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「話せる」と「放せる」ー窓を開けて風を通す

「グレタ・ショック」

16才のスウェーデン人の少女、グレタ・トゥンベリさんが国連で気候変動に関するスピーチをした。その内容に賛否両論の声が寄せられている。

そんな中、気候変動という悲観的な未来を前に右往左往する現代人の姿や、たった16歳の少女の怒りのスピーチに無防備に感動したり子どもじみた反論をする大人たちの姿を指す言葉が「グレタ・ショック」である
…というわけではない(そういう言葉がすでにあったらごめんなさい)。

ここで、私が「グレタ・ショック」と名付けたのは、
あくまで、超私的な、私個人の、心の中に起きたことだ。
(気候変動は重大な課題でそれについても思うところあるけれど、ここnoteで私が話題にしたいのは、気候変動の解決法ではない。グレタさんごめんなさい。)

ここ4年ほど、私は、かなり丁寧に自分の心の中を整理整頓することに時間や労力を費やしてきた。それは、老廃物を外に出し、どんどん身軽になっていくと同時に、新しい視点をどんどんと取り入れて、どんな時でも大丈夫と思えるしなやかさ(今はやりのレジリエンス)が強まっていく実感も伴う、とてもポジティブでありながら地に足のついた、たしかなプロセスだった。それでも、どうにもこうにも、未整理なものがまだ残っている、という感じがあった。

「未整理なもの」のサインは
どうしても嫌い、許せない、と強く反応してしまうことや
ついつい力が入ってしまい自然体でいられなくなるシチュエーション
の中に隠れている。

もうすっかり自然体だなぁ、なんて思っていても、あらら私ガチガチだわ今、とふと思うことがまだあって。まぁ、焦らず、いろんな人とかかわりいろんな出来事に出会う中で「力がついつい入ってしまう部分」を探り当てればいいか、とのんびりやってきた。
そしてじょじょに、その真ん中に近づいたような気がしつつも、イマイチ、これだとつかみきれないもどかしさもかすかにあった。

そんな矢先のことである。

あのスピーチを観て以来、心の中のザワザワが止まらなくなった。
これはなんだ?

「気候変動が引き起こす未来が怖いから?」
ーYes, 懸念通りの未来が来たら怖い。正直直視などしたくない。でもそれだけじゃない。

「グレタさんが糾弾する『大人』の中に自分も含まれているから?」
ーYes, 自分も責められる側に入るのだろうかと思うといろいろと悔しいしなんだか辛い。でもそれだけじゃない。

羨望、嫉妬、悔しさ、共感、恐怖、反感、自己嫌悪…いくつもの感情がごちゃ混ぜになって何度も胸を通り抜けていく。

おそらく、グレタさんのスピーチは、とても思いがけないことに、私の心の中に沈殿していた未整理な部分にストレートにアクセスしてきたのだ。沈殿物が底に落ち切れば、上澄みは無色透明になる。一見したら、もう不純物は外に出し切ったかのように思える。でも、グレタ・ショックの波は底にまで届き、静かになりをひそめてじっとしていた沈殿物を無色透明の上澄みの中に巻き上げた。心の全体にそれは広がり、「まだ存在してた」ことを知らしめた。そして「今だよ、今これを掴んで、外に出してみて!」と私に告げているようだった。
何日も何日も、朝起きた時すでに私の心は波立ってた。
どうやら一過性のものではなく「気分転換して、いったん忘れよー!」という類のものじゃなさそうだ。

それならばやっぱり…このモヤモヤした感情のすべてをつないだ真ん中に、私の「力がついつい入ってしまう部分」の本命が隠れているんじゃないだろうか。

まさか、グレタさんのスピーチが、気候変動問題の核心ばかりか私の心の核にまで影響を及ぼすとは。我ながら意外すぎる展開だ。でもまぁ、思ってもみないところにこそ入口がある、というのもよくある話。
そういうことなら、えいっと、その真ん中に入ってみようと思った。

