私記13(古い家の世話)

 台所の床下収納の蓋が抜けてしまって、木のささくれや金具の尖りが飛び出して危ないことこの上ないので、母がホームセンターで木の板とマットを買ってきて敷いた。床が歪んでいるのか、板の大きさが合わないのか、歩くたびにガタガタいう。
 もう五、六年もまえになるか。二人も入ればいっぱいの狭い台所である。

 今日、その板と組み合わせ式のマットをはずして、外へ持ち出して洗った。
 このあいだ自室でなにかの幼虫に出くわし、もう死んでいたが、嫌すぎて泣いたのである。部屋の中でみる虫はなぜあんなにも無理なのか。飾っていた桜の枝から出たものとあたりをつけ、枝は処分して人心地がついたものの、こんな邂逅は二度とごめんなので、家の中で出そうな場所をつぶして回ろうと思い立ち、手始めに最も危険そうな台所というわけである。

 板もマットもよい思いつきなのだが、どうしても後付けのものだから隙間ができ、その隙間にごみがたまるし、台所の床だから油やら何やら飛んでいる。濡らしたボロきれでがしがし磨くと黒い濁りが滲んだ。流しても流しても汚いのでやりがいがあった。重曹とか激落ちくんとかを試してはみたが、水で力を入れて磨くのがいちばん効果があるようだった。

 昨日、下駄はいて長く歩いたので、外腿に筋肉痛がきていた。月一のやつで腰もだるい。そもそも体力がないから腕がすぐにへろへろに疲れる。けれどもたまにそういう状態になってはたらくとはたらいている感じがした。汗もかいた。スマホで音楽を流して、大声で歌いながら作業した。風も日差しもじゅうぶんで、洗うそばから乾いたので、爽快なものだった。

 古い家のいいところは「ボロきれ」があるところだ。正確に言えば、ボロきれ程度のものたちーーあきらかな不要物ゆえに役立つ時があるものたちは、ちょっと探せばわんさと出てくる。そこに時間を持て余した人間がいれば、仕事は無限にある。無駄が無駄な仕事を生んでいるといえばそれまでだが、生まれたときから面倒をみてもらった家だ。

 近く出るつもりでいるが、新しい家で暮らし始めたとして、いざというときボロきれがなくて、ああ、と思ったりするのだろうか。よくわからん紐とか。新聞をとらなくて困ることは少なそうだが、新聞紙がなくて困ることは思いつく。
 そういえば最近、裏が白いチラシって見ないね。わたしがチラシを点検しなくなっただけだろうか。今の子どもたちも、裏の白いチラシを見つけたら、しめた!と思って落書きに使うのだろうか。これからの親たちは新聞を取らなくなっていくだろうから、チラシで遊ぶ子どもも減っていって、裏白に「おっ」と思う人も減っていくんだろう。それが寂しいとかではまったくない。

 それなりに楽しく働いたけれども、わたしはたまたま気が向いてやってみたに過ぎないので、こういうことを日々繰り返してやっている人は本当に偉い。くたびれて部屋に寝そべっていたら、
「いつもだらだらしてるのに急にめちゃくちゃ働くよね」
と妹に言われた。妹が淹れるコーヒーはおいしい。これも繰り返しの訓練のたまものと思う。

 

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います