【短編】クレバス-5
奏は、深い谷の底にいた。切り立った岩壁の表面は白い氷で覆われていて、触るとそのまま血液まで凍りついて壁の一部に吸収されてしまいそうな、張り詰めるような冷たさを感じさせる場所だった。
今着ているようなタウンユースでない、本格的な防寒着がないと凍死するぞと視覚にも訴えてくる場所なのに、その冷感が奏には心地よい。
宙に浮いた心地、否、奏は実際に宙を漂っていた。意識だけが肉体から抜け出したと表現するのが正しいのだろう。その証拠に目の前には氷の結晶の中に閉じ込められた奏の身体があり、奏の意識はそれをぼんやりと俯瞰しているのだった。
(どうか、このまま、このままで……)
満たされた気持ちで目を閉じると、意識は段々と薄らいでいった。
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「奏? ……気がついたのね! よかった」
「お……かあ、さん?」
先の景色とクロスフェードして、奏の視界には格子状に筋の入った無感情な白い天井と、その隅にフレームインする母の顔が像を結んでいく。
意識がはっきりするに連れ、ふわふわとした心地よさがさざ波のように引いていき、代わりに電撃のように走った痛みに奏の表情が歪んだ。
「あぁ、動こうとしないの! 足が折れてるし、他にも打ち身とか色々なんだから!」
目線だけを動かし、下半身に目をやると右足に痛々しいギプスが巻かれている。
「あらら……親子だからって、こんなところは似なくていいのにね」
「冗談が言えるなら、ちょっとだけ安心したわ。何があったか覚えてる?」
「え……と、多分、車に轢かれたのかな、私?」
「そう。あのあと病院から電話があって”意識がない”って聞かされた時は気が気じゃなかったわよ」
「あぁ……ごめんね」
「あ! それより、先生呼ばなきゃ」
母は丸いすにかけたまま枕元のナースコールにヒョコヒョコと移動していき、ボタンを押した。
程なくやってきた医師に、名前を聞かれたり、指は何本に見えるか、などを聞かれ、奏は”まるで医療ドラマの再現みたいだな”と思い、場違いな笑いを噛み殺す。
専門的な用語は奏にはよくわからなかったが、要約すると右足の骨が折れていて、他にも上半身に擦り傷や捻挫が複数箇所。要警戒なのは、衝撃で転倒した際に頭を打ったらしく、経過観察のために一週間程度の入院が必要だと告げられた。
(確かに大ごとだな)
と、どこか他人事のように奏は思う。意識がなかったのだから当事者にとっては実感が湧かず ”こんなことになってたのか、私” と思うのも無理はない。半日意識がなかったという事実も、なんだかドラマを盛り上げるエッセンスのようで不謹慎ながらワクワクしてしまっていた。とりあえず今は安静に、ということで医師が病室から出て行った後、今が平日の昼間であることに気づいた。
「あ、ひょっとして無断欠勤になってる、私」
「会社には連絡入れといたわよ。課長さん、相当慌ててたけど」
「ありがとう、自分でも連絡入れたいんだけど、私のスマホは?」
「あるけど……画面割れちゃってるから、私の使いなさい」
(あぁ、事故なんてするもんじゃないなぁ)
生活必需品へのダメージを認識して初めて奏は事故にあった不幸を実感する。番号も電話帳登録されたものを使っていたので、何番か分からずまごついていると
「あ、発信履歴にあるわよ、番号」
という母の声で我に帰った奏は、職場に連絡を入れた。電話に出たのは須藤さんだった。
「意識不明って聞いてたけど、大丈夫なの? ねぇ、ねぇ」
と無事だと分かれば、こんなニュースは早々ないと興味が先行してしまっているのが伝わってくる。早く課長に変わってくれないかな、と思いつつしばらく奏は彼女の相手をする。ようやく電話が代わられ、意識が戻ったこと、欠勤のお詫び、一週間程度入院になることを告げしばらく仕事を休むことへの了解を得ると電話を切った。
面会時間ギリギリまで母は残ってくれたが、彼女も怪我人である。「本当に大丈夫ね?」を繰り返す母に「大丈夫だから」を重ね重ね伝えるも、踏ん切りがつかないみたいなので
「あ、タクシー代渡すよ」
と財布を探すそぶりをすると
「あ、そんなのいいから! 大丈夫だから!」
と慌てて、そこそこ扱いが慣れたと言うだけある松葉杖を器用につきつつ出て行った。
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夜の病室は当然ながら娯楽の類は何もなく、ただただ暗く無感情。寝るくらいしかできることはないけど、意識が覚醒するまでに二日分を寝てしまったのか、それも叶わない。
(ああ、お母さんもこんな景色を見たんだなぁ)
とセンチメンタルになった母の言葉を思い出す。
奏もこの、感情や思考を吸い込み無に帰してしまうような病院の空気の中にあって、気が滅入りそうになる。
なぜ変化は招待してもいないのに、土足で私の生活に踏み入ってくるのだろう。
変わらないことなど許さない、とでも言うように
上を向こう、前に進もう、変革の時だ、進化しよう
と世の中は前へ前へと背中を押す大小の圧力に満ちている。そうでなくても、この世界には賞味期限が存在し、時間の経過がどうしようもない変化を強いる。そうでなくても、こんな不意の出来事で小さく日常が変えられてしまうことだってあるのだ。
(あの夢の世界に行けたらいいのに)
意識を取り戻すまでに見ていた夢、なぜか鮮明に覚えているあの世界の中にいたい。
叶うはずがないと分かりつつ願わずにはいられなかった。
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「本当に申し訳ありませんでした!」
保険会社の担当を伴って、加害者が謝罪に現れたのは翌日の日中のことだった。
