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お詫びの手紙を国宝にした表現力〜懈怠者で書の名人・藤原佐理の悲哀


さて、榊莫山のNHK教育の番組を見て書の魅力を知ったわけですが



そうすると「書の歴史」みたいな本を買いますわね。


買いませんか?
で、パラパラ見てみると、日本の書の歴史をたどると、だいたいどんな本でも最初に最澄が出てきて、空海が出てきて、嵯峨天皇が出てきて、小野道風が出てきて、って流れがあります。榊莫山の『書のこころ』もそうですが。


↓最澄の書

Catalogue of imported items.jpg


Saicho - Nara National Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる


↓小野道風の書

Gyokusen jo ONO MICHIKAZE.JPG


Ono no Michikaze - Replica before 1947, パブリック・ドメイン, リンクによる


小野道風まできて、そのあとにパッと場面展開をするように、なんか急に太陽が差し込むように、流麗で奔放な藤原佐理(すけまさ)の書が表れます。


↓藤原佐理の書


なんかいいっすよね。同じ対象(漢字)を描きながら、こんな違う形にしてみせてくれることに、なんかもーデザインを見ているみたいに引きこまれます。


痛快なのは、現代の残った藤原佐理の真蹟は、ほとんどがお詫びと愚痴なんですよ。


本当に佐理が書いたモノだろうと確定しているもの(真蹟)は、作品的なモノ6つと書状の断片二行しかないそうなんですが、作品的なモノ6つの中で、一番若い26歳の時の筆だと特定されている作品以外、ことごとくお詫びと愚痴です。たまんないっすね。


上記に画像で紹介してる作品は「離洛帳」というもっともらしいタイトルが付けられてますが、お詫びの手紙です。正確には、飲み友達にエライ人への取りなしを頼む手紙です。はははは。


藤原佐理は、48歳の時、48歳っつったら、当時はもうかなりの年齢だと思うんですが、九州の太宰府に赴任します。地位は高い役職(九州 総管府 次官)だったようですが、なんつたって平安時代の九州ですからね、当時京都から見ると四国とか九州とか関東ってのは罪人が島流しになるくらいの僻地みたいな感覚だったそうですから、ま、左遷です。


で、佐理もそれが不満だったらしく、時の最高権力者・摂政関白 藤原道隆に対して挨拶をせずに出発しました。


が、山陽道を西に下って山口県の下関まで行った時、これを後悔し、飲み友達で甥(妹の息子)の藤原誠信(道隆の従兄弟でもある)に道隆へのとりなしを頼みます。


それが「離洛帳」の内容です。


これがね、国宝なんすよ。


書状類の国宝ってのは2021年現在9つしか指定されてなくて、空海が最澄に宛てた手紙とか、現代に残った最澄唯一の真蹟とか、高倉天皇、後嵯峨天皇、後宇多天皇等々の真蹟が並んでる中で、飲み友達の甥にエラい人へのとりなしを頼んだ「詫び状」ですよ?


痛快ですね。なんつーか、こんな歴史上の人物聞いたことないっすわ。ほんとに素晴らしいです。


藤原佐理は、歴史書『大鏡』に登場しています。


「懈怠者、少しは如泥人とも」


と記載されています。現代語だと


「なまけもの。ぐず、のろま」


だそうです。ここんとこ、佐理を紹介する文章に必ず記載されることなんですが、『大鏡』を読んでみると、読んだっつっても現代語訳ですがね、


作者は佐理をバカにしてるわけじゃなく、なんつーか、藤原家の歴史をたどった時、


「変わった才能の面白い人がいた」


みたいに書いてんじゃないかと思うんです。十分な尊敬も込めつつ。


「世の手かきの上手(訳:あの一世に聞こえた書道の大家)」


なんつってるわけです。


で、『大鏡』を読んでみると、佐理がお詫びと愚痴ばっかり言ってた意味がわかるような気がします。


『大鏡』は、藤原北家、特に藤原道長の栄華はなぜ極まったのか、ということを190歳と180歳の老人が語り合い、それを若侍が聞いて批評する、という物語です。


作者は不明ですが、近年では源顕房を作者だとする説が有力だそうです。源顕房の母方の祖父が藤原道長です。ですから、そのくらいの時系列なんですね。主題としては、じいさんの頃のことを語ってるんです。


さて、佐理のお祖父さんは実頼という人です。


太政大臣、関白、摂政を歴任し、さらに和歌もうまかったそうで、『大鏡』でも


「すべて何事にもすぐれていらっしゃって、お心がきりっとしていらっしゃることは、世間の人の模範」


と激賞されています。


その実頼の嫡男が敦敏と言う人で、この人は30歳で父(実頼)より早く亡くなります。実頼はそれをとても嘆いたそうですが、その敦敏の嫡男が佐理です。ですから、佐理は、太政大臣、関白、摂政を歴任した男の孫で、藤原北家の嫡男なんです。


さらに、『大鏡』に一節設けられているのが、実頼の次男の頼忠です。この人もよくできた人で、関白、太政大臣として栄えた、と。この頼忠は、佐理から見ると、父の弟ですので、近しい叔父さんです。


つまり、佐理の二十代中盤まではお祖父さんの実頼が生きていて権力を握っていて、三十代終盤までは叔父さんの頼忠が権力を握っていて、その頃までは陰に日に様々な加護があったんだろうと想像できますね。


しかし、この藤原実頼の家系は、藤原北家の嫡子の家系でありながら、だんだんと権力を失います。


理由は、実頼も頼忠も、天皇と外戚関係を結ぶことができなかったからです。実頼も頼忠も、娘を入内させましたが、天皇の寵愛を受けることができず、子(次の天皇)を産むことができなかった→外戚関係を結ぶことができなかった、と。


逆に、外戚関係を結ぶことができて栄えたのが、実頼の弟の師輔の家系です。


佐理が「離洛帳」でお詫びを言ってる相手である道隆も、栄華を極めて『大鏡』の主題になった道長も、師輔の孫です。つまり、佐理から見ると再従兄弟(ハトコ)です。


壮大な皮肉、壮大な悲哀


なんか同じような人名が出てくるので混乱しますが(笑)、まとめますと、本来、佐理は藤原北家の嫡男です。


しかし、その家系は天皇と外戚関係を結ぶことができず、だんだんと衰えて、佐理の代から権力と遠ざかります。


逆に、佐理に政治や行政やお役所仕事に高い能力があれば色んな意味で何とかなったんでしょうが、佐理にそのような能力はまったくなく、しかし実は歴史に名を残すような芸術家だった、と。


ここがね、壮大ですね。壮大な皮肉というか、壮大な悲哀というか、いる場所を間違えた男の悲哀、みたいな感じがします。


なんか、そー考えてみますと、沁みますね。佐理の「離洛帳」も、微笑ましいと共に、一段味わいが深くなります。