見出し画像

心にも毛糸にも「もつれ始めないためのひと工夫」を

数年前、子育て関係のある講座に参加していたときのこと。
講師の先生が参加者に向かってこんな質問をした。
「自分はヒステリックになることがあるな、と思う人ー?」
恥ずかしながら私も手を挙げた。
会場を見渡すと、挙手した人としてない人の割合は半々くらいだった。
それを見た先生は
「はい。ありがとう。半分くらいですねー。
抑圧したものはいつか爆発しますからねー。うん!」
とさらっと、でもちょっと、
挙手しちゃった人たちを励ますような感じのコメントをして、
話題は次のことに進んでいった。

え…
「ヒステリー」なったことある人、半分しかおらへんやん!
(生粋の東京人ですが驚くと関西弁になります)

そうなのか。
このたった1回の挙手が日本社会あるいは地球全体の統計と
どのくらい合致しているかは不明だけど、
おそらく、そんなに極端にズレてもないだろう。
おおむね、半分くらいの人は
「ヒ ス テ リ ー に な っ た こ と が な い」
私の中ではけっこう衝撃だった。

とはいえ私も、そういえば
結婚するまで自分がヒステリーになることに気づいていなかった。
実家ではそんな姿をさらけ出せなかったのか…
それとも
実家じゃヒステリックが日常風景すぎて気がつかなかったのか…
事実がどうだったのかもはや思い出せない。
いずれにしても、「あれ、自分ヒステリー出てる!」
と気づいたのは結婚して夫と暮らし始めてからのことだった。

ちょっとした喧嘩にすごく激昂してしまい
一人でシャワーを浴びながら地団駄を踏んだり
叫んでしまうようなことが何度かあったのだ。
うちの夫はなかなか珍しいくらい「話を聴いてくれる」タイプの人。
小さな行き違いはあるにしても、根本的にはすごく感謝してる。
なんせ、ホワイトデーにサプライズでフルーツサンドを手作りした上にそれを市販品のフリしながら渡してくれるような、ほっこりキャラなのだ。
(いきなりおノロケぶっこんですいません)

それなのに…何がそんなに頭に来るのか…自分でも謎…

「あれ、私、ものすごくヒステリックだなぁ」
「私にこんな一面があったのか」
「でも止まらん。むくむく怒りが湧いてきて、出さずにはいられない!」

怒りに駆られる自分を冷静に観察するもう一人の自分がいて
「ヒステリーがおさまるといいなぁ」とどこかで思っていた。
そんな私にとって、
「抑圧したものはいつか爆発します」
という先生の説明が、なんだかとてもしっくりきた。

「抑圧したもの」
もう、いつの何だったかも覚えてないくらい昔のことも含めて
繰り返し繰り返し、口にせずにそっと胸にしまってきたもの。

例えば
「さみしい」「悲しい」「怖い」「いやだ」
そういう無数の、出口の無かった想いたち。
そこにあるのに、無いことにして、出さなかったもの。

それらは、綺麗に蓋の中におさまっていることはできなくて
「抑圧された」という感覚になるのだ。
外から抑えられているから、中からそれを押し返す力が生まれる。
いつか飛び出てやると機会を伺っているそれらは、
何かのきっかけで外に飛び出てくる。
ぐっと押さえつけられていただけに、
勢いよく飛び出し誰も止めることができない。
そのグワっと上昇するエネルギーの感じからして、
ヒステリーの根っこに「抑圧されたもの」があるといわれたら
まさにそんな感じがする、と思えた。

そうか、私はそんなにいろいろ我慢をしていたのね。
じゃあ、それを少しずつ、外に出していこう。
一気に蓋を取ると大変なことになるから少しずつ取り出して、
いるものいらないものをより分けて、
捨てるものは捨て
忘れるものは忘れ
流すものは流し
だんだんと放していこう。
そんな風に決めてみた。

折しも、ちょうどその1年ほど前から
自分の心の中の棚卸作業をすでに始めていた私。
この、「ヒステリー」の1件は
その作業はやっぱり意味があるから丁寧に大切にやっていこう
と私の背中を押してくれた。

それからは、モヤモヤグアー!と来た時
あれこれの方法で自分の内面を可視化するようにした。

例えば

「紙に書いてみる」
…出てきた言葉をコピー用紙にどんどん書く

「書いたものを分析してみる」
…言葉だけじゃなくてイメージが浮かぶことも。図を書いて矢印を使ったりして因果関係を整理していくと客観的に事実が理解できそれだけで落ち着く

