世界一好きな人結婚したあとのオタクから

 藤原さんの結婚報告にめちゃくちゃ舞い上がって一日過ごし、そのあといろんな人の反応を知ってすこし考えたことをまとめておきます。だれかの役にたつかもしれないし、わたしも持っておきたいから。きのう話しながら整理したことをきれいにして書きます。


 自分の話からしますね。わたしは好きな人がいっぱいいるのだけど、全員のことを全員特別に好き。比べられない。スモークサーモンと漱石の小説どっちが好き? みたいな話になる。人ごとにジャンルがちがうから全員好き。毎月会う友だちも、年に一回遊ぶくらいの友だちも、SNSでしか会ったことない人も、それぞれにみんな。だからだれかひとりと付き合うのが向いてない。藤原の結婚を100パー喜べたのは、わたしのこういう性質もあって、ひとりをとくべつ大事にすることができていいな〜って憧れもあったかもしれない。実を言うと自分は藤原リア恋だと思ってたから、1ミリも寂しくならなかったのにかえってびっくりした。それで、自分がこういうタイプのファンであり、こういうふうに人を好きになるやつだったんだと納得した。

 何が言いたいかというと、みんなマジで藤原のこと好きだよねって思った。わたしが彼を心からお祝いしたのは、物わかりがいいとか寛容だからではなく、ただ喜ぶタイプの人間だったってだけ。寂しかったり、ショック受けたり、お祝いしてる人を見てうるせえと思っちゃったりして、「心が狭いから」って落ち込んでる人をみかけたが、それはふつうに間違い。単にそういうタイプの人ってだけなので。逆に、ショック受けてる人が喜んでるだけの人に比べて愛が深いなどとも言わない。わたしは藤原を愛している自信があるので。いろんな大切があり、そこに優劣はない。違う人間なんだから違う気持ちでいて当たり前だ。藤原は生きて動いている人間として知らせてくれたんだから、こっちも生きて動いて、いろんなことを感じる人間として向き合えばいいと思う。良いファンはこうあらねばという自律が働くことはあるし、それもないがしろにできないことだけど、そのまえに、ひとりの人間で、他者をすごく好き、その根本のところがいちばん大事にされてほしいと思う。わたしは藤原をめちゃくちゃ好きだし、それぞれがそれぞれの形で、ちゃんと好きでしょ。大小はない。大丈夫だよ。悲しい気持ちでいるのがつらいなら、はやく抜け出せたらいいねと思うけど、でもそれだって自分にとっては好きでいる証ですよ。

 ちょっと反省したこともある。自分のこと茶化すのをやめようねってこと。よく「激重オタクなので」という前置きを使っていたけど(まあ客観的に見てそうなんだろうと今でも思うが)、かりに知らん人にそうからかわれたらすごく悲しい。いつからか予防線を張ってしまっていた。わたしが藤原を好きなのは、気ちがい沙汰とか内輪ネタではない。盲目でない、ファナティックでない、騙されてもいない。正気で、本気であの人のこと好き。その確固たる重量を認めてやれるのは自分だけだから、ちゃんと責任を持っておきたい。彼を好きでいることは大事なわたしの一部だ。それをちょっとでもコケにするような言い草は、今後、注意深くとりのぞいていこうと思った。「オタク」って言葉は使うよ、オタクには敬意を持っているから。なんにせよ、自分の愛に、ていねいに微細に、言葉をあたえていきましょう。


 それから、曲の解釈の話。「新世界」が奥さんに向けた曲なのでは?って感想がけっこうたくさんあった。いや違うでしょ!というのも。わたしは正直、「新世界」ができた動機には作者と大事な人との関係があったと思っている。でもそれがすべてではないし、正しい解釈とも思わない(そんなものはない)。解釈は自由で、ひらかれている。「僕」にも「君」にも何を当てはめて聴いたっていい。だったら、作った人を代入して聴くのも、ひとつの自由な解釈であって、ほかと比べて低級だなんてことはない。そういう楽しみかたもあるよ。実際、結婚報告きいたあとの「新世界」は、今までとは大きく違って聴こえてにやけた。それもまた、わたしと曲との関係の、固有の、大事な経験である。
 藤原の楽曲至上主義はよく理解している。でも「藤原がそう言ってるから」って理由でひとつの解釈が制限されるなら、健全でない。わたしは藤原をすごく好きだが、それと曲を好きなのとはちょっと違う次元なので、曲の解釈はすきにやらせてもらいます。もちろんこれは、彼が自分の経験を曲にするときの普遍化のレベルの高さ、その作詞家倫理の高さをじゅうぶんに認めてのこと。その上で、作者に引きつけて聴く聴き方もまちがってないと思っている。作者と作品が完全に切り離されるって、けっこうさびしいことだと、わたしは思っちゃうので。いやがられたら、ごめんとしか言いようがないのだが。

 もちろん、これを人に押し付けたり、これが正しいと主張したりは絶対しない。わたしが不毛だと思うのは、この曲はこう!と一つに決められてしまうことです。たとえば「リボン」や「流れ星の正体」は、バンプをずっとすきでいた人にとってはとても印象深い曲だけど、そのぶん、自分よりもバンドの文脈で曲を聴くことにとらわれている人も多い気がする(わたしもそのケはある)。とらわれているって言い方はよくないか。でも固定概念はあると思う。CMに起用されたときちょっとザワッとしたものね。ほかにも、「Fire sign」は藤原がますかわくんに贈った曲だとか、「ベンチとコーヒー」は同じくチャマに贈られた曲だとか、そういうエピソードが浸透してるけど、それを思い浮かべて聴くのはよくて、「新世界」はだめなんすか?という気持ちもある。だめじゃないんですよ。両方だめじゃない。そうやって聴いて、曲のこと好きになれるならそれでもいいじゃないですか。曲の解釈はファンの占有物でもなんでもないんで、だれがどう解釈したっていい。いいというか、わたしが「いい」などと許可するまでもなく、そういうもんだから。心配ないですよ。いろんな解釈を共存させる懐と、すべて自身の経験に変えていける芯の強さを、バンプの曲は持ってると思う。
 曲を聴いてて、そんなこと考えたくないのにチラついて嫌だという人もいるだろう。一回距離をおいたらいいと思います。共感はできないが、時間が経っても変わらないのが音楽のいいとこだ。バンプは待ってるのもきっと得意だ。

 何がいいたかったかというと、自分の気持ち大事にしましょうってこと、他人の気持ちも同じくらい大事にできたらいいね。白タキシードの藤原さんは見たいです。おしまい。


本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います