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さて私は、コソダテノマドという名義で
これからいろんなことをしていきたいと思っている
東京にしがわH市在住、アラフォーのおばさんです。
本音を言えば、まだお姉さん気分が全然抜けていない。
せいぜいおばさんとお姉さんのハーフくらいの気分だ。
だから、面と向かって「おばちゃん」と言われたらちょっと悲しい。
(人んちの子どもにおばちゃんて言われても全然平気なんだけど)
でも「お姉さん」と自称する勇気はもう無い。
だから自己防衛的に「おばちゃんね」と自称しちゃう、
そんな微妙なお年頃。
今のところ1児の子育て中。
職業は、よく分からない。
旅案内、ドキュメンタリー映画の配給事務局、保育士研修などを行う教育研究所
などにいたことがあり、通訳案内士や保育士の資格を持っている。
かといって、これから先、その資格をそのまま使って、職業として勤めていくかというといまいちピンとこない。
子育てに関する講座の講師を時々したり、友人と子育てサークルを運営したり、地域のママたちの対話の場作りなどもしている。
ガソリンスタンド、ファミレス、パチンコ屋、スーパーの試食などから、某R研究所の物理学研究室事務や外務省の国際会議スタッフまで、バイトとしてもわりとバラエティに富んだ職場を垣間見てきた。
今は、固定の仕事はせずに主に子育てをしている。かといって自分を「主婦」と呼ぶ気にもなれない。
表面的な職業名で、自分のことをどう表現したらいいのか分からない。どれをとっても、「私そこまでじゃないしな」という自信の無さと同時に、「これが私の仕事です」て言うのもなーという一抹の違和感がある。

ロンドンに1年留学して写真の基礎を学び、写真家を目指していた時期もあったりした。でも、それもなんかちがうなーとなった。
「写真家の」「保育士の」「通訳ガイドの」「子育て主婦の」など
自分の立場を職業名で表現できたら、読み手にとっても
「どんな人が何について書くのか」
わかりやすいだろうに、と思う。
でも、どう逆立ちしてもそのような肩書きが私から出てこない。

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ただ、その一方で、
保育の世界・旅の世界・映画の世界etc…
これまで携わってきた各業界、どこを入り口にしても
共通してたどりつくのは
「人が育つとは」「学ぶとは」「生きるとは」「幸せとは」
という問いだった。

同時に、
父との死別、悲嘆にくれる母に寄り添う日々、
やはり様々な悲嘆が重なり人格が凝り固まった祖母の介護、
多感な時期に訪れた海外で目からウロコ体験…
そんなプライベートでの様々な「原体験」
を通過し乗り越え咀嚼する中で
必然的に探求せざるを得なかったのも
「人が育つとは」「学ぶとは」「生きるとは」「幸せとは」
という問いについてだった。

感じて感じて、考えて考えて、正直世界で一番これについて考えてるんじゃないかと自分では思いたくなるくらい(絶対違うんだけど)
いろいろと不真面目で適当で飽きっぽいこのわたしが
この探求だけは何がどうしても続けてきた。
その中でちょっとつかめた回答めいたもの
あるいは、「分からない」ままでも試行錯誤しているプロセス自体に価値がありそうなもの
そんなあれこれについて、どこかに書き留めたい、という気持ちが日に日に強くなってきた。それはすでにグレタ・ショックが起きるはるか前から始まっていて、あとは書くだけ、というところまできていた。
その時に、「肩書き」というとしゃちほこばった響になってしまうが
要するに「どんな人間がなぜそれを書いているのか」ということを
一言で示したいのである。
でも、一言では示しようが無い。
それで、かわりにといってはなんだけれど、私の表現や活動などの全部に、看板となるユニット名みたいなものを付けることにした。今のところ、ユニットメンバー1人だ。今後増えても構わないし、それを事業化して会社になったりするのもあり。今のところは、単なる私のあらゆるアクションの主体として、ふわっとその意思や目的を伝えてくれるのが、このユニット名「コソダテノマド」だ。

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「子守なんて誰でも簡単にできる」
世の中には、いまだにこんな誤解が根強くある。そんなことは無い、子育てはこの上なくクリエイティブで、さまざまな学問にもつながるであろう深い問いと探求の上に成り立つ、相当やりがいのある難しい仕事だ。とはいえ、子育ては、親あるいは大人が、子を一方的に「育ててあげている」と思った途端にうまくいかなくなる。親が子に向けて、一方的に熱を入れても、子どもは幸せに育たなかったりする。子育ては、子を育てながら大人が育てられ、子を育てるために大人と大人が協働することで大人同士も育て合う…そんな人間と人間の双方向コミュニケーションの集大成のようなもの。