「誰かに聴いてもらう」
…同僚とのおしゃべりや、友人との愚痴り合いの中で自然と出て行ったものもあれば、夫に「この日に話をきいて」とアポとっておいて話をしたり、プロに頼ったり。

「モヤモヤ気になることは調べ尽くす」
…なんとなく気になる映画とか動画とか本とか。何かヒントが隠れていたりする。暇さえあればそういうものを観たり読んだりして心の中を整理していく。感動して涙が流れたりしたらそれも効果大。

「SNSに書く」
…誰かを責め立てる感情ダダ漏れな内容はチョット書けないけれど、分析結果とか心の動きを丁寧に書き留めて誰に言うともなくSNSにのせてみると、自分の中だけでグルグルするのとはまた違った感覚。ほんの数人でも友人たちがコメントくれたりいいねくれるというフィードバックがあることで、「自己表現を受け止められた」という実感が積み重なっていく

こんなことを続けてきたおかげで、
この1~2年は、だいぶヒステリーもなくなった。
あっても年に1回あるかないか、という程度。ほとんどゼロ。
心の奥で圧に耐えてた箱のようなもの自体が
ほとんど消えてしまったから、
そんなに怒る必要が無くなっちゃったのよね。
(だから、グレタさんのスピーチを見てざわついた時に、
まだあったかーとびっくりしたわけなんだけど)

+++++

さて、いきなり私の「ヒステリー」をカミングアウトし
過去を振り返ってみたけれど
実はヒステリー以外にもいろいろな症状があったのを思い出してきた。

診断されてはないけど軽い(?)「うつ」の兆候。
今もたまにそれっぽくなる時があるけれど
とにかく何もしたくない日がしょっちゅうあった。
むしろそれが日常。
一日横になっていて、ダラダラしている自分を責める責める。
やる気やワクワクが少しも沸かなくて
「どこか遠くへ行ってしまいたい…」と気づけば呟いている。

あるいは、「喪失の恐怖」に飲み込まれてしまう。
いつか、大切な家族友人たちみんな
お別れしなきゃいけないんだ。
置いていくのも置いていかれるのも嫌だ。
さみしい、ずっと一緒にいたいのに、別れが怖い。
もうそのことばかり考えて他のことが手につかないし
夫が無事に帰ってくるだろうかとビクビクしながらの生活。

さらには「無価値感」
自己肯定感が低い、とも言い換えられる。
何者かにならなきゃ、私はダメだ、また私だけできなかった、フツウの人ができてることが私にはできない、努力が足りないんだ、気合が足りないんだ、調子に乗っちゃダメなんだ…
と息をするように自然に自分にダメ出しをしてしまう。

そして「孤独」
なんだかんだ、誰も私の話なんかまともに聴いてくれない。
存在をないがしろにされてる。尊重されてない。仲間がいない。

だから、「世の中がバカばっかりに見える」メガネ。
「誰も分かっちゃいない、みんな表面的なことばっかり話してる」
とイライラして身体が内側から燃やされてしまいそうに憤る。

そもそも、身体が疲れていた。
いつも頭痛と肩こりで。
でも、「運動不足の私がいけないんです。」
「これは運動をしない限り解決しないんです。」と思い込んでいた。
スキンシップ、骨盤矯正、身体を緩ませる施術、いざという時の頭痛薬。
そういう対処は自分には無関係と思っていて。
たまに整体に行くくらいで、あとは全部自分のせいだから
他人や薬のお世話になって治すようなものじゃないと思っていた。

今思えば、頭痛肩こりがひどいのにワクワクと前向きになるのはそれだけでかなり難しい。そこを無理やり頑張っていればどんどん余裕もなくなって当然だ。ひとまず体調だけでも整えれば良かったものを、その頃の私には「自分をケアする」という発想自体が無かった。

自分のことなんか整えてる場合じゃない。
もっと大変な人がいるから。
私のは、単に私の努力が足りてないだけなので。
自業自得なので。。。

こんな風に精神論で自分を追い詰めていった私。
でも、主にヒステリーという程度で済んだ。
心の中の棚卸作業を少しずつ少しずつ進めてきて
最終的にグレタ・ショックで最終的な沈殿物まで巻き上げられて
もう今では、孤独や無力感含めた症状も、ほぼゼロだ。
時に感情が揺れることがあっても、整え方が自分で分かってきたし
無理の無い範囲で、新しいやり方にも挑戦できる余裕がある。

いろんな人に助けていただきながら
「自己表現」をして「受け止められて」きたことで
ひしゃげた自分がもう一度ふくらんで
「さぁ自分らしく生きていこう」と元気に歩き出せたんだ。

