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冒険自転車[連載小説 #02]

 僕は、今日は坊主の二人に聞いた。
「今日は一匹も連れていないけど、楽しい?」。
 丈雄は「こんなものだよ。そんなに都合よく、釣れない。でも、好きだからね」と。
 たしかに、僕は、なんとなく二人に付き合っているだけで好きと言うほどではなかった。
 丈雄はスピニング・リールを回し、釣り糸を引いた。そして、再び竿を構え、投げた。
 とは言え、二人と付き合うのがいやなほど、釣りが嫌いでもなかった。
 潤に声をかけた。
「やっぱり、釣りは好き?」
「サッカーの方が好きかな」
 潤もリールを回し、再び、竿を投げた。
 潤はサッカーがうまかった。当時、僕らの小学校で十本いや五本の指に入るぐらいだった。中学でサッカー部に入部して、レギュラーでやはり、そのぐらいのポジションだった。
 それでも、プロにはなれなかった。
 大人になってから、母から聞いた話だと、Jリーグになる以前の企業チームの入団テストは受けたようだが、そこでは通用しなかったと。
 まだ、Jリーグ発足前だったが、やはり競技人口が多かったサッカーのプロの世界は甘くなかった。
 
 丈雄と潤は彼らの父親とよく本牧ふとうの岩壁にも出かけているのは聞いていた。
 僕らも本牧に行けばいいじゃないか?と言われそうだが、中央市場ほどは近くなかった。本牧は自転車だと一時間ぐらいはかかる。
 それに本牧と言う、僕らの街から離れていたところはよくもわからなかった。

 陽が下がりはじめ、海風が冷たくなりはじめた頃、潤が。
「おなかが減ってきたなぁ」
 丈雄が「ニチイのスガキヤへ行こうか?」
「そうしよう」と潤が相槌をうった。
 僕らは、釣具と餌を自転車のハンドルについているかごに入れ、東神奈川のニチイへ向かった。
 この餌のミミズは持って帰ったのはいいものの庭に放置していたら水分を失い使えなくなったしまった。こんなものだ。

 中央市場から東神奈川までは僕らの自転車でも十分ぐらいだ。横浜ノース・ドックの入口の交差点を曲がり、東神奈川駅前のトンネルをくぐって行く。
 僕らは、東神奈川ニチイの四階にある、すがきやに入った。東神奈川ニチイはできたばかりで、ニチイの隣にスカイハイツトーカイと言う、今でいうタワーマンションである28階建てのマンションが隣接していた。建築当時は日本で一番高層なマンションだった。釣り道具は自転車のかごに置きっぱなしだ。盗むものもいないだろうと思ってもいて、そのとおりだった、
 三人でスガキヤに入って、僕はボックス席の番になった。
 ところで関東にスガキヤがあるのと思われた方がいるだろう。スガキヤはかつて関東に進出していたのだ。いまは関東にはほぼない。

 僕の家の小遣いは当時で300円。すがきやのラーメンは280円なので、僕の小遣いの一ヶ月分だ。僕はラーメンを食べられなかった。ここで使うと他のものを買えなくなる。今日は釣りの餌を買うためにお金を使ってもいた。いまどきはこんな小遣いの子どもなどいないだろう。僕は不幸だったか?それは違う。まだそんな時代だったのだ。二人の小遣いの額が知らなかったがせいぜい千円だろう。大人は子どもに過度なお金を与えなかった。
 丈雄と潤がラーメンを持って席に戻ってきた。
 すがきやは白いとんこつスープのラーメンだ。美味しそうだった。うらやましそうに僕が見ていると、潤が。
「視広、一口、食べる?」と言ってくれた。
 僕は、喜んで、「うん」と。
 丈雄も「視広、一口、いいよ」。
 二人ともやさしかったのだ。やはり、親友だった。三人で微笑みあった。
 二人が食べ終わって、今日の釣果(もっとも、なかったのだが)などを話し終わったタイミングで僕は言った。
「ペロに行きたい」
「パソコンを見に行くの?」と潤。
「うん」
「じゃあ、行こうか」

