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光の一滴(ひとしずく)41『高次の愛って何ですか?⑬』
2020年9月1日 眠りながら。
『そなたの役目はなんぞ。』
――――家族を生かすことです。
『さにあらず。本来の役目は何か。』
――――わかりません。
そして、大きなお堂に入った。そこは天井にも仏画?がびっしりとあって、宇宙を現わしているようでした。
『これは宇宙である。日常を生きながら、宇宙を感じてみよ。
どちらも必要なのだ。そこに至ればわかるだろう。』
今はこのことがよくわかります。
生身の肉体を持って生きている以上、物質世界、つまり日常生活は不可欠です。精神世界を心の世界とするのなら、肉体の世界とも言える物質世界、日常生活をおろそかにすることは、精神世界の探究を危うくすると思います。
でも私ときたら、昔からついつい不思議や宇宙に偏りがちでした。
この頃もまだ、鍛錬して能力を磨くことが安定させることだと思っていました。次第に視点が宇宙に飛ぶ時があって、それを形にしている間は自由自在で楽しいのですが、そうしたスピリチュアルな活動と家事や日常とがどんどん乖離していきました。
日常に戻ると、ドサッと落ちてくるような落差があり、とてもしんどくなりました。でもある時『法力』ということを教えていただき、とても気が楽になりました。
『法力』というのは、お釈迦様が大悟なさった時に、精神性が神仏のものとなり、同時に神仏の能力が開花して得たとされる超能力のことだそうです。
これは、能力を磨くのではなく、精神性を高めていくうちに全体が底上げされて見晴らしが良くなるというもので、能力を磨く能力主義とは大きく異なります。全体が底上げされるので、高転びということがありません。
一方、能力を磨くというのは能力主義というもので、そこだけが突出している場合が多く、言わば竹馬と同じです。高くなればなるほど、不安定ですね。私は大きな勘違いをしていることがわかりました。
それから徐々に落差が無くなり、そのうち一つながりになって、本当に楽ちんなりました。
また、先生にいろいろとお尋ねするうちに、自分なりに仕組みというものがおぼろげにつかめてきた気がして。
でもなかなかはっきりと全容はわからず、焦ったりしました。そういう時「非力な自分という見方をしてはいけない。それぞれの個性で無限の可能性を持っている。道は開けるよ。」といつも先生が励ましてくださいました。
3年近く、いろいろ教わりました。今は卒業して、学んできたことを日常で体験し、確認しながら歩みを続けています。
本当にありがたく感謝してもしきれません。
焦らず、一歩一歩、ですね。
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