めでたし、めでたし。

+++++

でも…でもなぁ…
なんだかんだ家族の絆も深くていろいろ恵まれていた私ですら
ヒステリー、うつ、恐怖、無価値感、孤独、見下す感情
こんなにいろんな症状が出たんだよ。
もっと過酷な環境にいる人なら
別の形で外に出ていくとは考えられないかな。

いじめ、虐待、ハラスメント、自殺、うつ、引きこもり
暴力、無気力、殺人、差別、ヘイト、虐殺、戦争、独裁、性暴力
さまざまな断絶、対立、不毛な議論、孤育て、薬物等への依存
果ては、気候変動、エネルギー問題、貧困etc

どれくらい深い痛みを
どのくらいの量
どれほどの期間
かかえていたのか
そんな「抑圧されているもの」の中身も人それぞれだし
それを抱える器であるその人の持って生まれた性質も
その人が置かれた環境も様々。

だからこのくらいならヒステリーで済むけれど
これ以上になると殺人するかもしれません

のように数値化して客観的に評価することができない。

その人の心の中にある「主観」の世界の中で
「あぁこれはもう抱えきれない」とキャパオーバーになった時に
どうしてもそれが外に出てくる、ということでしかない。

私が、些細な喧嘩を理由に風呂場で叫んで地団駄踏んでいた時
他人が見たら「うわ、なにこの人…頭おかしい…」という姿だったと思う。
でも、何かを溜め込むということは
そういう「頭おかしい」部分を自分の中に持つということなんだな。
自分のヒステリーを見つめた中で理解できた。
虐待する親も、凶悪殺人に手を染める人も
そういう意味で、私と同じ地続きにいる人。
「あっち側」なんて無いんじゃないか。
「こっちもあっち」も無いんじゃないか。

「私ヒステリックだなと思う人」と聞かれ手を挙げた時に、
「ヒステリーはダメですよ。
絶対出さないでください。
すぐに治してください。」
なんてもし言われていたら。
「私って、なんて弱くてダメなんだろう。
半数の人はヒステリーにならないで済むくらい強いんだ。
偉いな。もっとがんばらなくちゃ」
なんてもし思っていたら。

私は、自分の中にあった「抑圧されたもの」
を外に出した方が良い、出して良い、ということを
肯定できずにさらに押さえ込み、
その先まで…たとえば暴力や虐待にまで、手を出していたかもしれない。
そうならず、紙一重のところで、ヒステリー程度でおさまったのは、
「あなたの中に抑圧されたものがありますよ」つまり
「抑圧されているわけだから出てきて当たり前(だから出しちゃいなよ)」
と聞こえたその時の先生の言葉があったから。


画像1

(UK, London)

+++++

「みんな仲間だよってことで、お互いに祝っちゃおう、楽しんじゃおう。
あるいは、嘆きのアピールに耳を傾けあい、人知れぬ頑張りを讃え合おう。
お互いの文化や背景や世界観を、『そういうのもあるんだね』
て受け入れ合うことにしよう」

だって

「みんないろいろあるけど、その形も大きさも種類もさまざまだよね。
それをひとつひとつ、表現したらいいんじゃない?
だれかの参考になるかもしれないし、だれかの励ましになるかもしれないし、何より自分の胸の内がスッキリするもの。
スッキリしていた方が、人の幸せを喜び、人の不幸せを悲しむ
そういう素直な自分でいられるんだよ。
物事がねじれないで済むのよ。
やさしい世界になるのよ。」

前回の締めくくりに言い訳がましく書いた言葉。
実はこれ、私のためだけじゃなくて
いろんな人のことを思いながら書いた。

人の心も物事も、自然のままにしてたらいくらでももつれていく。
毛糸も輪ゴムもイヤホンもネックレスも、
雑に置いといたら壊滅的にこんがらがって
救出不可能になっちゃうあれと同じで。
だから、もつれ無いように、
毛糸は玉にする、
輪ゴムはそろえて引っ掛ける、
イヤホンは結んだり専用グッズで巻き取る、
ネックレスもケースに入れたりひとつひとつ分けて陳列する。

そんな「もつれ始めないためのひと工夫」をすると、
救出不可能な事態を避けやすいし、
そのものの良さを最後まで最大限保つことができる。
だからその存在が活かされる。

人の心もそれと同じで、
「ひとつひとつ分けて」
「それぞれの形がひしゃげないように大切におさめる」
というひと工夫を心がけているともつれづらくなるんじゃないかな。