このかなり奥深く取り組みがいのある一大プロジェクトを楽しく乗り切るには、表面的なスキルや知識よりもなにより、根本的なマインドセット(心構え)をはじめに整えておくことが大事だ。

そのマインドセットの肝になるのが、「風通しを良くすること」だと私は思う。自分の内面に素直であること。例えば、一生懸命自分が我慢している時、他の人がのびのびとしていると、人はどうしても不満に感じ怒りを覚えるもの。「子どものために」「夫のために」良かれと思って我慢している反動で、子どもや夫にイライラしてしまう、なんてこと、よくあると思う。そういう時に、「私も我慢する、だから、あなたももっと我慢しなさい」とはなかなか言えない。そこで「私はあなたのためを思って言っているの!」という言い方で、不満をぶつけてしまったり行動を制限したり考えを押し付けてしまったり…。あぁ、私も身に覚えあります。

そんな時に、いつもイメージするの。
朝起きて、家中のカーテンと窓を開けて、部屋から部屋へ、きれいな空気が抜けていくような光景を。東の窓からはお隣さんの朝食の匂い、南の窓からは庭の花の匂い(うち庭無しアパートだけどね)、西の窓からはどこかで子どもがはしゃぐ声、北の窓からは朝早くから走る車の音…。家の中の空気が入れ替わるだけじゃなくて、いろいろな匂いや音が流れ込んでくる。小さな部屋の中でたった1人奮闘していたような気持ちだった私は、今まで目に入ってなかった景色や、新しく入ってきた匂いと音に目が覚めたような気持ちになって。そして、スーッと通り過ぎる風が心の真ん中にある押入れの戸も揺らす。
「あぁ、私、本音を言えば、さみしかったのね。ずいぶん、我慢していたんだなぁ。」
押入れの戸を開けて中からその荷物を出して眺めまわしてみる。
「これは、もう要らないや」
「だって、私、この小さな部屋の中でたった1人でいるわけじゃない。『我慢』だけが唯一のやり方じゃない。素直な気持ちで、夫と子どもと話してみよう。もっとこうしたい。こんな家族になりたいって。」
そして、ゆらゆら風に揺れるカーテン越しの空を眺めながら、お茶でも飲んで。
「わたしはずいぶんと素敵なところに暮らしているのね!」と嬉しくなる。

これはあくまでイメージで、心の中の風景のこと。
でも「風通しを良くする」ということは、余計な執着から離れて、自分の本当に大切なものをちゃんと大事にして生きていくためにも、相手に余計な負担をかけずにオープンに対等なコミュニケーションをするためにも、本当に大切なことで、その言葉どおり「風通しの良いところにいる自分」をイメージするのは、効果大、なんだよね。

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(Nepal, Dhulikel)

そんなことを思う私が、いろいろな人の心に風を通す「窓」のような役割をいつかできるようになったなら。ちょっと新しい空気が入ってくるような、ちょっと今までと違う景色が見えたり香りを感じたり音を聴いたりしてもらえるような。そんな「窓」みたいな存在に、いつかなりたい、と思う。

それから、窓ついでに「窓口」も兼ねてしまおう。
子育てしながらいろいろな迷い戸惑いがある大人たち、「知識を頭に入れること」「心を落ち着けること」「身体を整えること」…人によってその時必要としているメンテナンス内容は異なっていて、「これさえすれば大丈夫!」という万人にいつでも共通の魔法の薬はなくて。その時その人に最善のケアや学びって何なのかな。そんなことを、困っている人と一緒に考えて、選択肢を探したりそこから選び出すサポートをできたら嬉しい。そんな思いも。

