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aurora ark観ました

 発売日に受け取っていたけど持ち前の腰の重さでなかなか手をつけずにいたバンプのライブDVD。やっと観た。11/4の東京ドーム。
 今まで、映像作品の感想をまとまった文章にしたことはない。でも気づいたら書き出しているのは、残しておかないといけない、何か大事なものを感じたってことなんだろうから、とりあえずは書けるまま書いてゆく。

 一年前は、幸いなことに友だちがチケットを当ててくれて、しかも花道の真横の席で、しじゅう興奮し続けだったせいで具体的なことをあまり思い出せないので、映像になるのは単純にありがたかった。

 でもやっぱり、生で観るのと映像で見るのとは全然違う。優劣じゃなくて、当日は楽しいだけだったけど、今日改めて観て思い出すこともあったし、初めて感じることもあった。単純にメンバーの表情や手元がはっきり見えるのは映像の良さだ。それで歌も違う聴こえかたをする。あと、お客さんの表情。ライブ映像っていろんなの観るけど、わたしのばあい、どのバンドのものでも、ステージを見てるお客さんの顔にいちばんぐっとくる。泣いてたり笑ってたり。古い曲が始まったときの歓声とか。この曲好きなんだろうなとか、この曲楽しかったよねとか、わかるよ〜と思うと涙が出てしまう。その場にいて入り込んでいるときは他の人を見てないから気づかないけれど、こうやって映像になって、一歩引いて見てみたとき、あの空間全体のいとしさが身に迫ってくるのかもしれない。ちょっとだけ、もしかしたらこの空間は、永遠に失われてしまったんじゃないかって、その寂しさがよぎらなかったわけではないけれど。


 一曲目が「Aurora」だったのはとても象徴的だった。ツアータイトルにもなっているから、重要なポジションの曲であることはよくわかっていたけれど、歌が始まったとき、ああそうかあと全部つながったように思ったのを覚えてる。

もうきっと多分大丈夫 どこが痛いか分かったからね

 バンプのライブに行くと許されちゃうんですよね。全部。ここにいるだけでいいよと言われている。みんなそれぞれ生活のあいまにライブに来ていて、今までもこれからもいろいろあるけど、とりあえず今みんなここまでは辿り着けたんだよと、なにより最初にそのことを確かめ、祝われているような気がするのだ。ちゃまが最初のMCで「もう毎日嫌なことばっかで生きるのめんどくさいってひとも、そのままでいいよ」と、楽しんでとか忘れてじゃなく「そのままでいい」と言ったのはすごく、バンドの姿を体現した言葉だったとおもう。「もうきっと多分大丈夫」で始まるライブ、本当に素敵。わたしはその記憶に護られているのだった。


 いちばん泣いちゃったのが「真っ赤な空を見ただろうか」。あれも当日は楽しいだけだったから、今さらこんなに刺さるのかと驚きはしたけれど、昨今の自分自身を省みればまあ当然という気もする。

言葉ばかり必死になって やっといくつか覚えたのに
ただ一度の微笑みが あんなに上手に喋るとは
理屈ばかり捏ね回して すっかり冷めた胸の奥が
ただ一度の微笑みで こんなに見事に燃えるとは

 言葉にすれば「共感」ということになるけれども、もっと痛々しい。「言葉ばかり必死になって」「理屈ばかり捏ね回して」をやっている自分がはっきり見えてしまったのだと思う。自分のいまの状態を「爪先で立つほんとのガキ」と言い当てられてしまった。こう書くのも恥ずかしいぐらいだが、音楽について書けばどのみち自分が暴露されてしまうのでしかたがない。タイミングが合った音楽というのは、どうしてこうも的確に深層を突いてくるのだろう。
 わたしはわたし自身にとっての「ただ一度の微笑み」を持ち得ているかどうか、そちらには自信がないけれど、この曲をいま聴けてよかったなと思った。そういう形で自分の位置を照らしてくれるときもある。


「真っ赤な空」のイントロもそうだったけど、全体的にメンバーがとても楽しそうだった。「Butterfly」はとくにそう。最後のボーナスタイム大好きだが、あれはどの客よりも四人が楽しいだろうな。「新世界」もそうだ。楽器を演奏するのも、お客さんとコミュニケーションを取るのも、気心知れた友だちと一緒にいて楽しいっていうのも、みんな入っているような柔らかい表情がとても良かった。やっぱり演奏者が楽しそうだとこっちも嬉しい。

