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両親についての考察〜自分の感情をまとめるために〜

 私は高校生だ。何を偉そうにと思う人もいるだろうが、両親が自分よりずっと幼い小学校低学年ぐらいの知性(学力的にという意味ではなく人間として)しかもっていないように度々感じている。両親の行動の何が私にそう思わせているかというと、大きく2つある。

一つは感情をコントロールする力が著しく欠けていること。簡潔にいうと、特に父親が怒りをコントロールできないということ。母もそのような傾向があるが、楽観思考なので怒りはすぐ忘れることが多い。私は怒りの感情を持つなといいたいわけではないし、多少怒りがあるからこそ人間の感情の多様性があり、だからこそ人と関わることには深みがあるのだと思う。ただ、特に父の悪い点は、自分自身を一切顧みようとしない点だと思っている。怒りの後、相手の悪い点だけでなく、自分にも何か改善できるところはなかっただろうかと自分で考えてみるということが自分自身の成長のためには必要じゃないかと思う。これは宗教的な意味合いでも自己啓発的な意味合いでもなく、人として。

一時期、この私の考えを伝えたことがあったのだが、それは失敗に終わった。ただ、それは当然といえば当然なのかもしれない。世の中にはさまざまな人がいる。客観的に自分を顧みることができる人がいるなら、もちろんそうではない人もいる。本人は私の言っている意味合いを全く理解できず、むしろ悪口だと捉えていた。今となって思うなら、そういう人はもうしょうがないと思う。言葉は悪いけれど、もう両親に干渉することは諦めている。人によって考え方や生き方は違うし、相手も一人の大人なのだからと思って、この数年で適度な距離感を置くようになった。物理的な距離感は何も変わっていない。父親とも母親ともよく外出する。そして高校生だが、特に反抗期はない(反抗期があったほうがいいというのは聞いたことがあるが、私に反抗心が沸き起こってこないからしょうがない)だが、両親は気づいていないかもしれないが、心理的にはだいぶ距離を置いている。両親に個人的な悩み事を話すことはないし、趣味の話もあまりしない。私の好きな曲も好きな映画も好きな本もほとんど何も知らない。そもそも、両親に話したいと思わないのだ。

二つ目の理由は、両親が何の目的も持たずに、ただ毎日働き、ご飯を食べるというような一次的欲求を満たすためだけに生きているように感じること。ただ、両親のような人は別に普通なのかもしれない。学生の頃は夢を持って生きている人が多いと思う。私もその一人だ。だからこそ、両親の生き方を見ると幻滅するし、言っちゃ悪いけれど「何の目標も夢も持たずに生きているなら正直いつ死んでも同じくらいつまらない人生じゃない」と感じる。ただ、この私の意見は両親には伝えないと決心している。あくまで両親は両親の人生を生きていて、その自由は保障されるべきだと思うから(犯罪行為までいくとそうはいかなくなるが)

この主に二つの思いを両親に対して抱いている。このことから私自身が考えたこと。それはこれを両親への愚痴で終わらせてはいけないということだ。両親から学べること、つまり反面教師的な意味合いで学べることがあるはずだ。そして何よりも両親は私のことをこちんと育ててくれ、私のために多額のお金を費やしてくれている。これはれっきとした事実である。完璧な人間はほぼいない。両親だって昔は子供だったわけだし、時間が経ったから物理的に大人になっているだけ。

(長くなってきたけれど、あくまで自分用のnoteなのでこのまま続けます)

かくいう私にも欠点はある。その一つが冷静すぎる点だ。両親の欠点を学んでか、まるで真逆の性格だ。私の文章にその冷静さが顕著にあらわれているかもしれない。両親と似たような癇癪持ちになるよりは遥かにましだと思うが、冷静すぎるのもあまりよくないのではないかと最近思う。あまりにも冷静で客観的すぎるおかげで、同級生のテンションについていけないことがよくある。何人か、私と似たような温度感の同級生がいて、よくそういう子たちと一緒にいる。もっと友達の幅を広げるほうがいいかなと思って、ハイテンションな同級生とつるんでみることがある。ただ、やっぱり私にはついていけない。友人関係はまあ今のままでいいかなと思うのだが、私がなぜ自分の冷静さを心配しているかというと、いつしか感情をもたない人になってしまうのではないかという恐れが心のどこかにあるからだ。

両親いわく、私は小さいころからよく人見知りをして、「かわいいね〜」と声をかけられてもいつも笑わなかったらしい。思い返したら、幼稚園のときも小学校のときも同級生の遊ぶテンションについていけなかったし、なぜ同級生がプリキュアやアニメなどにはまっていて、ごっこ遊びをして楽しいのか理解ができなかった。私の性質には生まれつきのものもあるのかもしれない。

これらのことから考察できること、それは様々な人がいるということ。そして、必ずしも全てのことが矯正できるわけではないし、むしろそうするべきでないこともあるかもしれないということ。世の中にはいろんな哲学や宗教があり、それぞれがそれぞれの生き方についての教えをもっている。それと同様に人々は様々な信条をもっている。その反対に信条を持って生きないという人もいて普通なのかもしれない。


話がまとまったのかまとまっていないのかはよく分からない。前回通り脈絡のない話の進め方だったが、読み手を全く意識せずに思いのまま書いているのでご了承を。なぜ今日こんなことを書いたのか。それは察しがついている人もいるだろうが、両親との(正確にいうと父親との)出来事が今日あったから。私は感情を露わにすることはないし、今日もとても冷静だった。その代わり、私は書くことで自分の気持ちを整理するタイプなのだと思う。その証拠といってはなんだが、小学校6年生のころからずっと日記を書いている。その習慣のおかげもあって感情のコントロールは比較的得意なのだと思う。この今の思い、今の自分を大切にしてこれからも生きていきたい。