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どっちが好き?− シドニーのお祭とロンドンのお祭

2004年から2005年にかけて1年間、ロンドンに住んでいたことがある。
恥ずかしいから最初に言っておくと、大学を卒業した後の留学期間で、すべての学費も生活費も親が出してくれていた。恵まれた小娘の贅沢な学びの時間だった。カッコよく自分で稼いだお金をためて渡英したわけではない。たった1人なら諦めていたかもしれない渡英だ。とはいえ、その1年間は私にとってとっても大事な時間だった。原体験に近いものの一つ。これからも折に触れてこの頃のエピソードが登場するんじゃないかと思う。

そんな留学先ロンドンで、同居していたMから聞いたお祭の話が印象的だった。
当時のロンドンでは「フラットシェア」と言って、いわゆるシェアハウス的な暮らし方を好む若者が多かった(おそらく今もそうだろう)。日本なら大学生や新社会人がよく住んでいるようなワンルームアパートはstudioと呼ばれ、家賃も割高で、ちょっとリッチなイメージ。それよりも、キッチンバストイレリビングを共有し、それぞれの寝室があるシェアスタイルが学生や若者にとっていろんな意味でありがたかった。
私もそのスタイルで、1年間の間に、2箇所のフラット暮らしを体験した。その後半に住んだ家のオーナーだった人がMだ。
彼女は、オーストラリア人のお母さんと、イングランド人のお父さんを持つ「ハーフ」だった。子ども時代をパプア・ニューギニアをベースとした旅の中で過ごし、あれこれあって今ロンドンの大学で研究をしながら小学校の教師もしているという、30代半ばのチャーミングな人だった。

たった一年しかいなかったロンドンで、何度となく足を運んだ場所がある。Trafalgar Squareートラファルガー・スクエアという大きな広場だ。繁華街にも近く、通っていた学校からも徒歩圏内。そもそも、ロンドンの都心は、東京23区の半分ほどの面積しかないから、一度都心に出てしまえば、バスや徒歩でかなりの場所へ行けてしまうわけなんだけど。そんな中でも特に、通りがかりやすい位置にあったのがトラファルガー・スクエアだった。

「広場」というスポットは、日本人にはあまり馴染みがないかもしれないが、ヨーロッパでは、ほとんどすべてどんな町にも必ずあると言っていい施設の一つ。教会、宮殿(城)、広場、マーケット。大都市の真ん中には必ずこの4点セットがあると言っても過言ではなくて、その中でも広場は、人が集う場所としてすごく大きな機能を果たしている。

公園ではなくて、広場。
もちろんロンドンにもハイドパークやグリーンパークなど市民に愛されている公園がいくつもある。そこは、人々が思い思いにくつろぐ場所だ。イベントも時にはあるけれど、基本的には人が集う場所というより、それぞれの時間をゆったりと過ごすための場所。
それに対して広場は、何かのついでにちょっと立ち寄り、ひとりでのんびりしたりする「公園的」な使い方もできるはできるけれど、「人が集う」必要のある時にその威力を発揮する。
広い空間、ちょっとしたモニュメント、歩行者だけの空間、柵で囲われてないオープンな空間。そんな、ぽっかりとしただだっぴろい場所が、公園の奥の方とかではなく、大通りや繁華街のすぐ脇に、あるいは町の本当にど真ん中に当然のごとく現れ、人々が自由に通過し時に集まることができるハブのような役割を果たしている。
何かの祝い事、行事、アピール行動etc
「集まる必要がある」といったらあそこ。