 マイコンショップ・ペロは同じ四階にあった。
 このマイコンショップはまだパソコンが8bitの時代に存在した。僕の記憶ではファミコンが出て、ゲームがパソコンよりファミコンになったあたりか、パソコンが16bit時代になってビジネスユースが強くなった頃にこの店も含め店舗展開が終わっていたと思う。
 この時代は、おもしろいもので、これも僕の記憶だけでいまのネットにはアーカイブがないが街の当時のナショナルのお店でまでパソコンを取り扱っていたので。21世紀に入りたての頃の秋葉原ではその頃の名乗りでメーカー専売店があったり、ポスターなどが貼っていたお店があった、いまではまったく考えられない。
 いまの実写よりリアルなコンピューター・グラフィックと比較するとチープなコンピューター・グラフィックのデモを描いているモニター。この頃のモニターはいまよりはるかに小さく、ブラウン管だった。色数も16色はかなり高性能だった。それが5台くらい輝いていた。宇宙や星座を描いていた。いまになって思えばチープいやロマンがあふれている。僕らのエモーショナルな部分には響いていた。その光景こそが僕らの宇宙だった。その宇宙は深く、そして遠い世界。

 僕は一台のパソコンのキーボードのストップキーを押した。WindowsならCTRL+Cだ。
 そして、BASICコマンドの「LIST」を入力して「Retuen」キーを押した。
 プログラムのコードが表示された。
 丈雄に「視広、わかるの?」
 僕は正直にわからないと答えた。
 潤が「おもしろいの?」と。そりゃ、そうだ。単なる英単語の羅列だ。そんなものがおもしろいとは普通は思わない。
 それでも、僕は「うん、なんとなくおもしろい」
 そして、「Run」を入力してデモを再開させた。
 この頃、僕が覚えていたBASICコマンドは「Run」「Load」「List」の三つだけだった。プログラムのコードなどわかるわけがない。それでも見たかった。
 僕は「こんにちはマイコン」と言う、パソコン入門のコミックを読んでいて、この三つのコマンドだけを覚えていた。
 僕のおじは大手電機メーカーの研究者だったので、おじから話を聞いていて大手企業では大型コンピューターが使われはじめたことは知っていた。それが身近になりはじめたのがこの時代だ。銀行がキャッシュディスペンサーを導入しはじめていた。高度に情報化された社会に入るのはもっと後だ。まだスタンドアローンのコンピューターで家庭ではゲームとプログラムを知的に楽しむためだけのホビー用途しかなかった。だが「コンピューター」と言う用語はアニメ、SFなどの創造の世界だけのものではなくなりつつあり、僕らの現実に現れていた。家庭用コンピューターの用途も世界が探しはじめていた。

 僕は学校を卒業してシステム・エンジニアになった。日本経済のバブルが破裂した頃だ。新卒の同期と話をすると、この年齢からコンピューターに興味を持っていたやつは多かった。まぁ、その僕よりもっと優秀な連中との競争には敗れ、そして苦労をしたが。それはまた話そう。
 丈雄が「うちにも、こんなのが欲しいなぁ」。
 潤も同意したようで「そうだね。僕の部屋にもあるといいな」。
 僕も「僕も家で自由に使いたい」と。
 実は、この三人とも、この数年後に自宅でパーソナルコンピューターを持つことになるのだ。これらが中古市場に出はじめて、安くなりはじめたからだ。それで手に入れる敷居が下がってきた。この後、ファミコンが出始めるが教育用にはゲームしかできないファミコンよりパソコンの方が言われていたからだ。三人の母親の意見が一致したかはわからないが、そういうことになった。そもそも、親たちにしても職場でコンピューターに触ってそう感じたわけでもなかった。まだ、職場にパーソナルコンピューターなんてものはない。進んでいる企業でメインフレームの端末があるぐらいだ。なんとなく、そういう情報、コンピューターは教育に言うといわれた。みんな、それを信じていただけだ。コンピューターがかつてのそろばんほど普及する時代が来るなどは誰も信じていてはいなかっただろう。僕らにしても同様だ。いまみたいな時代が来るとは思っていなかった。
 そして、僕もそのコンピューターを使って、この小説を書いている。

このホビーパソコンの時代を懐かしむかたは多いです。

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