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着物と妬み

「着物を着たいけど着て行くところがない」SNSではよく聞く言葉です。
キモノを普段に着ていると「いいですねー」と言われるので「着ましょうよ、これくらいの着付けでいいなら教えますよ」と誘っても、残念ながら乗ってきてくれる人は少ないです。多分「いいなと思うけどめんどくさい」人がほとんどで、それはいいんですが、時々強烈な恨み節が返って来て面くらうことがあります。

「自分が日常に着物なんか着たら周りから何言われるかわからないから無理」

頭に「私は田舎住みだから」とか「あなたは絵描きさんだからいいけど」といった枕がつくこともあります。あんまり言われるので、最近はいいなと言ってくる人を気軽に誘うのはやめました。これは地雷のようです。

しかし、だれに何を言われるのか??
また「実在しないご近所さん」じゃないの〜?と思って注意して見ていたら、家族にも言われるんですね…
「何にもない日に着物なんか着るんじゃない」
「目立つから一緒に出かけたくない」
ソリの合わないお姑さんや思春期の息子ならともかく、お母さんや旦那さんに言われるんだそうです。家族がオシャレするのが嫌なのか…ちょっと悲しいなあ。

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京都で高級呉服を商ってるご高齢の店主が、「なぜ着物を着る人が増えないのか?」とSNSに書いておられて、こういった事例をコメしましたら、外出といえばキモノを着るような方々とのおつきあいが主な方なので驚愕しておられました。「特別な理由なしにキモノを着ると批判されることがある」のが理解し難いようでした。そうよねえ。
自分が聞いてそりゃすごいなと思ったのは「お茶の先生でもキモノを着て歩いてると『いいご身分』と陰口叩かれる」という話でした。仕事じゃん…。常に地味にして働いてる風に見えないと叩かれるってなんなんですかね?遊びだとしても、そもそも遊んじゃいけないの?

戦後、普段着や仕事着が洋服に変わり、キモノが「特別な日」に着る物になり、さらにその「特別な日」にもわざわざ晴れ着なんか着ないという人たちが出てき、着るものにメリハリがなくなりつつあります。
自分が着ないのはいいけど、着てる人に「あんな格好して」という目を向ける場合、その本性は妬みです。本当は自分も着たいんじゃないの??? 本当はそうなんでしょうね。自分も着てチャラチャラしたいけどできない。物理的理由がない場合、自分で自分の行動に制限、いわゆる「呪い」をかけているわけです。だからできる人が憎い。同じ呪いをかけたい。とんだとばっちりですが本人は多分それに気づいていない。その人個人の不幸ですから、そんな呪いは刎ね除けねばならないのですが、同調圧力に弱い国民性なので、強い念を向けられるとよく考えもせずのまれてしまいがちです。

「お洒落には勇気がいる」
なんであれ、尖ったオシャレには批判が付きまとうもので、それをものともせず着るメンタルが人を強くします。
そこらに売ってるような着物は尖ったオシャレなんかじゃありません。でも見ればキモノだとわかりますから、キモノを特別な衣装だと思い込んでいる人からしたら批判の対象になるわけです。批判の裏にも妬みはあります。そんな批判をされたくないと思ったら着られなくなるでしょう。

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だからね。
「批判されたくないから普段には着ない」のもまた自由なのです。妬まれるのはめんどくさいものね。
ただ、それを自分で選び取ったことを自覚はしたほうがいいんですよ。これはキモノの話だけど、なんであれいい歳の大人が、自分の生き方を人のせいにしちゃダメですから。

月兎耳庵

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