「ひしゃげないように」というのはつまり
「抑圧しないように」と同じことだ。

そして心がもつれていないから「物事がねじれない」で済む。
おかしいことはおかしいし
嫌なものは嫌だし
美しいものは美しい
と誰もが自由に思ったり表現できる。

ひとりひとりが
肩書きとか年齢とか有名か無名かとか関係なく
誰でも、素直に、自由に、まっすぐに
「自己表現」できていて
それを「受け止め」合っていられたら。
この「自己表現」+「受け止められる」の対があったら。
「心をもつれさせ始めないためのひと工夫」として
これほど効果的なものはないんじゃないかと思っている。

特に、胸の内に「嘆きや痛み」を抱えた人にとって
「自己表現」+「受け止められる」の対は
自分の心を治癒していくために絶対必要と言っても良いくらい大切なもの。

けれども、現実では

「おかしいじゃないか」
ーは?おかしいとか批判してる人の方がおかしいし。

「辛い」
ー辛いのはみんな一緒だよ。みんな頑張ってるんだよ。

「しんどい」
ーあの人はこんなに頑張ってるよ。なんで君だけできないの。

などと、
「嘆きや痛みの自己表現」が片っ端から潰されて
「受け止められる」ことなく
封じられてしまうことが多いのではないかな。

私自身、何度も、自己表現を受け止められずに、
封じ込めるしかない経験をして、
その都度無価値感や怒りを感じてきた。
「感じた」と意識する時はまだよくて
無自覚に封じ込めるのを続けると
じわーーーっと足元から無価値感が増していく。
だって「おかしい」と思う私の気持ちを認めてくれないということは、
私という存在自体を無視されたのと同じこと。
「そうだねおかしいね」と言わなくてもいい
「あなたはおかしいと思うんだね」と聴いて欲しいだけなのに…
と、悔しくてさみしくて涙が出たことも何度もあった。
そういう時は、「私の自己表現を封じようとした人」
のことをとても憎らしく思った。

でも今になって思うのは
「封じようとした人」もまた「封じられてきた人」だったかもしれない
ということ。
たとえば、弱音は許されない、と自分を鼓舞して頑張ってきた人
そしてある程度その頑張りが報われて今の立場を獲得できた人にとって
そのモノサシはすごく大切で、崩すのはとても難しいのだ。
「別に頑張らなくてよかった」とか
「もっと助けてもらってよかった」とか
「その頑張りが報われてなくても人には価値がある」
なんて今更言われても、かえって辛い。
その人の半生を否定された、という感覚にならずに
新しいモノサシを受け入れたり今までのモノサシを手放したりするのは
すごくすごく難しい場合がある。
そんな風に相手には相手の事情があるのだと
私なりに歳を重ねながら分かってきた。
社会から孤立した人が、自殺・虐待・犯罪etcの方向に爆発してしまうのも、社会的に羨ましがられるような地位にいて周囲からの人望も厚かったような人物が突然ひどいハラスメントで訴えられたり凶悪な性犯罪に手を下したりするのも、なんだか理解できる気がしてきた。

「みんな頑張ってるんだから。
あなたの本当の感じ方なんて知ったこっちゃないんだよ」

こう言われながら、言いながら、四面楚歌になった人たちが
抱えきれなくなったものをどこかで爆発させた結果が、
悲しいニュースにつながっているんじゃないだろうか。
私にはどうしてもそう見えてしかたない。

だから、私は、
「自己表現」を誰もができてそれが「受け止められる」安心な場所
が誰にとっても必要だと思う。

で、それに一役買っているnoteというサービスは素晴らしい。

+++++

今、
「自分らしく生きよう」
「好きを仕事にしよう」
「大丈夫、あなたにもできる」

なんてことがすごく言われる時代だ。
その考えに、基本的に私も大賛成。
「自分らしく生きたい」と私自身すごく思っている。

でも、そういう言葉が語られる時、なんとなく
「新しい強者像」を見せつけられているだけのような気がして
かえって怖いような疲れるような気がする時もあったりする。

上を向いて、前へ前へ、キラキラと、進んでいかなければいけない。
いつもワクワクと楽しんでいなくちゃいけない。
それができる人しかこれからの時代は生き残れない。

呪縛がなくなるのではなく、新しいルールが呪縛になるだけ。
勝者と敗者が入れ替わるだけ、そんな、無慈悲なメッセージに思えてしまうことがある。

それから、
「自分らしく」を探求する準備が環境的に全く整っていなかった
20年前の自分なら、今のこういうスローガンたちは単純に
「自分勝手でワガママな人たちのたわごと」
くらいにしか響かなかったかもしれない。
あまりにも自分から遠くて、
「山の向こうからお囃子が漏れ聞こえてくる…
そこでお祭りやってるってわかるけど
自分の家からは遠すぎて絶対参加できない」
みたいな感覚。
だから感情的に
「なんだよあいつら。勝手にお祭り騒ぎしてろ」
ってやっかみながら拒絶してただろう。

