、ほしいものを次の日に家まで届けてくれたり、見たい映画を見れたり、好きな音楽をいつでもどこでも聞けたりなんだってできる。



人類史の中でもこれほど激動の100年はきっとないだろう。

そしてこれからも文明は想像を超えた発展をし続けるだろう。


しかし、同時に我々の心を動かす「幸せ」のハードルも上がっていることもまぎれもない事実だと思う。


生活水準が上がったり、豊かになることで失っている大切な感覚もきっとある。


例えば、50年前に人に会う時は手紙を出して待ち合わせをしたり、再会することに必要な手間は今と比べ物にならないくらい面倒なものだったのだと思う。

ただそれと同時に、その面倒な手順を踏んで、人と会うことは今とは比べ物にならないくらい喜びがあったんだろうと思う。


それに対して、今は便利な世の中になり、いつでもどこでも誰とでも簡単につながることができる時代になった。


だからこそ、出会いと別れの意味が昔と比べて希薄になっているのではないかと思う。


「簡単に手に入るものには価値がない。」


その言葉のとおり、今は簡単に何事もできる世の中になったことで、当たり前の基準が上がり、自分たちは簡単に満たされてしまい、それらの真の価値が見えづらくなった。


また、逆に言うと自分が思い通りにいかなかったり、苦労したりすることで真の価値を理解したりできるのだと思う。


私が前述の光景が脳裏に焼き付いたのは自動販売機前での中学生の迷った数秒間の「間」が当時の100円の価値表しているとふと感じたからである。


今、豊かな世の中になったことを嘆いても仕方がないし、あえて文明の恩恵を手放す必要はない。


これからもありがたく享受していくつもりだ。


ただ、今後どれだけ豊かになったり、便利な世の中になっても昔の人が感じることができた幸福感を感じることができる人間でありたい。


そんなことをふと考えることができた「美しい」光景だった。









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