男は五十代前半くらいだろうか。スーツ自体はいいものを着ているが、痩身すぎて頼りない見た目だ。事故の加害者となったことで狼狽し、萎縮しっぱなしということも手伝い、その印象はより強調されている。
「お怪我の具合はいかがでしょうか?」
「大したことない……とは言えないですが、深刻な怪我ではないということなので。こちらも、不注意で申し訳ありませんでした」
病室で互いに頭を下げ合う。
「本当に、どうお詫びしていいやら」
声の上ずりから本心なのだろうと予想される謝罪を繰り返す男、真面目さからくる行動だろうが、その根底には”許された証が欲しい”という自分の欲があるのかも知れない、と奏は思った。この男は、自分が許されるために何かしらの贖罪を望むタイプなのだ。
「では、明日も来て、あなたの話を聞かせてくれませんか?」
「私の話……ですか?」
「ええ、ごくごくプライベートの話です。どんなお仕事をされているのか。どんなことを考えて毎日過ごしているのか。ご家族は、どのような方々なのか」
真意を計りかねる、といった様子で男は口元をパクパクさせていた。隣にいた保険会社の担当も面食らっている。
「いえ、単純に人様の考えが知りたいんです。この頃……ちょっと大袈裟ですけど、生き方が分かんなくなっちゃってて、でも、仕事がある同僚を呼びつけて時間を取らせて話を聞くわけにいかないですから。一応、加害者の貴方にでしたらちょっとわがままを言っても許されるかと思いまして」
男は保険会社の担当者に目配せをする、担当者は”乗るな”と目で言っているのが見て取れるが、男はグッとうなづくと
「分かりました。では、明日また改めて伺います」
武智 孝明 と名乗った男は、深々と頭を下げると病室を後にした。
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奏は、武智はああ言ったものの、それはその場を逃れるための口約束で、あとは保険会社を通してのみやりとりして来るのかも知れないな、と思っていた。
予想に反して翌日も病室にやってきた武智は、奏の要求通りに自分の身の上話を始めた。
電機メーカーの営業をしていること。大学生の時、両親を相次いで亡くしているということ。二十代に結婚していたが、武智側起因の不妊であることがわかり、その後妻の浮気により離婚したこと。以来、家族は持たず独りで生きていくことにしていること。
自身が聞き上手という自覚もあり、話しやすいように乗せたり質問したりしたこともあったが、武智の方もほぼ初対面かつ自分が轢いて入院させた相手に無防備に身の上を明かすくらいには狂っている、と奏は思う。きっと、この男は誰かに自身の境遇を聞いて欲しかったのだろう。
結局退院日まで、毎日、武智は奏の元を訪れた。
「ひとまず無事退院となってよかったです、改めてこの度は本当に申し訳ございませんでした」
「いえ、毎日来ていただいてありがとうございました」
「とんでもない。しかし、これで本当にお気持ちが済むのでしょうか?」
「と言いますと?」
「こんな……その、簡単なことで」
律儀なのか、心根の弱さなのか、とにかく許すという言質を得ないと気が済まないのだろうか、この男は。
「そうですね……では、私と結婚してもらえますか?」
「……は?」
「いえ、別に一緒に住むわけでもなく、それぞれの暮らしは今まで通りです。私の話をしていませんでしたよね。私は、自分が変化してしまうのがとても嫌なんです。
だから結婚もせず、仕事も昇進を目指して頑張ることもせず、今をキープすることを大切に生きてきました。でも、年月の経過は否応なしに変化を強いる。そして、変わる余地のある場所に入り込んできて、強制的に変えてしまう。今回の事故みたいに。
私は、その隙間をあらかじめ塞いでしまいたいんです。無理矢理変えられるくらいなら、自分でコントロール可能な部分は先に変えてしまいたい」
毎日話を聞くうちに、武智に惚れたという話では断じてなかった。むしろ逆だった。武智に惚れる要素が全くないことを確認できたからこそ、奏はこう切り出した。
この男と書類上の夫婦になったところで、自分の感情は何も動かない。代償として奏の中の変化の余地を少しでも減らせるなら、その方がいいと思った。なるべく自分を、夢で見た氷漬けの姿に近づけたい。
この決断に何の意味があるのか、書類上でも夫婦ならお互いへの責任が発生するだろう……他人から見れば自身の選択は奇行に映ると自覚している。ただ、それで自身の内にモヤモヤと渦巻く ”変わることへの恐怖” が薄らぐと確信した。
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退院から一ヶ月、未だギプスは取れていなかったが、ドレスで足元が隠れるからということで、強引に押し切って、記念写真を撮りに来た。
親にも告げず、職場の書類手続きに必要な最小限の人にしか伝えていないこの結婚は、式も当然挙げず、写真を一枚残すに留めた。
結婚の証を残したいと、自分の中に死に絶えたと思っていた乙女が生き残っていて主張してきたわけではない。
少なくとも一つ大きめの変化の余地があった自分を自ら葬った証が欲しかったのだ。
係の人間からも怪訝な顔をされながら、花嫁らしい華美さのない黒のロングドレスを着て、松葉杖をつきながら撮影位置につく。
これは "北条" 奏 の葬式なのだ。
武智 奏は、この選択の果てに夢で見た氷漬けの自分があると信じている。
「行きますよ」とカメラマンがシャッターにかける指が、火葬場のスイッチのイメージと重なる。
自身の心中に不釣り合いなたおやかな笑みが、自分の表情に波紋のように広がっていくのを奏は感じた。
<了>
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