ちょっと話が横道にそれるけれど、
そんな広場があるからこそ、ヨーロッパでは、対話を重ねる民主主義や、市民が声をあげ世論を動かすことができる政治のスタイルが、自然と生まれやすかったんだと思う。ローマのど真ん中にある2000年前の遺跡「フォロ・ロマーノ」のフォロは「フォーラム」の語源でやはり「人が集まる場所」の意味だと言う。人が集まり、自由に対話や議論をしていた場所。古代から、そういう場所ありきでヨーロッパの都市計画は進められてきた。
東京でデモをしようと思うと、国会議事堂や官邸前の、路上に集まるしかない。それは、人々の思いを表現する舞台を真ん中に、みんなが通過しながら参加できるような、「何かが起きている」「誰かが声をあげている」そんな風景が自然と街の中に馴染むような構造とは到底かけ離れていて。はじめからそこに参加するつもりだった人だけがそこに集い、みんなで一方向を向いて主張をするしかない。そこに大勢の人がいるにもかかわらず、「集っている」「対話がある」「表現できる」「表現を受け止められる」「化学反応が起こる」「気持ちが落ち着く」「仲間意識が流れる」…そういう、実感がほとんど生まれにくい。
まちの空間がどんな形や見た目や構造をしているかということと、市民の政治参加とか当事者意識とかコミュニティの活性化とか、絶対関係あるよな、と思う。

話を元に戻して…
そんなロンドン市民のハブ、トラファルガー・スクエアでは、年中いろんな行事をやっている。
時は911後、ブッシュ大統領率いるアメリカがイラク攻撃を始めてブレア首相もそれに続いた。それに反対する市民のアピール行動に行き当たったこともある。
大晦日にはカウントダウンの花火。
2月はじめには、中国の正月を祝うお祭り。
ラマダンの時期はどうだったかな…
LGBTの自由をアピールするレインボーパレードももちろんここで。
ロンドンオリンピック招致のためのアピールイベントもあった。
何かと言えば、ロンドン市民はトラファルガー・スクエアに集った。
そして、その近くを通り過ぎる人たちも、それを「ほほう」と受け止めた。

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(UK, London)

なんだか素敵だなぁ、そんな話をきっと、同居人のMに話したんだと思う。
それで、こんな話をしてくれた。
「私はオーストラリアに住んでたこともあったから、よくシドニーとロンドンを比べるの。
シドニーもすごく多民族な街でね。中国の人たちのお祭り、イスラムの人たちのお祝い、キリスト教の行事…そういうのを、お互いに刺激し合わないように、全部やめよう、ってことにしたんだよね。みんなで自粛。
でもロンドンはその逆でしょ。中国のお正月も、なんでもかんでも、街をあげてお互いに楽しもうよ、そういうのあるんだ、いいね、っていう発想。
私は、シドニーもロンドンも好きだけど、その点ロンドンの方がずっと素敵だなって思う。」
ほほ〜!そうなのかぁ。

中国の正月を祝うために、ロンドン市警がニコニコしながら広場を守る任務を遂行している…そんな「街ぐるみ」の空気感。
どこでも当たり前じゃないんだね、やっぱり。
良いなぁ良いなぁ。
「いろんなこと感じる人がいるから、みんなそれぞれだから」…
「だから自粛しよう。みんなちょっとずつ、我慢しよう。波風立てないでいこう」
というのも優しさかもしれないし、ある意味分別がある態度なのかもしれないけれど…
「だから、この街の住人はみんな仲間だよってことで、お互いに祝っちゃおう、楽しんじゃおう、あるいは、嘆きのアピールに耳を傾けあい、人知れぬ頑張りを讃え合おう。お互いの文化や世界観を、『そういうのもあるんだね』て受け入れ合うことにしよう」
という優しさや分別の方が、ずっと深くて広くってあったかーくて、そして、持続可能な気がする。

今、Brexitで揺れるイギリス。世界中に植民地を作り多くの命や資源を奪い、今も続くパレスチナやアフリカの分断の原因をも作ってきたイギリス。決して美化できる理想郷じゃない。だけど、いろいろと酸いも甘いも吸い尽くしてきたある種の成熟社会の貫禄というか、粋なところあるじゃん〜みたいな。あるいは、罪滅ぼししようっていう真摯な思いがそういう街づくりにつながってる面もあるのかな〜みたいな。

それ以来、何か迷った時に、ふと思い出す。

これは、シドニー式でいく?それともロンドン式でいく?
私が好きなは、ロンドン式だったよねって。

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noteを始めることができて嬉しい。
前回、コソダテノマドに込めた意味を解説しつつ
私の沈殿物をすくい上げていこうなんて宣言までしてしまった。
でも、すごくドキドキもしている。
書いてみて、改めて、自分の考えてることってロクでもないことばっかりなんだってことが明らかになるだけだったらどうしよう、とか
私の想像力が足りなくて傷つける人がいるだろうし、炎上はしたくないし、とか
とても気弱な自分がいる。

