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バレエ鑑賞が好きです。

初めて観たバレエは、パリ・オペラ座のドン・キホーテ(DVD)。
主役はオーレリ・デュポンとマニュエル・ルグリでした。
とても小さかったのですが、家にバレエのDVDがこれしかなかったこともあり、何度も何度も観ました。今でも私の中での王道のドンキと言えばこれです。

初めて観たバージョンに影響を受けるということは割とよくあることではないかと思うのですが、私の場合王道と言えば、ドンキは前述の通りオペラ座、白鳥の湖はボリショイ、くるみ割り人形はロイヤル、眠れる森の美女はマリインスキーただし当時はまだキーロフでした。
どれもその演目を初めて観たバレエ団です。親が買ってきてくれたこれらのDVDを飽きるほど観ました。嘘、全く飽きませんでした。

親の趣味でもあったため、大人しく椅子に座っていられるようになると、よく公演に連れて行ってもらいました。公演に慣れたり鑑賞のマナーを身につけたりといった目的もあり、初めのうちは比較的安価な国内のバレエ団の公演や、くるみ割り人形などの子ども向けの演目をよく観に行っていました。
そのうち海外のバレエ団の来日公演や、世界バレエフェスティバルも観に行くようになりました。親がつけていた観劇記録によると、小学校卒業までに観た公演は約60公演。一部ミュージカルなどもあったと思いますが、ほとんどがバレエの公演です。

やはり生で観る公演というのは、DVDとは全く違いました。
どんなに素晴らしい公演の映像でも、生のステージには及ばない部分があると思います。
何が違うのか、と聞かれると一言では表せないのですが、作品の受け手として、劇場の空間の一部として、客席で舞台を観るという体験は、それを経験した人だけに分かる独特の感覚を内包していると思います。
いま、目の前で、登場人物たちの心が動いて、彼らが会話をして、物語を紡いでいるんです。バレエの公演には古典の全幕もの、ガラコンサートなど複数の形態がありますが、どのような公演でも生で観ることには特有の喜びや感動があります。
キャストが全く同じ公演でも、たとえ主役から立ち役まで舞台に乗るダンサーが全員同じだとしても、2つと同じ公演はありません。舞台は生物という言葉を聞いたことがありますが、それに近いかも知れません。
同じ演目でも、同じキャストでも、公演が違えばそれは全く違う体験だと思いますし、同時にそこには共通して生の舞台だけにある魅力、感じられる喜びと感動があります。だからこそ、私は何度でもそれを求めてしまうのだと思います。
私はきっと一生、劇場に足を運ぶことを、少なくともそれを望むことを辞められないでしょう。

うまく言葉にできず、なんとなくふんわりした感じの表現に止まり続けていますが、もともと筆の赴くままに書いている、正確には指の赴くままに打っておりますので、このまま参りましょう。

心が打ち震えるような、鳥肌が立つような、素晴らしい舞台に出会えることは、本当に少ないのだろうと思います。
素晴らしいダンサーやパフォーマンス、作品を挙げればキリがないですが、一方で衝撃を受けたり、終演後に放心状態になったりするほどの公演というのは、そうザラにあるものではありません。少なくとも私にとっては。
それは、ダンサーや劇場のスタッフの方など、舞台を創る側の実力やコンディションといったことだけではなく、それを観る私自身の心身の状態や嗜好に大いに左右されるため、というのも大きいと思います。
ダンサーが踊る、演じるものを、客が受け取って初めて公演であり、観劇という体験が生じるわけです。
そういった意味で、舞台は演じ手だけでは成立しない、それを受け取る観客がいて初めて成立すると言えるかも知れません。これは、配信公演が観客の体験という点において、生の公演を超えられないと感じた要因の一つとも考えられます。

私自身、常日頃こんなことを考えているわけではないですし、バレエや観劇についてずっと同じスタンスで居続けるかも分かりません。
もしかすると1年後、1ヶ月後、あるいは1週間後にはもう全然違うことを言っているかも。だからとりあえず記録として。

長々と書いてきましたが、唐突に、そして最後に、蛇足のようなまとめのようなものを。

1年ほど前までは定期的に文化会館などに足を運び、公演を楽しんでいたのですが、コロナ禍において、生の公演を観るということはなかなか難しくなりました。
配信された公演を観て、配信のメリットに気づくこともありましたが、生で観ることに敵わない部分は絶対にあります。
早く日常が戻ってほしいなあ。
戻るというか、できればその後もっと劇場や観劇が近い存在である社会になっていったらいいなあなんて。

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