「自分らしく生きよう」
「好きを仕事にしよう」
「大丈夫、あなたにもできる」

これは、とっても大切なことを言っているのだけれど
語られ方がハイテンションすぎたり、言葉足らずだったりすると
急激に圧迫感が強く本質からずれたメッセージになってしまう。
一見、すべての人を励ましているようでいて
けっこう、焦燥感や疎外感をも与える言葉なんだ。

じゃあ、どうしたら、

20年前の私のような
それを拒絶したくなるような環境(心理状態)の人にも
優しく届くだろうか。
今の私のようにな
「基本的に同意見だし自分らしく生きたいと思っているにもかかわらず
なんだか新しい呪縛を与えられているように感じて疲れる」人
にもすんなり届くようになるのか。

+++++

「多様性の時代」と言われる21世紀。
望みや喜びも形も多様なら、嘆きや痛みの形も多様だ。
その深さも大きさもまた人によって違う。
でも、「やりたいことや好きなこと」
の多様性はフィーチャーされやすいけれど
「嘆きや痛み」の多様性や、それとの付き合い方は、
「障がい」とか「病気」とか特定の事情を抱えた人に限ったこと
としてしか語られていないような気がする。

でも、本当はどんな人にも何らかの「嘆きや痛み」があるのでは。
そして中には、特に大きな困難を通過した経験があり、ひそかに
ひとりでは抱えきれないほどの「嘆きや痛み」を持て余している人もいる。
私の中にも、あなたの中にもそれがあっておかしくない。
だから、きちんとそれに目を向けて通過する

クサイモノから
目を背けたり蓋をして抑えたり封じ込めたりしないで
きちんと目を向けて光を当てて風を通して
むしろ堂々と手のひらにのせて眺め回して
陽のあたる場所において
天日干しするくらいの感じで
「大切に」扱うからだんだん余計なものが落ちていって
最後はきれいに風に吹かれてしまう

だから、卒業して笑顔になり再生できる
それでやっと、「自分らしく」のスタートに立てる

そんな過程を、特別なこととしてではなく
誰もが必要とすることとしてもっと大切にできたら、
「自分らしく生きる」
がもっと優しい言葉になっていくんじゃないだろうか。

この世界はすべて表裏一体。
陽の裏には隠がある。
喜びや笑顔の裏には、嘆きや痛みがある。
光だけを見て影を無いことにするんではなくて
影があっての光なんだ。
正午にてっぺんから降り注ぐような強烈な光ほど濃い影を作るけど
1日の始まりと終わりに横から差し込む柔らかい光が作る影は淡い
光と影はそんな風に一体のものだ。

だから、私は「自分らしく生きる」がもっとやりやすくなるように
誰しもが十分に嘆き、痛みを大切に乗り越えていけるような
そんな世界になったらいいなと思っている

じゃあどうしたらそんな世界が実現するのか。

「嘆きや痛みから再生するプロセスを大切にして自分らしく生きる」
が当たり前の世界に、どうしたら近づいていくのか。

それを探求していくことが、私のシゴトだ。
なぜなら私自身も、そのプロセスを通ってきた一人であり
そういうプロセスを通過している人たちを観察する機会にも恵まれ
今、自分の子育てや保育等の体験からも
このプロセスを必要としている人の存在を実感しているから。

この探求は、
子育てしながらでも、
オフィスワークしながらでも、
現場で汗流しながらでも、
どんな時でもできるシゴト。
人と人が関わる場がある限り
いつでもどこでも
「こんな時はどうしたらいいかな」
と問いかけ試行錯誤してみる、
まぁ私の人生の研究テーマみたいなもんだ。

個人的な、たった一人の、心の中の事情を掘っていくことは
実は社会全体・地球全体の幸せにもつながっていると思う
だから、めちゃくちゃ小さいことを見つめながら
とっても大きいことにも影響を与えているような
やりがいのあるシゴトだと思って
私はわくわく取り組んでいる。

このnoteでそれについてあれこれ書くことで
シゴト仲間が増えたらすごくうれしいな。

画像2

(Portugal, Lisbon)

この記事が参加している募集