なにが引っかかるのかというとそれは、前回もちょっと触れた「自分語り」に対する抵抗感。
時々Amazonのレビューとか動画サイトのコメント欄で
個人的な思いをつい吐き出したユーザーに対して
「自分語りやめろ」的な返信がついているのを見かけることがある。
それに、私自身も、あーだこーだと思ったことをSNSに書いていて
「語りすぎは良くない」と釘を刺されたこともある。

この「自分語りはチョット」という圧。
これがイマイチ、分かるような、分からないような、である。
これについて私の思うところを今日は書き切ってみる。

たしかに、「みんなで話し合いましょう」という場で
1人の人がずーーーっとマイク握って話さない、となると辟易するし
相手の話を分かったつもりで遮って自分の話題に持ってってしまう人と話してるとすごく疲れたりする

ナマの対話の場では、
ある人が話すことで、他の人が話す時間が物理的に減る
という力関係があるから「不公平感」が生まれる
だから、誰かがひとりだけ自分のことを語りまくるのは嫌われる
それは、よくわかる

でも、それがネットだったり紙だったり
読み手がそれを「読むかどうか選べる」フラットな場であれば。
書き手がいくらでも語りたいだけ自分を語ろうとも
読んでいる方が読みたくなければスルーすれば良いだけだとしたら
ある人が話すことで、他の人が話す時間が物理歴に減らないのであれば
特に「不公平」でもないし、別に語りたいだけ語れば?
と私は思ってしまう。

+++++

といいつつも、複雑な気持ちにもなる。
昔、私が小・中学生くらいの頃
母と同世代のご近所さんが、お母さんを亡くされた。
そして、そのお母さんの生前の人となりや思い出について
あれこれ書かれたプリントを近所の友人たちに配った。
それを受け取った私の母は、ちょっと戸惑っていた。
それを見せられた私も、けっこう戸惑った。
こんなもの…いちいち人に配る?

だってさ、
家族を亡くした人なんてたくさんいるじゃない。
それをいちいち、まわりの人に
「母はこんな人でした、私は悲しいですー!悲劇のヒロインですー!」
ってやる?やらないよね?
なんかすっごく、自分中心の人なんだなー。へぇ。

そんな風に思ってしまった。

でも今、SNSが発達して、プライベートのココロの動きをあれこれ友人たちにオープンに伝えることが普通になっている。
その中で、身近な人の死について、報告したり思いを綴ったりする人もいる。

それを見て、
「そんなこと、いちいちする?」なんて思わない私がいる。

あの時のご近所さんは、SNSと同じことをやりたかっただけかもしれない。
誰にともなく、残しておきたかったのかもしれない。
お母さんの姿や自分の気持ちを。
それをなんとなく、受け止めてもらいたかっただけかもしれない。
あまりにも感情を丸出しに紙媒体でそれを伝えようとした姿が、派手に映ったのはたしかだけど、でも、感情を丸出しにできる場が他になくて、でもそれを必要としていて、それでああいう形になったのかもしれない。

で、あの時そのご近所さんに対して抵抗を感じた私自身は
感情を丸出しにする場が、やはりなかなか見つけられずにいた。
自分が抑えているものをダダ漏れさせている他人を見た時
「甘え」とか「自己中」とか責めたくなる…
そういうシステムが人のココロの中にはある気がする。

もし私も、身近な人を亡くした痛みをもっとオープンにみんなに伝えてそれをまわりが受け止めてくれる、みたいな環境の中にいたら
「あ〜あのおばちゃん、今それが必要な時期なんだね。がんばれがんばれ〜」
としか思わなかったかもしれない。

「自分がたり乙」「自分語りツツシメ」
「まだそんなことで一喜一憂してるの?私はとっくにコントロールしてるのに」
そんな声が自分の中にあった。
でも、SNSもネットも無かった時代だし、
それがそのご近所のおばちゃんに伝わることは無かったってだけ。