 藤原さんの目がよく写ってたのが嬉しかったな。彼の佇まいはとても開放的だった。ひとりだけ白シャツだったのもあり、強い光が当たるとマジの神みたいになっていたのが洒落にならなくて笑ったけど、「GO」のイントロで彼が流れるように「メロディーフラッグ」を歌い出したとき、それがほんとうに、身体の制御とか脳髄とかを飛び越えて流れ出してくるようで、ああそうだ心がメロディーでできているひとだった、と。歌詞をするっと変えるのも、彼が自意識でそうしているというより、気持ちが溢れて出てきちゃったという感じがする。
 そういう人が存在するってこと、うまく言えないけど、大切にしたい、尊いことだと思いますね。それほど音楽と一体になっちゃったような人が、有限の身体のもつ時間を使って、わたしたちにむけて歌ってくれること、聴いてほしいと言ってくれること。当たり前じゃないなと思う。
(こういうオタク視点で見ると「Spica」の演出はやっぱりかなり重いオタクの所業に思われてヒヤ…とする。藤原に大樹を背負わせるんじゃないよ…)


「流れ星の正体」が本編のラストだった。この曲はたしか、藤原さんがビーパスで持ってた連載が終わったのをきっかけに作られて、時を追ってちょっとずつ公開されていって、アルバムに収録のもので完成になったのだった。そのとき初めて公開された最後の部分は、今までにない直接的な呼びかけだった。

太陽が忘れた路地裏に 心を殺した教室の窓に
逃げ込んだ毛布の内側に 全ての力で輝け 流れ星
お互いに あの頃と違っていても 必ず探し出せる 僕らには関係ない事
飛んでいけ 君の空まで 生まれた全ての力で輝け

 正直に言うと、この部分をどうとらえてよいものか、わたしにはわからなかった。バンプが自分たちのリスナーの姿を明確に限定したことに戸惑ったし、「僕らには関係ない事」と言いながら、そう言うことで「僕ら」がまさに曲の中に登場してしまう、それは矛盾ではないか?と感じたためだ。

 矛盾ではあると、今でも思う。けれども、そうまでして歌いたかった、どうしてもこんななまの形で歌われねばならなかった思いが、あるのだろう。ライブでのあの歌いぶりを見ていれば。

 彼らが音楽をつくり奏でることの動機に、ひとを救おうとか助けようとかが、あるのかどうか、わからない。でも、彼らの曲はたしかに人を救ってきた。たぶん彼らの思う以上に、広く深く、ともすれば恐ろしいぐらいの強さで、人を救ってしまってきた。それが彼らの歌の大きな自立性だった。
 二十年以上もバンド活動をしてきて、聴き手とコミュニケーションを取っていく中で、彼らはだんだん気づいていったのだろう。自分たちの音楽が、路地裏にいる人や、教室で心を殺している人や、毛布の中に逃げ込んでいる人に、必要とされていること。
「流れ星の正体」が聴き手を限定する形をとったのも、「僕らには関係ない事」とわざわざ言わなければいけないのも、そんなつもりじゃないのに救ってしまうことをひとまずは引き受けて、そんなつもりがあるかどうかはまず二の次にしておいて、なりふりかまわず、とにかくいまは、暗いところにいて苦しんでいるあなた、あなたに、届いてくれと、いうことだったのかもしれない。他のところは関係ない、僕ら自身も関係ない、曲の全ての力は、今あなたのためだけに輝くのだからと。そういう必死さ、まっすぐさ。
 うまく言えている気がしないけど、ひとを救うとか助けるとか力になるとかがはらむエゴを、音楽は飛び越えるんだと知った。藤原さんが最後に話してくれたことーー今日のおまえが未来のおまえを助けるはずだと、その手伝いをするために自分は歌うんだと、気づいてもらえなくても音楽は絶対にそばにいるんだということーーは、ひとを助ける音楽のちからと同時に、音楽にすなおに助けられることができるひとのちからにも、及んでいたと思う。
 自分のそばにいる音楽に気づくのも、音楽に勝手に助けられるのも、そのひとのちからなんだろう。なくさないでいたい。

「バンドのかっこいいとこ見せてやろうか」「おれのバンドかっこいいだろ?」って、もうめちゃくちゃしびれますね。おまえのバンドかっこいいよ。総じてたいへんよかった。またライブに行きたいね。何も考えずにそう言う。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います