さらにもひとつ言うと、nomadという言葉が大好き。
最近、自宅やカフェなどでパソコン広げてどこでもオフィス化しながら働く人たちをノマドワーカーと呼んだりするけどそれの語源。もともと、nomadというのは英語で「遊牧民・流浪の民」みたいな意味で、元来定住先が無い根無し草のようなネガティブなニュアンスもあるのかもしれないけれど、私は、「その時の最善の地を求めて永遠に身軽に動き探求し続ける」というポジティブな意味で捉えたいと思っている。「大卒・家・車・大会社への就職」これさえあれば幸せになれるあるいはこれがなければ幸せになれない、という時代は過ぎ去って「君はどういう人間なの?君はどうやって生きる?」が問われる時代にさしかかってきた今。これまでと違った人物像が“勝ち組”にまわり、古い価値観で勝ってきた人たちが“負け組”になる…そんな、立場が転換するだけの殺伐とした「進歩」なんて私は望んでないの!「このままでは負ける」と思えば思うほど「良い大学行って良い会社行って安定した暮らしさえあれば幸せになれるって信じてた」人たちは「これまでの信念が間違っていたはずがない。これからも変える気ない」と固執してしまうかも。それが、子どもへの時代錯誤的な押し付けになるのはいろいろ辛い未来につながってしまうから。だから私は、「その時の最善を求めて変化するのは、弱いことでもないし怖いことでもないし、これまでを否定することでもない」ということを「これまで頑張ってきた人たち」にこそ実感してほしいと思う。そして、勝ち負けで社会が分断されるのでなく、みんな一緒に幸せになるっていう道を探りたい。これは言葉で言うほど簡単なことではなくて、感情的にかなりの抵抗がある人も多いかと思うけれど、「新しい視点・価値観を取り入れるのは、これまでを否定することではなくて、さらに自分をアップデートしていくこと。人間の体が新陳代謝して刻々と年を重ねていくように、ライフスタイルや考え方も変化して全然恥ずかしくない」ということを伝えたい。そんな思いをこめて「みんなでnomadになっちゃおうぜ」と呼びかけてもいるのがコソダテノマドというユニット名なのです。

だから、コソダテノマドは、
コソダテする人たちの、心の中に風を通す「窓」であり
コソダテしながら迷う人たちの、相談「窓口」でもあり
コソダテしていて変化が必要な時にみんな「nomad」ライクに試行錯誤してこ!
と背中を押す…そんな幅広いニュアンスの琴線に触れることをなんでも、発信していきたいなぁと思っています。

で、こうして見てくると、窓が必要なのも、窓口が必要なのも、nomad的思考が必要なのも、なにも「子育て」に限った話じゃないのよね。
将来のことどうしよう、職場の人間関係行き詰まった、失恋して辛い…
子どもいるいないに関わらず、どんな人でもあれこれ迷うこれが人生。
それを、「個育て」と私名付けてみた。
自分という「個人」、私だけの「個性」それをのびのび活かして学んで生きてく。親も先生も学生も社長も総理大臣も駅員さんも、自分と向き合い成長していくのは等しく生きている人間の大事なお仕事のはず。お仕着せの「あるべき姿」に自分を寄せていくのは成長ではなくて、適合。「世界にたった1人の自分」として生きていくことって、けっこう難しいけれど、それをいくつになっても探求していくことを「個育て」と呼んでしまおう。
しかもこれ、子育てにしろ、個育てにしろ、たった1人じゃできない。相手がいるから自分が分かる。誰かと比較するから自分の持ち味も立ち上がってくる。人と比べて優劣を競うという意味ではなくて、それぞれの形や持ち味って、関係の中からしか見出せないものだから。子に教えられたり、知らない通りすがりの人に助けられたり、無数の関係性のネットワークの中で、私たちやっとこ育っていくもので。だから、1人で何かを育てるなんてことはできません、と腹を括って、みんなでCO育てしてるんだって思った方がいろいろはやい。
こんな発想でいたら「孤育て」なんて状況も生まれにくくなる。
そんな全部を込めて、「コソダテ」と私は呼んでみた。

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コソダテノマド

の看板をかかげてあれこれ言ったりやったりしたい私はところで
自分自身もバリバリの「ノマド」だ。
良い意味で言うと、「よりしっくりくる」を求めて、転職したり引越しするのも平気だし、自分の意見も、素直に丁寧に、間違っていたら改めてしまう。変化ならいくらでもドンと来い。新陳代謝大好きだ。
ただ悪く言うと、なかなか、模索が終わらない。
それだからこその、グレタ・ショックなのだ。