私の中にもそんな両面がある。
「自分語りはチョット」と圧をかけたくなる自分と
「自分語りどんどんすればいいじゃん」と開き直る自分と。

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さてそんな私自身。
正直に、本音を言うと…
自分のことを話すのが、なんだかんだ言って、好きだ。
自己承認欲求やら自己顕示欲やらが強すぎるのか?
あんまり喋りすぎてもな…
と、話しすぎないように話しすぎないように自分を抑えることが多い。

ただその一方で、
もっともっと人の話を聴くことを上手になりたい私もいる。

なんとなく、なんとなくだけれど、こういうことなのかもという気がする。

「自分語りはチョット」という圧の中で
「みんないろいろある中、黙って頑張ってるんだからさ」という空気の中で
「ですよね、私なんぞが自分のことばかり話すのもはばかられますよね」
と、感じたことや思ったことを思い切り表現しないように、抑えて抑えて生きている。
すると、抑えた感情やアイデアが、カラダの中に、アタマの中に、ココロの中に、どんどん溜まっていく。
なんかすごく、いろんなものが溜め込まれている感覚になる。
溜まったものは、やっぱり、自然と外に出したくなる。
だから、はい、SNSですよ、はい、対話の時間ですよ
「どうぞあなたのことを話していいですよ」
と言われると、止まらなくなりそうな自分がいる。
でもそれは、すごく自己中でみっともないことだから、やってはいけない、とブレーキがかかる。
結局、まわりからは「すごく語っている」と思われている(かもしれない)上に、自分の中には「全然語り足りてない」というフラストレーションが残る。
このフラストレーションがおがくずのように、感情や思考や行動の隙間にたくさん挟まってくると、一つ一つのアクションに対して非常に腰が重くなる。あれこれめんどくさくなる。
だから、クリーンアップしたくなる。
「出したい」という気持ちがさらに強くなる。
そうすると、もっと人の話を心込めてアタマからっぽにして聴きたいのに、聴くことに集中できなかったりする。

よく、「息はまず吐き切らないと次が吸えない」と言われたりするけど、まさにそれ。吐ききれてないせいで呼吸が浅い。呼吸が浅い人って、なんとなく落ち着かなかったりする。的な状態が、アタマとココロに起きているような。

だから…「自分語りはチョット?」
いやいや、いいんじゃない、語ればいいんじゃない。自分の胸のうちだけで反芻してきたこと、至極プライベートなこと、フツウならわざわざ人に言わないようなこと、かもしれないけど、私は、どこかに、外に、出して、目に見える形にして、そうしないと、次にいけない性質なんだからきっと、もう、恥ずかしくても自己中でもなんでもいいから、思い切り全部出してしまう場所を自分に与えた方が良いんじゃないか。

あのご近所のおばちゃんの、手紙。
「誰でも肉親の死なんて体験するのに。よくもまぁこんなに感情をあらわに悲劇のヒロインになれるわね」と思った私は、
「みんないろいろあるんだからみんなで我慢して秩序を守ろう」
というシドニー式で生きようとしてたしそこから外れたおばちゃんを批判したがってた。
でも、そうじゃないのかもしれないと今は思っているのだから。
「みんないろいろあるけど、その形も大きさも種類もさまざまだよね。それをひとつひとつ、表現したらいいんじゃない?だれかの参考になるかもしれないし、だれかの励ましになるかもしれないし、何より自分の胸の内がスッキリするもの。スッキリしていた方が、人の幸せを喜び、人の不幸せを悲しむ、そういう素直な自分でいられるんだよ。物事がねじれないで済むのよ。やさしい世界になるのよ。」

だから、
「みんな仲間だよってことで、お互いに祝っちゃおう、楽しんじゃおう、あるいは、嘆きのアピールに耳を傾けあい、人知れぬ頑張りを讃え合おう。お互いの文化や背景や世界観を、『そういうのもあるんだね』て受け入れ合うことにしよう」
そういうルールで、私はやっていくことにする。

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いやぁ、大英帝国の歴史まで持ち出して、壮大な言い訳をしまったな。

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(UK, London)

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