あっれぇ、そうか、まだそんなに沈殿してたのか…。
そんな私には、このnoteという場で、「コソダテの専門家」然として、読んですぐ役に立つコソダテノウハウを颯爽と書き記す、なんてことはできなさそうだ。
ある程度回答めいたものもすでにあるし、わりと具体的なノウハウの話に触れることもあるかと思うけれど、どちらかというと、まず私自身の沈殿物をすくい上げていく作業から始めた方が良い気がしている。そもそも、「コソダテの専門家」てなんやねん。「教育の専門家」「保育の専門家」はたしかに存在する。でも、人が1人生きるということについては、全員が専門家であるとも言えるし、全員がアマチュアであるとも言える。
だから私も、その一部を切り取って、文章にまとめたり、講座の中で共有したり、いろんな活動をすることはできても、そもそもの話、決して、だれかの上に立って教えを垂れることができるような分野を取り扱っていない。
だからあくまで、私は読み手の「戦友」みたいなもんだと思っている。老若男女、自分のコソダテに奮闘してるーそんな皆さんの横に並んで、「こんな考え方どうですかねー」とか「こんなことがあって、ちょっとよくわからなくなっちゃいましたー」とか、諸々情報共有したい。
そして、胸に浮かんだ思いや頭に浮かんだアイデアをどこかにまとめて記録していくことで、自らのちのち振り返って再検証しやすくもしたい。それを、自分のクローズドなノートにこっそりメモるだけじゃなくて、みんなで共有することで少しでもフィードバックをもらえたら、間違ってたなとか足りなかったな、て気がつくことができる。そんな時は「訂正しますー」「追記しますー」とあとからどんどんアップデートしていきたい。
そんな、私自身のコソダテのアーカイブ保管と、アップデートのための検証の現場がほしい。
それが私にとっての、noteの役割。
だからここは、私の具体的な活動と連動して宣伝や報告をするブログではなくて、私の「自己表現」の場、と開き直ってしまうことにした。
「表現」と自ら言うのはちょっとこそばゆい。でも、私はずっとそれをしたかった。「自己表現!」のびのびと、思ったことや考えたことを作品にしたい。ここに書くものは、私の作品。私のコソダテの証。
そういう場所があると思うだけで、あぁ、なんだか、ふっと軽くなります。

なぜなら、「話すこと」は「放すこと」だから。
どんな自己表現も許され、受け止められる場があるということが、人が安心して飛躍していくきっかけになるから。
「みんないろいろあるからさ」と誰もが嘆きやニーズを胸のうちに封印し(風を通さずに)、無自覚にあちこちでだだ漏れさせているせいで、数々の行き違いや押し付けや対立や分断が起きていると思うから。
だったら、「みんないろいろあるからこそ、お互いにそれを共有しあい、消化と昇華を助け合う」という、今までと逆の方法でやってみれば?と思うのだ。

そして、私がプライベートで個人的に学んできたこのような考え方は
罪を犯した人たちの更生
引きこもった人たちの社会復帰
ちょっと勇気が出ない人たちの背中を押すコーチング
乳幼児期の子育てや教育
よりクリエイティブでレジリエンス(折れないしなやかさ)の高い社会人の育成
など、あらゆる「人を育てる」現場から見聞きする実感と重なっている。

だから私は、このnoteで私の沈殿物について「話せる」場を自分に与えることで自分自身の中に沈殿していたものを「放せる」ことを目論むことを許してもらいたい。
そして願わくば、書き記していくストーリー自体の中に、
「話せる(共有できる・光を当てて向き合える)」
から
「放せる(卒業できる・手放せる・昇華できる・乗り越えられる・忘れられる)」
へのプロセスが大小様々に織り込まれていくのではないかなぁたぶん…、と思っている。
結果的に、「人が育つこと」「人を育てること」について、私なりのめちゃくちゃ泥臭い具体的な「ケーススタディ」的な記録として残れば、どこかの誰かの問題の解決にひょっとして役立つこともあるかもしれない。
その全部を通じて、「みんなで我慢」じゃなくて「みんなで満たし合う」からこそ「みんなで育ち合える」っていう考え方を、ちょっといいかもって思ってもらえたら。それって、甘えとか人間がひ弱になることではなくって、これからの社会があらゆる意味で「発展」していく上で、すっごく大切なポイントなんじゃないかな、なんてことを、少しでも感じてもらうことができたら。
こんなに嬉しいことはないなって思う。

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(UK, Brighton)

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